ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの音楽と初めて出逢ったときのことは、今もはっきりと憶えている。それは、1961年4月。私が小学3年生になった日、始業式のあった日の午後のことだった。
京都祇園町の商店街にある小さな電器屋に生まれ育った私は、その日、学校から帰るとまず、店の様子が変わっていることに驚かされた。
入り口にある14インチの白黒テレビや電気冷蔵庫や電気洗濯機の並んだショーウィンドーはいつも通りだったが、一歩店のなかに入ると四本脚の家具のような茶色の四角い大きな箱が鎮座ましましていた。おまけに、その箱から流れ出した大音量に仰天した。 ♪ジャジャジャジャ〜ン……
「新しいスーパーフォニックちゅうステレオや。スゴイやろ」と、ステレオの前に立っていた元帝国陸軍軍曹の親父は、ビール腹を突き出して誇らしげにその機械を自慢した。
が、私は、ただただ ♪ジャジャジャジャ〜ン……という大音量に身震いするほかなかった。
これは何だ!? これは音楽か!? のちに大文豪ゲーテも仰天したということを知るほどの激しい音楽に、小学3年生の餓鬼がブッ魂消たのは当然かも知れないが、♪ジャジャジャジャ〜ン……という「音」は、当時耳にしていた ♪アカシア〜の雨がやむとき〜……とか、♪潮来〜の〜い〜たろ〜……とか、♪ティンタレ〜ラディルンナ〜お屋根のてっぺんで〜……といった歌とはまるで違う、学校の音楽の時間に歌う音楽とも違う、断じて音楽などとは呼べない、ひとことで言えば「強烈な音の大爆発と大洪水」だった。
まだパナソニックという名前が存在せず、ナショナルと称していた松下電器が、関西では「ナショ」と略して呼ばれていた時代の話だが、その「強烈な音の大爆発と大洪水」に興奮してしまった私は、ステレオの上部にあった蓋を開け、ターンテーブルに試聴盤のレコードを乗せ、その溝にアームの先にある細い針を下ろすことを身に付け、その日から毎日のように、「強烈な音の大爆発と大洪水」を繰り返し聴くようになったのだった。
《ベートーヴェン作曲交響曲第5番「運命」フリッツ・ライナー指揮シカゴ交響楽団》とジャケット(と言うより紙袋)に書かれた試聴盤の17pEPレコードでは、ほかに《ガーデ作曲「嫉妬(ジェラシー)」フィードラー指揮ボストン・ポップス管弦楽団》や《ハリー・ベラフォンテ「ママ・ルック・ア・ブーブー」》や《ニューパーカッション・アンサンブル「ブロードウェイの子守歌」》なども聴くことができた。またステレオで音が右から左・左から右へと動く様子がわかるピンポンの音や、汽車の音なども録音されていた。
しかし何と言っても私の心を(と言う以上に心臓を)鷲掴みにしたのは、「強烈な『運命』の音の大爆発と大洪水」だった。
その後「ナショ」のセールスマンが持ってくる試聴盤の数が増え、私の聴く音楽も、東京キューバンボーイズの『闘牛士のマンボ』や、原信夫とシャープス・アンド・フラッツの『ムーンライト・セレナーデ』や、三波春夫の『ちゃんちきおけさ』など、レパートリーが増えるようになった。が、ベートーヴェンの♪ジャジャジャジャ〜ン……は格段に次元の違う響きとして、心にも体にも、その奥のほうまで刻み込まれたのだった。
その年の夏休みには、さらに大きなショックを味わうことになった。
夏休みの一か月間を、京都の町のど真ん中の喧噪を離れ、兵庫県宝塚市の閑静な住宅街に住む叔父の家にあずけられることになったのだが、その叔父は、某音楽大学ピアノ科を首席で卒業したが戦争で腕を負傷し、満足にピアノを弾くことができなくなって、中学校の数学の教師をしているという人物だった。
その叔父さんに「どんな音楽が好きやねん?」と訊かれた私は、ちょっとエエカッコして、「ベートーヴェンの運命交響曲です」と答えた。すると叔父さんはレコードがぎっしりと並んだ棚のなかから大きな30pのLPレコードを一枚取り出し、私のリクエストに応えてくれたのだったが、それを聴いて改めて驚いた。
「運命交響曲」の「音の大爆発と大洪水」は3分間くらいでは終わらず、30分以上も延々と続いたのだ。
小学3年生には、途中少々退屈した部分もあったが、その都度新たな「大爆発と大洪水」が次々と立ち現れ、ついに最後には身体中にエネルギーが満ち溢れ、大声で叫び出したくなるような大興奮に包まれたのだった。
「フルトヴェングラーは凄いやろ」と、叔父さんが言ったことをを今も憶えているが、私は、まったく違ったことを頭に思い浮かべていた。 ベートーヴェンは凄い!
