さて、前号をお読みになって早速プッチーニのオペラのビデオを購入し、甘美なメロディにドップリとハマってしまった方々は、もう、立派なオペラ・ファンである。
『ラ・ボエーム』のロドルフォとミミの二重唱に涙し、『トスカ』で女の愛の力に身震いし、『トゥーランドット』のエキゾチックな音楽に酔ったなら、続けてディスク・ショップへ足を運び、ジャケット写真を見て美しい舞台のオペラのビデオを買うもよし、美人歌手や美男歌手の容貌に魅かれて選ぶもよし。
そうして、レオンカヴァッロやマスカーニといったプッチーニと同時代のイタ・オペの魅力に深入りするもよし、ビゼーの『カルメン』やヴェルディの『椿姫』のような有名な作品を楽しむもよし。モーツァルトの『フィガロの結婚』や、思い切ってワーグナーの超大作『ニーベルンクの指環』に挑戦してみるもよし。
世の中の多くの物事には順序というものがある。が、オペラを楽しむには順序やルールなんてものはない。何から手をつけてもかまわない。
「プッチーニのオペラって面白い」と思った人なら、もう、どんなオペラも怖くない。要するに、歌手が♪アアア〜…と声をはりあげて歌うことを「不自然」と思わなくなり、「カッコイイ!」と思えるようにさえなれば、もう、こっちのもの(それだけがフツウの人がオペラ・ファンになる唯一の条件なのだ!)。
そうなれば、あらゆる「オペラ入門書」など必要ない(もちろん、この連載も必要ない)。自分の勘と嗅覚だけで、見てみたい舞台、聴いてみたい音楽を選べばいい。そして「リヒャルト・シュトラウスってプッチーニより凄い!」と思ったり、「ベルクの『ヴォツェック』ってワケがわからん!」などと怒ったりしながら、様々なオペラと出逢い続けていくと、そのうちあらゆるオペラが面白くなる。
そして、カラオケやゴルフや援助交際なんぞで時間とカネをムダに浪費することもなくなり、「失楽園」などという甘ッチョロケた世界へ迷い込むこともなくなり、平均寿命の伸びた長い人生を、もっと豊かで官能的に謳歌できるようになる−−というわけである。
だから、はっきりいってしまえば、前号の本欄の文章を読んでプッチーニにハマッた人には、もう、新たな文章を読んでいただく必要などないのだ。あとは勝手に楽しんでください。それで、オシマイ。
だけど、それではツマラナイ。何がツマラナイかって、私(筆者)がツマラナイ。オペラが大好きで、毎朝起きればすぐにラジカセにオペラのCDを放り込み、仕事中も常にオペラを聴き、夕食後はオペラのビデオ映像を必ず見るほどのオペラ・フリークである筆者は、モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』をまだ見たことも聴いたこともない、という人が一人でもいると知ると、黙っていられなくなる。シェイクスピアの『オセロ』なら知ってるけど、ヴェルディの『オテッロ』なんか知らない、という人が一人でもいると、喋らずにいられなくなる。
そんなオモロイものを見もせず聴きもしないなんて、そりゃ不幸ってもんですよ。酒を飲むのもゴルフを楽しむのもいい。カラオケもフリンもタマには面白いかもしれない。けど、オペラの魅力には勝てないね。一度、見てごらん…といいたくなる。
さらに、「アタシ、オペラって無縁だと思ってたのに、プッチーニにハマッちゃった」という人がいれば、ネ、ネ、そうでしょ、そうでしょ。でも、プッチーニのほかに、もっと面白いオペラが、いっぱいあるんだから…といいたくなる。
早い話が御節介。しかし最近の世の中は、御節介が少なすぎる。
