<ベートーヴェンは超凡人><ワーグナーはゴーマン男><バッハはCMソングのヒットメーカー>…と、昨年まで書き続けた本誌「サウンドパル」の連載を、『クラシック道場入門』と題して単行本にまとめたところが、なかなかの好評で、売れ行きもまずまず。読者の皆さん本当にありがとうございました(まだ、お買求めでない方は、すぐに書店へ駆けつけてください)。
そこで「第二弾新連載!」の開始となったのだが、<ブラームスは援助交際のコギャルを求める頑固爺><チャイコフスキーはロシアの坂口安吾><ドビュッシーは印象派じゃなく観念派><武満徹は……>と「続編」を書くのも、少々カッタルイ。
自慢じゃないけど、大学は半年通っただけで中退。TVのレギュラーも、1年も続けば飽きる。21歳から売文を生業に、45歳の今日に至るまで、とりあえず文章を書き続けてこれたのは、演劇、映画、ボクシング、野球、ラグビー、サッカー、クラシック、ジャズ、ポップス、演歌、オペラ、小説、随筆、TVドキュメンタリーの放送台本…と、カメレオンのようにクルクルと題材を変えてきたおかげ。
シューベルトやサティなど『クラシック道場入門』でとりあげなかった作曲家を書きたくも思うのだが、どうも途中でダレそうな気がする。そこで、それらの作曲家についての小生の考えは読者の想像力におまかせし、新たなテーマとして「オペラ」と取り組むことにした。題して−−『ビデオ(映像)で見るオペラの時間』
コンセプトは、『クラシック道場入門』と同じ。クラシック音楽ほどオモロイ娯楽はない…と考える小生が、クラシック音楽は難解…という誤った社会通念をくつがえし、クラシック音楽を聴く機会の少なかった「普通の男女」に、クラシック・ファンになってもらおう−−と企図したのと同様、今回も、オペラほどオモロイものはない…と確信する筆者が、オペラは難しいもの…などという間違った社会通念をひっくり返し、オペラに接する機会の少ない「普通の男女」に、オペラにハマッてもらおう−−というものである。
が、ここで、読者の皆さんに、絶対に誤解されたくないことが、ひとつある。それは、「クラシック音楽」と「オペラ」のあいだには、何の関連性も関係性もない、ということである。
『クラシック道場入門』に続く「第二弾」としてオペラを選んだのは、ただ単に、小生が、その二種類の娯楽が大好きだからというだけのこと。敢えていうなら、「娯楽にハマル」シリーズの「第二弾」として、オペラではなく野球でもよかった。ラグビーでもよかった。『ビデオで楽しむスポーツ道場入門』でもよかった。しかし、小生は、最近オペラが何よりも好きなので、オペラをとりあげるだけのこと。くり返すが、「クラシック音楽」の次に「オペラ」を書くことに、何の関連性も関係性もないのだ。
だから、オレはクラシックなんかワカラナイから…、ワタシはクラシック音楽が嫌いだから…、ましてやオペラなど、縁遠い存在…とは、絶対に思わないでいただきたい。
たしかにクラシック音楽とオペラは、無縁ではない。オペラは、主としてクラシックと呼ばれている音楽が中心になっており、音楽のないオペラなど存在しない。そのため現実には、<クラシック音楽→オペラ>という道順で、まずクラシック音楽を好きになり、次にオペラの楽しさを知る、という人々が多いのも事実である。
しかも、この国の学校教育では、(クラシックが中心の)音楽の授業でオペラをとりあげている。また、この国にはオペラ座(オペラ専門劇場)がほとんど存在せず、オペラは、劇場でなく、クラシック音楽の演奏会場で上演されることが圧倒的に多い。それに、ディスク・ショップでも、クラシック音楽のコーナーにCDやLDが並んでいる(註・当時はまだDVDは並んでませんでした)。
そこで、<クラシック音楽→オペラ>どころか、<オペラ=クラシック音楽><オペラ・ファン=クラシック音楽ファン>と思っている人も少なくない。
しかし、オペラには言葉がある。筋書きがあり、物語がある。オペラは音楽だけで成立するものではない。それは、音楽の授業でなく、詩や戯曲や演劇として、国語の授業でとりあげられてもいいものである。帝劇や新橋演舞場や、中座や南座で上演されてもいいものである。また、ディスク・ショップでは、クラシック音楽のコーナーに並べられるのでなく、「オペラ」という独自のコーナーが設けられるべきものであり、書店で販売されてもいいものなのである(現に『新潮オペラCDブック』という、読んでも聴いても面白い「オペラの本」も発売されてはいる)。
