冒頭から少々手前味噌な話題で恐縮だが、ちょっと自己宣伝をさせていただく。 今年の4月から、東京新聞池袋サンシャインシティ文化センターで、毎月1回(第2土曜日の午後4時から6時)「オペラ講座」を開講することになった。
この連載を読んでくださっている読者には、もう説明は不要だろうが、「講座」といっても、堅苦しいものではない。毎回小生の所有している秘蔵のオペラ・ビデオからハイライト・シーンを作成し、一緒に見ながらオペラの楽しさを存分に味わおう、というものだ。
題して――、
『オペラは、ほんまにオモロイでぇ!』
オペラに一度も接したことのない人から、オペラ通を自認する人まで、どんな人にもオペラのオモシロさを味わってもらい、あるいは再認識してもらい、ズボズボドツボのオペラ・フリークになってもらうつもりだ(なんという下品な表現!)。
もちろん、ちょっとした教養も身に付くオモシロ話も満載……というわけで、御用とお急ぎでない方は、ぜひともご参加ください。
というわけで、講座を面白くするため(また、この連載を書くためにも)オペラをさらに聴きまくり、いろんな文献にも目を通して音楽や演劇の勉強をしなおしたり……したのだが、正直いって「勉強」のほうは三日も続かず飽きてしまった。というのは、「わざわざ勉強をすること」の馬鹿らしさに、あらためて気づいたからである。
オペラは勉強などしなくていい、ただ素直に見て、聴いて、楽しめばいい――というのが、この連載で何度もくりかえし主張している小生の持論なのに、「わざわざオペラの勉強」をするのは、そもそも自己矛盾である。
もちろん、「オペラ入門」の連載を書き、曲がりなりにも「文化教養講座」のようなものを手がけ、それによって生活の糧(の一部)を得るわけだから、読者や受講者のみなさん支払う本代や受講料に見合う内容を身に付けるべく、準備として「勉強」と取り組むのは、プロとしての義務といえるだろう。
が、じつは、オペラに関しては(プロであろうと入門者であろうと)やっぱり「わざわざ勉強をする」必要など、ないのだ。
というのは、オペラが「勉強」させてくれるからだ。
オペラの中味や背景などまるで知らなくても、オペラを見たり聴いたりして楽しめば、オペラを通して、いろいろな知識が身に付き、教養が身に付き……、要するに、自然に多くのことが「勉強」できるのである。オペラとは、そもそも、そういうものなのだ。たとえば――
フランス・オペラに、シャルル・フランソワ・グノー(1818〜93)の作曲した『ファウスト』という作品がある。
これは、タイトルでわかるように、ゲーテ(1749〜1832)の戯曲『ファウスト』をオペラ化(音楽劇化)したものだ。とはいえ、オペラは、原作の戯曲を、大幅に簡略化している。
舞台は16世紀ごろのドイツ。メフィストフェレスという名の悪魔に魂を売り、若々しい青年の肉体を取り戻した老博士ファウストが、兵士ヴァランタンの妹であるマルグリートを愛し、不義の子を生ませる。それに怒ったヴァランタンが、ファウストに決闘を挑む。が、メフィストフェレスの力を得たファウストに敗れ、死ぬ。
そのため気が触れたマルグリートは、生まれた子供を殺した罪で牢屋に入れられるが、最後に彼女の魂は天国に召される。ファウストは後悔したものの神の裁きを受け、メフィストフェレスとともに地獄に落ちる――というのがオペラ『ファウスト』の粗筋だが、これは、ゲーテの原作の第1部を簡略化したもので、第2部はすべてカットされている。
しかも原作の第1部には、マルグリートがファウストと逢引をするため、いわれるまま母親に睡眠薬を飲ませ、その量を間違い、あやまって死なせてしまうという重要な「母親殺人事件」があるが、オペラでは、それもカットされている。
さらにさらに……大きな改変もある。それは、グノーが作曲した時代にゲーテが生きていたら、原作者として猛烈に抗議をしたに違いないと思えるほどの改変である。
ゲーテのファウスト博士は、第2部で、すべてメフィストフェレスの助けを借りて、悪魔の祭りを体験したり、古代ギリシアの絶世の美女ヘレナと結婚したり、神聖ローマ帝国で皇帝に遣えたり、そこで財政再建のために紙幣を大量発行してバブル経済を起こして失敗したり、そこから生じた内乱に皇帝軍の参謀として参加して戦争に勝利したり、その結果得た土地で干拓事業に邁進し、理想の国をつくろうとしたり……といった様々な出来事を体験したあと、自由の国で自由の民とともに生きる日を夢見ながら、死ぬ。
そしてメフィストフェレスが彼の魂を地獄へ連れ去ろうとするが、天使に助けられ、ファウスト博士の魂はマルグリートの魂に導かれて天国へ登ってゆく……。
ゲーテのファウストの魂は、グノーのオペラの結末とは正反対。地獄に落ちず、「永遠に女性的なるもの」(マルグリートの魂)に導かれて天国に召されるのだ。このゲーテの結末には、ファウストのあまりにも「男性的な」(能動的行動的享楽的暴力的な)生き方だけでなく、「女性的な」(受動的で穏やかで結果的に思慮深い)生き方や思考が不可欠という、ゲーテのメッセージが込められている。