夫婦はセックスレスになり、親子の会話は希薄になり、学校の先生は生徒の自主性ばかり尊重して教育をしなくなり、近所付き合いもなくなってコミュニティは崩壊。だからマンションの隣の部屋から白骨死体が出てきたり、酒鬼薔薇なんて少年が出現したり……というのは話を横道に逸らしすぎだろうが、少しは御節介をやく人間が存在してもいいはず。御節介ってのは言葉を換えれば「啓蒙」といえなくもないですからね。それに、御節介をやかれる方は、イヤなら無視すればいいだけなんだから。
−−というわけで、前置きが長くなったが、プッチーニの甘美なメロディにハマッた「若葉マークのオペラ・ファン」は、次にどんなオペラに手を出してもいいのだが、「オペラの深み」へすんなりハマリこむための「順序」として(御節介ながら)是非ともヴェルディのオペラに接することをオススメしたい。
プッチーニの次に、なぜ、ヴェルディなのか? といわれても、さほど深い理由はない。プッチーニの甘美なメロディに酔った人なら、同系統のイタ・オペのメロディが聴きやすいに違いない…というだけのこと。
とはいえ、プッチーニとヴェルディでは、同じイタ・オペでも性質がかなり違う。その性質の違いが、あなたのオペラの世界を、グイッと広げてくれるはずである。
19世紀末から今世紀初めにかけて活躍したプッチーニが、甘美の極みを尽くしたロマンチシズムの極限とするなら、1813年生まれのヴェルディ(亡くなったのは1901年)は、少々「古典的」。
もちろんイタリアの作曲家だから、「古典的」といったところで美しいメロディがロマンチックに響くことには変わりないのだが、「物語と音楽の融合」をめざしたヴェルディのオペラは、彼より少し前の時代に活躍したロッシーニ(1792〜1868)や、ドニゼッティ(1797〜1848)や、ベッリーニ(1801〜1835)といったイタリアの作曲家の作品以上に、音楽が「古典的」に響く。
つまりヴェルディのオペラは、理屈抜きに美しいイタリアのメロディが次々と奏でられる、というのでなく、理にかなった音楽が節度正しく現れる。登場人物が怒るときには怒りの音楽、泣くときには悲しい音楽、喜ぶときには楽しい音楽、偉大な国王が登場するときには威厳のある音楽、魔法使いが登場するときにはオドロオドロしい音楽−−が、きちんと流れるのである。
そんなこと、あたりまえじゃないか…と思う人がいるかもしれない。が、じつは、そうでもない。音楽とは基本的に抽象的で曖昧なメディアであり、それを「正確に」言葉に置き換えるのは困難な場合が多い。作曲家は、悲しい気持ちを表すために悲しい音楽、楽しい気持ちを伝えるために楽しい音楽を作るのだが、聴く人に悲しさや楽しさが意図通り伝わるとは限らない。
ベートーヴェンの『交響曲第七番』の第二楽章を聴いて「葬送の(悲しい)音楽」という人もいれば「婚礼の(喜びの)音楽」という人もいるのだ。では、ベートーヴェンの真意は? というのは、さほど重要な問題ではない。悲しく感じようと嬉しく感じようと、「感動」という一点においては同じであり、それで音楽の役割は果たせている。それが、音楽の現実であり、音楽の本質というものなのだ(要するに、音楽で味わう感動を、無理に言葉に置き換える必要などないのだ)。
オペラの場合は台詞があるから、「悲しい」という言葉が歌われれば、「悲しい」には違いない。が、台詞を無視してメロディだけを聴けば、よくわからない場合が少なくない。
たとえばプッチーニの『ボエーム』には、主人公のミミ(ソプラノ)のアリアが二つある。第一幕で恋人のロドルフォと初めて出逢ったときに歌う『私の名はミミ』と、第三幕でロドルフォと別れるときに歌う『あなたの愛の呼ぶ声に』。