すなわち、<クラシック音楽→オペラ>という道筋でオペラを好きになるのではなく、ベートーヴェンやブラームスの交響曲などまったく聴いたことがないという人が、<文芸(小説)→オペラ><芝居(演劇)→オペラ>という道筋で、オペラ・ファンになることも可能なのである。
フランスの作曲家ビゼーがつくったオペラ『カルメン』は、メリメの書いた同名の有名な小説が原作であり、岩波文庫の『カルメン』を読んで面白いと思った人が、ビゼーの交響曲など知らないまま、おっ、カルメンはオペラにもなってるのか、それじゃあ、ちょっと見てみるか、聴いてみようか、といった具合に、オペラに手をつけてもいいのだ。
ヴェルディの作曲したオペラ『椿姫』は、アレクサンドル・デュマ・フィス(『モンテクリスト伯』や『三銃士』で有名な大デュマの私生児)の書いたベストセラー小説をオペラ化したものであり、『マクベス』や『オテロ』(オセロのイタリア語読み)や『ファルスタッフ』、それにフランスの作曲家グノーの『ロミオとジュリエット』などは、いわずと知れたシェークスピアの戯曲をオペラ化したものである。
また、モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』はモリエールの戯曲などで知られる稀代の色事師ドン・ファンの物語をオペラにしたものだし、『フィガロの結婚』やロッシーニの『セビリャの理髪師』は、フランス革命の直前に大人気を博したボーマルシェの戯曲がもとになっている。
ゲーテの『ファウスト』(グノー作曲。イタリアの作曲家ボイートも『メフィストフェーレ』と改題してオペラ化)、アベ・プレヴォーの名作『マノン・レスコー』(フランスの作曲家マスネやイタリアの作曲家プッチーニがオペラ化)、オスカーワイルドの傑作戯曲『サロメ』(リヒャルト・シュトラウス作曲)、トーマス・マンの小説『ヴェニスに死す』やヘンリー・ジェームズの小説『ねじの回転』(いずれもイギリスの作曲家ブリテンがオペラ化)、ドストエフスキーの小説『賭博師』やトルストイの大長編『戦争と平和』(いずれもプロコフィエフ作曲)、ゴーゴリの短編『鼻』やロシアの小説家レスコフの傑作『ムツェンスク郡のマクベス夫人』(いずれもショスタコーヴィチ作曲)、それに、グリム童話の『ヘンゼルとグレーテル』(フンパーディンク作曲)や、日本でも話題になったモーリス・センダックの絵本童話『怪獣たちのいるところ』(現代作曲家のオリバー・ナッセンが作曲)など、様々な文芸作品がオペラ化されているのだ。
日本の文芸作品も、木下順二の『夕鶴』や武田泰淳の『ひかりごけ』(いずれも作曲は團伊玖磨)、泉鏡花の『天主物語』(作曲・水野修孝)、芥川龍之介の『袈裟と盛遠』(同・石井歓)、谷崎潤一郎の『春琴抄』(同・三木稔)、三島由紀夫の『金閣寺』(同・黛敏郎)、遠藤周作の『沈黙』(同・松村禎三)などがオペラ化され、最近では『忠臣蔵』が、作家の島田雅彦の台本、三枝成彰の音楽で、オペラ化上演された。
ならば何もクラシック音楽のファンだけがオペラを好きになるのではなく、トーマス・マンの『ヴェニスに死す』を読んで感激した小説ファンや、シェークスピアが大好きな演劇ファンが、オペラに興味を持ち、<小説→オペラ><演劇→オペラ>という道筋で、オペラにハマッてもいいはずである。
ところが、現実には、なかなか、そうはならない。『ヴェニスに死す』を読んで、ヴィスコンティの映画を見た人は大勢いるだろうが、ブリテンのオペラに興味を持つ人は、ほとんどいない。シェークスピアが好きで、ディカプリオ主演の映画『ロミオ+ジュリエット』を見る人は多くても、グノーのオペラを見たいと思う人は、少ない。
それは、この国の「普通の男女」が、気軽にオペラに接することのできる機会が、まったくといっていいほどなかったからでもある。
