私にとってピアノとは、子供の時からまったく不思議な謎だらけの楽器だった。
まずは中学時代。ピアノはいったいどんな種類の楽器に分類されるのか? という疑問が突然湧いた。弦があるから弦楽器なのか?それを鍵盤で打つから打楽器なのか? と悩んでいたら、音楽の教師に「鍵盤楽器だ」と言われ、それはオカシイと即座に新たな疑問が湧いたのを、今も憶えている。
もしも「鍵盤楽器」という分類なら、ピアノとオルガンとアコーディオンなどが同じ種類の楽器になる。が、それらは音の響き方や音質から考えて、明らかに違う種類に思える。
それに、鍵盤というのは一種の道具であり、鍵盤自身が音を出すわけではない。その道具で楽器を分類するなら、ヴァイオリンやチェロなどは「弓楽器」と呼ぶべきだし、金管楽器は「唇楽器」だ……という私の反論に、音楽教師は「またいつもの屁理屈か」と苦笑いした。
そして、「打弦楽器という言い方もある」と付け加えたのだが、打弦(弦を打つ)と言っても、演奏者が打つのは鍵盤であり、弦は直接には打ちませんよ。と混ぜ返した。
高校生になると、さらにピアノへの疑問が広がった。音楽の授業で、オーケストラのあらゆる楽器のなかで最も低い音を出すのも、最も高い音を出すのもピアノである、と教わり、ホンマカイナ? と首を傾げた。
黒鍵36、白鍵52。合計88の鍵盤がピッコロよりも高い音からコントラバスやチューバよりも低い音までを出すとは、絶対に信じられなかった。周波数的に事実だと言われても、我々は周波数を感じるのではなく、音楽によって心を振るわせられるのだ。
たしかにピアノは、かなり高い音から、かなり低い音まで出せる楽器であり、さらにかなり小さな音から、かなり大きな音まで出せる楽器(だから正式名称は「ピアノフォルテ」と言う)らしいが、だからどうした? と言うほかなかった。
そんなふうに、私が少々ピアノの前で捻くれた姿勢を見せたのには理由があった。それは、私がピアノを弾けなかったからだった。
ピアノの音楽を(CDがまだない時代に)レコードで楽しんでいた私は、グレン・グールドやフリードリヒ・グルダのクラシック音楽、オスカー・ピーターソンやキース・ジャレット、ビル・エヴァンスや山下洋輔のレコードを聴きながら、自分でピアノを弾ければ、もっとイイのになあ……と嫉妬心を募らせた。
じつは私は音楽系の工科大学への進学を志し、高校3年のとき、受験に必要だったバイエルの練習に取り組んだことがあった。が、結果はサッパリ。自分にピアノを弾く才能がまったくないことを思い知らされた。
だから音楽系工科大学は諦めて文化系に進み、モノカキの道を歩み始めて音楽についての文章も書き、山下洋輔さんとも出逢えるようになったとき、顔は笑いいながらも、ピアノを自在に弾ける人に対する嫉妬心を、心の底にメラメラと燃えあがらせた。そして、次のようなピアノに対する大疑問を口にしたのだった。
「ピアノという楽器は、誰が弾いても同じ音がするはずですよね。私が傘の先っぽで鍵盤を叩いても、洋輔さんが指で鍵盤を叩いても、構造的には同じ音がするはずですよね」
焼き鳥屋での焼酎を傾けながらの無礼な質問に対して、洋輔さんはニコニコと微笑みながら答えを返してくれた。
「それが違うんですよねえ。まったく違う音がするんですよね」
「しかし……」と私は食い下がった。「ハンマーなどの構造を考えれば、同じ力で鍵盤を叩くと力学的に同じ音しか出ないはずです」
「いいえ、そこには技術の差が出ますねえ」
マイッタ。たしかに違う音が響く。それは事実だ。私が鍵盤を叩くと濁った音。洋輔さん弾くと澄んだ音。構造的に、機械的にどうかなんて、問題ではないのだ。そう思っているところへ、洋輔さんはさらに見事な追い打ちをかけてきた。
「ピアノって単純な楽器なんですね。右へ行けば高い音、左へ行けば低い音。鍵盤をひとつ空けて同時に押さえれば響く音。ただ、それだけ。誰が弾いても音が出て、誰にでも弾ける単純な楽器。だからこそ技術の差が出るんですね」
ムムム……その誰にでも弾ける楽器を私は弾けないのだ……と一瞬私はまたしても嫉妬心を募らせた。が、そのあとすぐに、私の心は俄雨のあとの青空のように爽やかになった。それは、体操で「月面宙返り」を「発見」した塚原光男さんの言葉を思い出したからだった。
「体操は不可能に挑戦する競技ではありません。人間にできることを、どう身体を動かせばできるか、それを発見する競技なんです。だから単純なもので、倒立も、月面宙返りも、実は誰にもできるのですよ。もちろんあなたにもできます。技術さえ身に付ければ……」
ハハハハハ。ピアノを弾くことも月面宙返りも、原理的には人間なら誰にもできることなのだ。それを見事にやってのける人がいるのだから、何も自分も努力してピアノ(月面宙返り)に挑戦する必要はない。
洋輔さんの素晴らしいピアノの音に乗せてもらって、音楽による別世界への探検(エクスプローラー)の旅や、未知との遭遇(エンカウンター)の旅に連れて行ってもらえばいいだけのことだ。いやぁ、人間の「技術」って凄いですねえ。鬼神も驚く人間技を、今宵も楽しませてもらうことにしましょう。
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