前者は恋の始まりに心ときめく喜びの歌。後者は別離を耐え忍ぶ悲しい歌。だが、プッチーニの作曲した音楽はどっちもひたすら美しく、喜びとか悲しみを超越している。そのため、両者のメロディを入れ替えても何の問題も生じない。「恋の始まりの喜び」と「恋の終わりの悲しみ」が、音楽を入れ替えても内容的に矛盾を来さない(ように思える)のだ。 イタリア音楽は美しさを優先するあまりか、そのようにメロディと内容が結びつかない(ように思える)ものが少なくない。
往年の名テノール、タリアヴィーニが主演して有名になった映画『忘れな草』の同名の主題歌(デ・クルティス作曲)や、同じ作曲家による名曲『帰れソレントへ』(いずれもTVのトレンディ・ドラマ『白鳥麗子でございます』に使われ、OLやコギャルやマゴギャルの間でも有名になった)など、「イタリア民謡」「ナポリ民謡」と呼ばれている歌は、ほとんどが「失恋」を題材にし、悲しみに満ちた歌詞が歌われている。が、メロディは美しさにあふれ、悲しみは(よく注意して聴かなければ)聴く者の心に染み込んでこない。
それらの音楽を聴いて誰もがまず感じるのは、地中海の空や海の青さであり、イタリアの輝く太陽であり、『オー・ソレ・ミオ』(私の太陽)と同じような内容(恋人の女性を讃える歌)に聴こえるのだ。
そのような「音楽の表す曖昧さ」から、深い悲しみと深い喜びはつまるところ同じ精神作用である、という真理に目覚めるのか、恋とは失恋をもって至上とする、というアフォリズムを発見するのか、あるいは、地中海性気候のイタリア人に及ぼした精神作用といった民族学に興味を抱くのか−−は、各人の勝手だが、ともかく音楽(とりわけイタリア音楽)は、「音楽美」(音楽独自の美しさ)を追求する結果、言葉によって表しうる人間の感情から乖離し、人間の喜怒哀楽を操作している心の根っこの部分(魂?)に直接働きかける場合が少なくないのだ。そして音楽(心地よい空気の振動の連続作用)によって心の奥底を揺すぶられた聴き手は、得もいわれぬ陶酔状態に陥り、自分勝手に喜びもし、悲しみもする、というわけである。
ところが、ヴェルディの音楽は、違う。先にも書いたように、楽しいときには楽しい音楽、悲しいときには悲しい音楽が、間違いなく、きちんと流れているのである。
ヴェルディ中期の傑作(全部で26のオペラを作曲したなかで16作目)『リゴレット』で、マントヴァ公爵が歌う有名な『女心の歌』(♪風の中の羽根のように…と歌われる歌)は、誰がどう聴いても「軽薄な女ったらしのプレイボーイの歌」だし、続く(17作目の)『トロヴァトーレ』(「吟遊詩人」の意)で、主人公マンリーコ(テノール)が怒りに震えて歌う有名なアリア『見よ、恐ろしい火を』は、『女心の歌』をチョイとイジッただけ(と思える)が、戦いに赴く男の歌としては、これ以上の表現はないといえるほどの勇気と迫力が表現されている。
後期の傑作『ドン・カルロ』(23作目)でスペイン国王フィリッポU世(バス)が歌うアリア『ひとり静かに眠ろう』には、妻に愛されない男の悲哀がしみじみと漂っているし、ヴェルディの作品中最大の傑作というべき『オテッロ』(25作目)のイヤーゴ(バリトン)のアリア『無慈悲な神の命ずるままに』には、恨みに満ちた男の怨念があふれている。
そして、いちばん最後の作品である喜劇『ファルスタッフ』で、フォード(バリトン)が歌う『これは夢か、誠か』は、そのイヤーゴのアリアと似たような歌であるにもかかわらず、女房を寝取られようとしていることに気づいた間抜けな男の馬鹿さかげんが、驚きと悔しさと滑稽さを伴って鮮やかに表現されている。