オペラの上演には、カネがかかる。オペラ歌手を集め、オーケストラや合唱団を揃え、練習をくり返し、舞台装置を作り、衣裳を作り、上演する−−には、とてつもない費用がかかる。そのため、この国では、そもそもオペラの上演される機会が少なかった。ミラノ・スカラ座やウィーン国立歌劇場などの来日公演も、入場料が高額で(安価な席は少ししかなく、クラシック音楽のファンですぐに埋まってしまい)、「普通の男女」が、オペラを見てみたい…と思っても、映画や演劇と同じように、オペラを楽しむことはできなかった。
とはいえ、AV機器の発達と普及の結果、いまでは、多種多様なオペラを、誰でも、いつでも、きわめて安価に、ビデオやLDで楽しむことができるようになった(CDで、オペラの音楽や台詞や筋書きだけを楽しむことも簡単になった)。
ところが、相変わらず、オペラを楽しもうと思う人は、映画や演劇を楽しんでいる人よりも、はるかに少ないままである。
ルチアーノ・パヴァロッティ、プラシド・ドミンゴ、ホセ・カレーラスの「三大テナー」のコンサートが国立競技場に5万人の聴衆を集め、「オペラ・ブーム」などという言葉も口にされ、有名オペラ座の来日公演の切符はすぐに売り切れ、たしかに以前よりも少しはオペラ・ファンが増えたといえるかもしれない。が、ディスク・ショップに数多く並んでいるオペラのビデオの売上げが伸びたという話は聞かないし、オペラをNHK以外のテレビ局が放送するわけでもない。オペラ・ファンは、やはり、いまも少数派でしかないのだ。
いや、♪恋はや〜さし〜、野辺の花よ〜…(スッペの喜歌劇『ボッカチオ』のアリア)や、♪風のなかの〜羽根のように〜…(ヴェルディの歌劇『リゴレット』のカンツォーネ)が大流行した戦前の浅草オペラの全盛期に較べれば、日本のオペラ・ファンは、いつの間にか、なぜか、少なくなってしまった、といえる。
それは、浅草オペラが衰退したうえ、「浅草オペラと本物のオペラは別物」といった(気取った)考えが(クラシック音楽関係者の側から)強く主張された結果、<クラシック音楽→オペラ>という道筋しかオペラを好きになる方法がないという間違った意識が浸透し、クラシック音楽とは難解なものという誤った先入観が蔓延したから、といえるのではないだろうか。
さらに、「三大テナー」のコンサートなどは単なる金儲けで、あんなイベントに熱狂するのは本当のオペラ・ファンじゃない、などという「クラシック音楽通」を気取る人たちの声もあって、せっかく、パヴァロッティやドミンゴやカレーラスの歌声を聴いて「すごい!」と思った人々が、次にいったい何を聴けばいいのか、何を見ればいいのか、わからないでいるからではないだろうか。
しかし、先に、小説や演劇の例をあげたが、オペラを好きになるきっかけは、それ以外にも、あらゆる場所にコロがっているのである。
アカデミー賞を受賞した映画『フィラデルフィア』を見て感激した人は大勢いるだろう。その映画では、イタリアの作曲家ジョルダーノが作ったフランス革命を背景にしたオペラ『アンドレア・シェニエ』のアリア(今世紀最高のソプラノ歌手マリア・カラスが歌っていた)が効果的に用いられ、エイズに苦しむ主人公の心情を表していた。
ノーマン・ジュイソン監督の恋愛映画『月の輝く夜に』では、主人公の男女が、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場でプッチーニのオペラ『ラ・ボエーム』を見てデートをし、オペラの筋書きと映画の筋書きがオーバーラップするように作られていた(中森明菜の『ラ・ボエーム』という歌も、たぶんこのオペラから題名と題材をとったに違いない)。
フランシス・コッポラ監督の映画『ゴッド・ファーザーpartV』ではアル・パチーノの扮したゴッド・ファーザーの息子が、弁護士にしたいと思う父親の意図に反抗してオペラ歌手になる、という筋書きで、マスカーニのオペラ『カヴァレリア・ルスティカーナ』(田舎の騎士道)がドラマの重要な要素になっていた。それに、ヴィスコンティ監督の映画『ルートヴィヒ』では(当然のことながら)ワーグナーの存在が大きく、その音楽が随所に使われていた。