そう思った気持ちを正直に、「ベートーヴェンってホンマに凄いなあ」と口に出して言うと、叔父さんは、ハハハハハと大笑いして、昼間からトリスの水割りをガブ飲みしながらピアノの前に座り、♪ジャジャジャジャ〜ン……とピアノで『運命』の冒頭の和音を弾いてくれた……まではよかったのだが、翌日から苦痛の日々が始まった。毎日1時間近く、叔父さんと一緒にクラシック音楽を正座して聴かされるハメに陥ってしまったのだ。
♪ジャジャジャジャ〜ン……は「凄い!」と思えた小学3年生も、ベートーヴェンの他の交響曲やピアノ協奏曲やピアノ・ソナタを次々と毎日聴かされては、そういつもいつも「凄い!」と感じ取れるものではない。ましてや叔父さんが大好きだというワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』を聴かされては、小学3年生にとっては、ただのイジメどころか拷問にしか思えず、「これを最後まで聴いたら西宮球場へナイターを見に連れてったる」と言う叔父さんの言葉を信じて、『前奏曲と愛の死』も正座した脚の痺れを我慢しながら聴き終えたのだった。
ところがオモシロいモノで、拷問も繰り返されると快感に変わるものなのか、夏休みが終わる頃になると、♪ジャジャジャジャ〜ン……だけでなく、田園交響曲も英雄交響曲もオモシロいと思えるようにもなり、小学4年5年6年と毎年夏休みになると、泊まり込んだ叔父さん宅で自ら進んでレコード棚を漁り、ブラームスやモーツァルトまで好んで聴くようになった。
そうして中学生になった頃には、いっぱしのクラシック音楽ファンになった私は、叔父さんから借りたレコードを、親父に「ステレオの針が減るやないか。売り物やぞ。ええ加減にせい!」と怒鳴られるほどにまで聴きまくるようになったのだった。
小学生の頃には草野球仲間にクラシック音楽が好きなどと知れると、「おまえはシスターボーイか」などとからかわれる恐れから、まるで隠れキリシタンのような思いだったが、中学生になり高校へ進む頃にはそんな心配もなくなり、ベートーヴェンもバッハもハイドンもモーツァルトも、シューベルトもブラームスもマーラーも、シェーンベルクもショスタコーヴィチも……さらにワーグナーもヴェルディも、プッチーニもリヒャルト・シュトラウスも……、レコードを買って聴きまくるようになった。
が、面白いことに、と言うか、不思議なことに、いろんな作曲家の音楽を聴いて、モーツァルトが一番イイ! とか、マーラーが一番オモシロイ! ワーグナーも……と何度か思ったのだったが、その都度ベートーヴェンに戻ってきた。なぜかベートーヴェンの音楽を、いつも改めて聴きたくなったのだ。
釣りは「鮒釣りに始まり鮒釣りに終わる」と言うらしいが、音楽(を聴く)のは「ベートーヴェンに始まりベートーヴェンに終わる」ものなのか? 私の友人のなかにはハイドンしか聴かないという偏屈な人物や、モーツァルトを神様と崇めている人物、それに私の叔父のようにワグネリアンを自称し、ワーグナーの音楽を聴いてトリップする人物もいる。が、彼らに「一番凄い作曲家は誰?」と訊けば、やはりベートーヴェンと答えるに違いないと私は確信している。
なぜなら「運命交響曲」のように、完璧な数学的緻密さの構造を組み立てながら、理屈抜きに聴き手の心臓を鷲掴みにして全身を震わせてくれる音楽を創った作曲家は、他にいないだろう。また、ベルリオーズの「幻想交響曲」などに続く標題音楽を初めて創ったのもベートーヴェンなら、ミミファソソファミレドドレミミ〜レレ……と、誰もが簡単に歌える単純極まりないメロディを、大交響曲(第9番)にまで仕立て上げることができたのも、ベートーヴェンを措いて他にいない。