初期の傑作『マクベス』(10作目)に登場するマクベス夫人(ソプラノ)や、『トロヴァトーレ』に登場するジプシー女のアズチェーナ(メゾ・ソプラノ)、それに『仮面舞踏会』(21作目)の占い女ウルリカ(同)といった「悪女」や「魔女」の歌は、どこまでもオドロオドロしく、『リゴレット』のジルダ(ソプラノ)や、『トロヴァトーレ』のレオノーラ(同)、それに『運命の力』(22作目)のドンナ・レオノーラ(同)のような清純な女の歌う歌は、どこまでも清らかに……。
−−といった具合で、ヴェルディの音楽は、どれも、登場人物の性格、歌詞の内容、その場の雰囲気に、ピタリと合致するメロディであり、リズムであり、入れ替えなどまったく不可能な形に仕上がっているのだ。
そのような、「完璧」ともいえる「音楽とドラマの一致」は、確固たる「様式」(形式)に根ざしている。
序曲があり、アリア(独唱)があり、二重唱、三重唱といった重唱があり、合唱曲があり、それらの楽曲をレシタティーヴォでつなぐ(「レシタティーヴォ」とは、旋律を美しく歌う「アリア」に対して「歌う」よりも「語る」ほうに重点がおかれた部分のことで、ハープシコードやピアノを用いた「レシタティーヴォ・セッコ」と、オーケストラの楽器を用いた「レシタティーヴォ・アッコンパニャート」の二種類に分類される)−−というオペラの形式は、17世紀から18世紀のナポリ楽派と呼ばれる作曲家たちや、モールァルト、ロッシーニによって確立された。
が、続くドニゼッティ、ベッリーニ、ヴェルディ(ドイツ・オペラではべートーヴェン、ウェーバー、ワーグナー)の時代になると、その形式が徐々に崩され、より自由な表現が用いられるようになった。そしてレシタティーヴォはなくなり、やがて、アリアや重唱も、わざわざ歌われるのではなく、ドラマの展開にのっとって連続する音楽のなかで自然に歌われるようになったのだ。
とはいえ、ベッリーニやドニゼッティやヴェルディの時代には、まだ「形式」が完全に消滅せず、歌がわざわざ歌われる場面も数多く残った。もちろんプッチーニのオペラにも、アリアや重唱や合唱曲は存在する。が、プッチーニ(というより、ヴェルディの『オテッロ』以降)のアリアや重唱や合唱曲は、ドラマの筋書きの流れのなかで必要な台詞を「聴かせ所」にしただけで、その部分をカットすれば筋書きがわからなくなったり、ドラマの構成が崩れてしまう場合が多い。従って、歌を歌っている最中も歌手の演技は続く。
しかし、ヴェルディの『アイーダ』(『オテッロ』の前の作品)以前のアリアや重唱や合唱曲は、ドラマの展開をいったん完全に停止させ、歌そのものを聴かせようとする性質が強く、その歌を取り除いてもドラマの筋書きは成立する場合が多い。あるいは、たとえ筋書きとして欠かせない台詞でも、独立した「歌」として、わざわざ歌われる場合が多い。
そのような場面では、歌手は身体の動きによる演技をほとんど停止し(いまにも剣で切りかかろうとしていた敵同士もいったん動きを止め)、舞台の上で棒立ちになり、両手を広げて朗々と歌を歌い出す。それは、当然のことながら、ドラマの展開として、きわめて不自然な行為であり、オペラを見慣れていないフツウの人々にとっては、吹き出したくなるほど滑稽なものといえる。
そのような「形式」のなかで、ドニゼッティやベッリーニは、歌手の技巧を思い切り発揮させるような楽曲を書いた(前者の『ランメルモールのルチア』や後者の『夢遊病の女』など、狂女を登場させるオペラが流行し、ソプラノが技巧の限りを尽くした「狂った女の歌」を歌った)。
それも一種の「形式破壊」ではあったが、ヴェルディは「形式」に「内容」を持ち込むことによって、「形式」を凌駕した。すなわち、ドラマの流れを止める単なる「歌」(形式)に、その場面ならではの音楽を付与し、登場人物の性格や、そのときの感情を、より深め、より立体的に描き出すことに成功したのである。