それらの映画に感激した人なら、たとえクラシック音楽のファンではなくとも、<映画→オペラ>という道筋で、『アンドレア・シェニエ』や『ラ・ボエーム』や『カヴァレリア…』やワーグナーのオペラを(ビデオで)見て、十分に楽しめるはずである。そして、<映画→オペラ→音楽>という道をたどり、いつの間にか、オペラ・ファンになれるはずである。
そもそも、ルキーノ・ヴィスコンティ、フランコ・ゼッフィレリ、オットー・シュレジンジャーといった人物は、日本では映画監督として有名だが、ヨーロッパではオペラ演出家としても高名で、ヨーロッパ系の映画監督は、誰もがオペラと深い関わりを持っている。
ピエトロ・ジェルミの『刑事』やヴィットリオ・デ・シーカの『自転車泥棒』や『ひまわり』、フェデリコ・フェリーニの『道』など、ネオ・レアリズモと呼ばれたイタリア映画も、今世紀初期のヴェリズモ(現実派)と呼ばれたイタリア・オペラと密接な関係がある(にもかかわらず、オペラをまったく無視して、映画の素晴らしさばかりを説く映画評論家が平気で存在していることには、仰天しないわけにはいかない)。それらの映画のファンなら、ベートーヴェンやシューベルトの音楽を聴いたことがなくても、先に紹介した『アンドレア・シェニエ』や『カヴァレリア…』や、レオンカヴァッロ作曲の『道化師』といったオペラを楽しむことができるはずである。
映画以外にも、たとえばニューヨークのメトロポリタン歌劇場の天井には、シャガール直筆の絵画が描かれており、リンカーン・センターにある現在の新劇場が落成したときは、モーツァルトのオペラ『魔笛』の舞台装置と衣裳を、彼が手がけた。それに、現代絵画の巨匠デビッド・ホックニーが、舞台装置と衣裳を手がけた『魔笛』やストラヴィンスキーのオペラ『放蕩者のなりゆき』、森英恵が衣裳を担当したプッチーニの『蝶々夫人』(ミラノ・スカラ座)など、著名な画家やファッションデザイナーの手がけたオペラ(のビデオ)も数多くあり、クラシック音楽など知らなくても、<美術→オペラ→音楽><ファッション→オペラ→音楽>という道筋で、オペラ・ファンになることも可能なはずである。
要するに、オペラは、あらゆる芸術的要素を組み入れた「総合芸術」なのだから、クラシック音楽だけでなく、それ以外のあらゆるジャンルがきっかけとなって、オペラ好きになることも可能なのである。
いや、音楽でさえ、けっして「クラシック」というジャンルにとどまるものではない。アルゼンチン・タンゴの巨匠アストラル・ピアソラは、『ブエノスアイレスのマリア』という素晴らしいタンゴ音楽のオペラを作曲している。ジョージ・ガーシュインのオペラ『ポーギーとベス』には、エラ・フィッツジェラルドとルイ・アームストロング、レイ・チャールズとクレオレーンというジャズ・シンガーたちによる名演がある。また、イタリア・ポップス界の女王ミルバは、クルト・ワイルの『三文オペラ』の歌をうたっている。
クラシック音楽は聴かないが、タンゴは好き、ジャズは空き、ポップスは好き…という人も、<タンゴ→オペラ><ジャズ→オペラ><ポップス→オペラ>といった道筋でオペラの世界に入ることができるのだ。
それに、パヴァロッティのコンサート(のビデオ)では、ブライアン・アダムス、エリック・クラプトン、エルトン・ジョン、B.B.キング、ジェイムス・ブラウンといった歌手と共演したものもあり、<ロック→オペラ><ブルース→オペラ>という道をたどってオペラに触れることもできる。
ミュージカルは大好きだけど、オペラは嫌い…という人が存在することも、小生にはまったく理解できない。レナード・バーンスタイン作曲の『ウエスト・サイド・ストーリー』など、本人もいっている通り、ミュージカルというより、すでに「古典(クラシック)」と呼ぶべき音楽であり、ホセ・カレーラス、キリ・テ・カナワらのオペラ歌手が録音したCDも発売されている。同じ作曲者による『オン・ザ・タウン』(フランク・シナトラ、ジーン・ケリーらが主演、邦題『踊る大紐育』のタイトルで映画化)も、オペラ歌手とブロードウェイ歌手の共演によるビデオが発売されている。