しかもラテンのカリオカ音楽のような楽しい楽曲(ピアノ協奏曲第1番第3楽章)も創れば、ポップスにもすぐに転用できる音楽(「エリーゼのために」→ザ・ピーナッツの「情熱の花」/ピアノ協奏曲第5番「皇帝」第2楽章→「ウエストサイド・ストーリー」の「サムホェア」)を創ったのもベートーヴェンなら、世界で最初のディスコ・ミュージックと言える音楽(交響曲第7番第4楽章を評したピアニスト、グレン・グールドの言葉)を創ったのもベートーヴェンだ。
さらにジャズにつながる音楽も少なくないことからジャズ・ピアニストの山下洋輔さんは、「ベートーヴェン黒人説」を展開しているほどだ(確かにかつてアフリカとの奴隷貿易が盛んだったオランダ系のベートーヴェンは、色黒と言われたらしい容貌と縮れた髪の毛から、黒人系というのもマンザラ信じられないことでもなさそうである?)。
完全で完璧な構成と同時に、これほど多種多様な柔軟性に溢れ、あらゆる音楽の発展を導き出す根源となり礎(いしづえ)となる音楽を創リ出した凄い作曲家は、ベートーヴェンの他にいないと断言できる。いや何も極端な例をことさら並べ立てなくても、ブラームスは、何とかベートーヴェンの交響曲を凌駕しようと足掻き続けたし、ワーグナーはある日突然ベートーヴェンの啓示を受けて(第九交響曲が頭のなかに鳴り響いて)ベートーヴェン以上の作曲家になることを志した。
音楽は「ベートーヴェンに始まりベートーヴェンに終わる」という言葉が、クラシック音楽ファンに当てはまる言葉だとするなら、音楽の世界は、「すべての歴史(西洋史)はローマ帝国に流れ込みローマ帝国から流れ出る」と言われるように、すべての音楽は「ベートーヴェンに流れ込みベートーヴェンから流れ出た」と言えるのかもしれない。
そんなことを夢想する、ただの音楽ファンの私が、なんと(!)音楽評論家の故・宇野功芳氏と作曲家の池辺晋一郎氏のベートーヴェンを語るトークショウに招かれ、いろいろトークしたあとに、小生がオーケストラを指揮することになり、ベートーヴェンの「交響曲第7番」第4楽章のコーダの部分を指揮させてもらう……なんてことがあった。
もちろんそれは、ハプニングではなく台本通りの進行で、小生は事前にスコアを何度も何度も繰り返し見直して(とても「読んで」などとは言えない程度の勉強でしたが)、その音符の並び方の見事なこと、美しいこと、鮮やかなこと、粋なこと、カッコイイこと……に感心しながら必死になって頭に入れ、指揮台に立ち、わずか5分程度の音楽を、無我夢中の汗まみれアタフタ酸欠状態になって棒を振りまくったのだった。
指揮を終わってフラフラになってサントリーホールの楽屋に帰り、へなへなと椅子に座り込んだとき、ベートーヴェンの「凄さ」を改めて感じた。と言うのは、私が特に懸命になって指揮棒を振らなくても、ベートーヴェンの音楽が次々と、面白く楽しく激しく豊かに流れ出すことを、感じたからだった。
それが新星日本交響楽団(現在の東京フィルハーモニー交響楽団)というオーケストラの力なのか、ベートーヴェンの力なのかはよくわからなかった。そんなことを考えながら一息ついてトイレに立つと、燕尾服を着た楽団員の方が入ってきて隣に立ったので、「ありがとうございました」と頭を下げた。するとその楽団員の方が、こう言ったのだ。「良かったですよ。本格的に指揮の勉強をしてみたらどうですか? きっとやれますよ」
もちろん外交辞令の一種だったのだろうが、私は激しく頭を左右に振りながらも、この楽団員さんの言葉を喜んだ。それは、これまで仕事で出逢ったあらゆる褒め言葉のなかでも最高の褒め言葉で、最高に嬉しい言葉だと感謝した。そして、そのとき改めて、「ベートーヴェンは凄い!」と確信したのだった。
ベートーヴェンの音楽は、初めて指揮台に立った素人の指揮者も助けてくれるんですよね。バッハやモーツァルトやブラームスやワーグナーを素人が指揮したら、こういう褒め言葉は、お世辞にも絶対に出てこないことは明らかですからね。
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