要するに、ドラマの進行上は明らかに不自然である「形式」を残したまま、ドラマの進行を壊さず、よりドラマをダイナミックに展開するためには、音楽の有する曖昧さや抽象性をいっさい排除し、的確な意味を持つ音楽を付与する必要があった、というわけである。
そのような「意味の明確な音楽」は、意味が曖昧で多様な「音楽美を追求した音楽」に較べて、ある意味で「単純な音楽」といえる。
騎士が戦いに赴くときはブンチャカチャッチャと軍隊行進曲の力強い調子になるし、魔女が呪いをかけるときはヒュ〜ドロドロという歌舞伎の効果音に近い音楽になる。悲恋に泣く清楚な女はヨヨヨと泣き崩れ、呪われたような不幸な運命に気づいた群衆は、オッオッオッと喉を詰まらせ、言葉が出なくなる。
その「単純」なブンチャカチャッチャやヒュ〜ドロドロも、もちろん音楽としてなかなか心地よいもので、何度か聴くうちに、音楽そのものに酔いしれるようになるものだ。が、その「単純な」ブンチャカチャッチャを、歌手が舞台の上で演技を止めて歌うのだから、演技のなかで美しいメロディを歌ってくれるプッチーニのオペラなどに較べて、初心者にはとっつきにくいのも事実である。
が、ヴェルディの音楽は単純なだけに(それだけ洗練されているだけに)、いったんハマレば、奥が深い。たとえば『アイーダ』の主人公アイーダ(ソプラノ)の『勝ちて帰れ』というアリアでは、エジプトの捕虜となったエチオピア王の娘アイーダが、エジプトとエチオピアの戦いを前にして、恋心を抱くようになった敵の将軍ラダメスと、エチオピア王である自分の父親のどちらもの勝利を願う。その矛盾に引き裂かれる心と、神にすがるほかない祈りの気持ちが、音楽の一音一音の具体的な響きによって、じつに細かく表現されているのだ。
また『仮面舞踏会』では、「あなたは、いまから最初に握手をする相手に暗殺される」と不吉な占いを口にするウルリカと、その予言を聞いて不安になりながらも一笑に付そうと冗談を口にする国王のリッカルド(グスタフU世)、暗殺を計画していることがばれたかとたじろぐ部下たち、そして、そのような占いの下されたことを知らず(自分の妻がリッカルドと不倫の関係にあることも知らず)に、国王と握手をしてしまう忠実な部下のレナート…といった人物の心理が、これまた一音一音の音楽の響きによって、すべて微細に描き出されているのである。
ヴェルディのオペラに耳を澄ませば、そのような細かな人間の心理が、一音の無駄もない音楽によって、鮮やかに描き出されていることに気づく。「明確な意味を持つ単純な音楽」も、ここまで「明確さ」を徹底されていることに改めて気づくと、天才作曲家の偉大な手腕に、思わずムムムッ…と唸らざるをえなくなる。
そのうえ、そのような人間の細かな心理描写に気づくと、そのちっぽけな人間たちを背後から動かしている大きな「力」が、ドーンと出現してくる思いがする。その「力」とは、「政治」や「社会」という人間自身が作りあげた「制度」である。
ヴェルディのオペラは、ミクロの表現によってマクロを描き出す−−それは、プッチーニのような曖昧で美しい「恋愛劇」には存在しない、音楽による「政治劇」なのである。
プッチーニから入門したオペラ・ファンなら、歌によってドラマが停滞することのない(舞台上の歌手が演技を止めて歌に専念することのない)『オテッロ』や『ファルスタッフ』といった晩年の作品をまず見て、それから『仮面舞踏会』や『リゴレット』といった中期の作品に手を出し、さらに、『運命の力』『ドン・カルロ』『アイーダ』といった後期の作品群、『ナブッコ』『マクベス』といった初期の作品へと手を広げる方法をオススメしたい。(以下次号) |