コール・ポーターの『キス・ミー、ケイト』、アーヴィング・バーリンの『アニーよ銃を取れ』、ジェローム・カーンの『ショウボート』、リチャード・ロジャースの『回転木馬』『オクラホマ』『南太平洋』『王様と私』『サウンド・オブ・ミュージック』、フレデリック・ローの『マイ・フェア・レディ』など、ヨハン・シュトラウスの『こうもり』やフランツ・レハールの『メリー・ウィドウ』(陽気な未亡人)といったオペレッタ(喜歌劇)と、なんら変わるものでなく、『キャッツ』『オペラ座の怪人』『ミス・サイゴン』などが好きな人なら、誰もが簡単に、<ミュージカル→オペラ>という道筋で、オペラ・ファンになるだろう。
それどころか、最近まで放送されていたトレンディ・ドラマ『ストーカー〜逃げられぬ愛』を見て、ストーカーの青年が、いかにも偏執狂的な雰囲気で耳を傾けていた音楽(サン・サーンス作曲のオペラ『サムソンとデリラ』)に興味を抱いた人なら、<TVのトレンディ・ドラマ→オペラ>という道筋でオペラ・ファンになることもできる。
はたまた、頭のなかが少々エロスに支配され、出張先のホテルでついついアダルト・ビデオの有料ビデオにチャンネルを合わせてしまうような人にとっても、オペラはきわめて身近な存在といえる。キリスト教のシスターたちがヘア丸出しの全裸になり、集団セックスに興じるオペラ(プロコフィエフの『炎の天使』)や、女性歌手が全裸になって踊った後、殺された男の首を抱きしめ、その唇にフェラチオのようなキスをするオペラ(『サロメ』)など、アダルト・ビデオなど足もとにも及ばないエロチシズムの漂うオペラのビデオが(ボカシなしで!)何種類も発売されており、<ポルノ→オペラ>という道筋も可能なのだ。
要するに、オペラとは「何でもあり」の世界であり、誰でも好きになれるきっかけが、どこかにあるのだ。だから、クラシック音楽を聴く…と構えるのはやめて、小説にしろ演劇にしろ映画にしろ、美術にしろファッションにしろ、タンゴにしろジャズにしろ、ポップスにしろロックにしろ、ミュージカルにしろTVドラマにしろポルノにしろ…・、自分が少しでも興味を抱いているものから、オペラの世界に入ればいいのだ(三大テナーのコンサートをきっかけにオペラを興味を抱いたというのであれば、好きになった歌手−−たとえばホセ・カレーラスの顔ばかり見ている、というのもいいだろう。女優の賀来千香子さんのように(笑)。
そうして、とにかくオペラと接したなら、最初は少々奇異に思われたソプラノの♪ハアアアア〜という甲高い声も、何を大袈裟に…と思えたテノールの演技も、荒唐無稽に思えた物語も、そのうち、すべてが快感となって、全身に電気が走るような感動を味わえるようになる。
つまり、ハマル、のである。
オペラは、ハマル。オペラは、毒である。その毒の美味を知り、身も心もふるえるようになれば、もう、こっちのもの。過去の大作曲家たちが残した素晴らしいオペラ−−生涯を通しても味わい切れないほどあるオペラの数々を、次から次へと味わえるようになり、高齢化社会のなかでどれほど歳をとろうと(ビデオ・デッキやLDプレイヤーさえあれば)最高に楽しい人生を送れるようになること、請合いである。
自分の興味といわれても、いったいどんなオペラから見始めれば…と迷っている人のために、「入門編」としていくつかのオペラを下欄にあげておく。それらは「異端の現代風新演出」であったり(現代の大富豪ドナルド・トランプを主人公に据えた『フィガロの結婚』、黒人歌手がブリーフ一枚になって歌う『ドン・ジョヴァンニ』、神経症の女が妄想を展開する『さまよえるオランダ人』、1930年代のマフィアの世界を舞台にした『リゴレット』)、一般的には「難解」といわれている「現代オペラ」であったり(『ヴェニスに死す』『七つの大罪』『三つのオレンジへの恋』)、一般的にはオペラでなくミュージカルに分類されるもの(『オン・ザ・タウン』)など、他のオペラ入門書では(おそらく)紹介されないものばかりである。
しかし、現代の「普通の男女」なら、鬘をつけた王様が、♪アアア〜と声を張りあげるような「時代劇オペラ」よりも、抵抗なく、素直に、楽しんでいただけるはずであり、な〜んだ、オペラって、TVのトレンディ・ドラマよりも、よっぽど面白いじゃん……と思っていただけるものばかりである(オペラなど無縁だった友人で、すでに実験済みのことなので、保証します)。
では、次回からは、個々のオペラをとりあげ、読者をオペラの世界にどっぷりとハメルことにしよう。 |