にもかかわらず、グノーのオペラのように、ファウスト博士を地獄に落としてしまっては、馬鹿な男までも救済するという「永遠に女性的なるもの」の偉大さが伝わらず、男性原理と女性原理は宥和せず、離反したまま、ただ馬鹿な男が破滅しただけの話になってしまう(イタリア・オペラのボイートの『メフィストフェレス』は、グノーの作品と同様、『ファウスト』の一部を簡略化したものだが、結末は、ゲーテの作品通り、ファウストの魂が天に昇る話になっている)。
もしもゲーテがグノーのオペラを知れば、即時上演中止を訴えるかもしれない。それに対してグノーは、「ファウスト伝説は民間伝承として数多く存在し、他の多くの作家も作品化しています。そのほとんどがファウストは最後に破滅するのです」と反論をするかもしれない。
「何をいうか! パリのリリック劇場の支配人のカルヴァロが『これをオペラ化してみろ』といって、おれの戯曲を貴様に手渡したという証拠があるんだ」と、ゲーテはさらに追求し……ということは、まあ、どうでもいい。閑話休題(むだばなしはさておき)。
私はグノーの『ファウスト』というオペラを楽しむことによって、ゲーテの『ファウスト』に興味を持つことができた。そしてゲーテの原作を読み、それが、けっして「難解な古典」でなく、オペラと同様、ハチャメチャにオモロイ奇想天外な物語である、ということにも気づいた。
〈このおもしろい作品に「むつかしい」というイメージを与えてしまったのは、どうやら、ゲーテの生存中から今日に至る多数の「ゲーテ研究家」たちではないかと私は思うのですが、これはほんとうにもったいない話です。地下の詩人も、さぞ、くすぐったがり、迷惑がっていることでしょう〉(小西悟『現代に生きるファウスト』NHK出版より)
と書いている独文学者もいるが、だからといって最初から、あの分厚い本を手に取り、詩のような台詞のような戯曲を読む、というのは、困難なものである。が、オペラで、音楽付きの物語なら、案外、簡単に楽しむことができる。
おまけに、グノーの『ファウスト』には、ファウストがマルグリートを讃えて歌う「この清らかな住まい」や、マルグリートの「宝石の歌」など、美しいアリアもあれば、「兵士の合唱」「ファウストのワルツ」と呼ばれる有名な歌もある。
その音楽を聴き、筋書きを知り、オペラを楽しめば、ゲーテの原作の『ファウスト』にも興味がわき、粗筋を知っているだけに原作も読みやすくなり、ゲーテの作品の面白さにも気づき、オペラとの違いもわかり……と、オペラが自然に「勉強」を誘発してくれ、おもしろがるうちにいろんな知識も広げてくれるのだ。
なのにオペラを、「わざわざ勉強する」のは、まったくナンセンスである。オペラこそ、古典の「絵解き」であり、「入門編」であり、「抜粋」「解説」といえるのだ。
自転車に乗るまえに、自転車の構造を詳しく勉強する人などいない。ペダルがチェーンとどうつながり、スポークがタイヤをどう支え……など知らなくても自転車には乗れる。ワインをはじめて飲むまえに、ぶどうの品種を勉強する人もいない。まず、飲み、それから興味がわく。
オペラも、それと同じ。ノッテみれば、ノンデみれば、いいのだ。そこからどう世界を広げるかは、個人の勝手である。
ところが、この国の音楽教育は、生徒を自転車に少ししか乗せないで、自転車の構造ばかり勉強させる。ワインを飲ませないで、ぶどうの品種ばかり説明する。
バロック―古典―ロマン派―国民学派―新古典派―現代音楽…などという歴史を頭に入れても、オペラのことはもちろん、音楽のことなど、何もわからない。
少しでもたくさん、おもしろい舞台や楽しい演奏に接すれば、それでいい。そこから興味がわき、音楽史や作曲家の人生を知りたいと思い、テキストを手に取れば、知識や教養は、砂に水が染み込むように頭に入る。勉強してからオペラを……というのは、順序がまったく逆なのだ。
とりわけフランス・オペラは、そうだ。
パリの観衆は、楽しくなければ喜ばない。おまけにバレエを生んだ国だから、オペラにもバレエが付いてなければ承知しない(だから『カルメン』の初演は失敗した?)。
そのうえ朗読だけでも美しいフランス語をメロディに乗せるのだから、その音楽は必然的に磨き抜かれた美しさを持つことになる。豪華絢爛の舞台とバレエ、それに詩的に美しい歌がくっついたもの。それがフランス流グラントペラ(グランドオペラ)の基本なのだ。
〈フランスのオペラは、その起源から舞踊と関係が深い。16世紀末に誕生したフランス特有の《バレ・ド・クール(宮廷バレー)》は、詩・音楽・踊が見事に結びつけられた宮廷スペクタクルであり、国王や宮廷貴族たちが舞台に登場して踊っていた。17世紀中頃になると摂政マザランが、故国イタリアのオペラをフランスに導入しようと試みる(1647〜62)。しかしイタリアの優れた作曲家や歌手を呼び寄せての上演は思ったほど成功せず、意味不明のイタリア語のレチタティーヴォや長い上演時間に聴衆は不満で、喝采したのは鮮やかな場面転換をもたらす機械仕掛と幕間の踊だけであった〉(音楽之友社『オペラ辞典』より)
マザランといえば、リシュリューに続いてブルボン王朝を支え、ルイ14世のもとでフランス絶対王制の黄金時代を築いた宰相だが、この連載を書くためにちょいと辞典を開くまで、彼がイタリア出身のオペラ・フリークだったとは知らなかった。これもまた、私にとって、オペラをきっかけに広がった世界といえる。
それはさておき、パリの観客の喜んだ(認めた)豪華絢爛バレエつきフランス・オペラが、面白くないはずがないのだ。
『ファウスト』に次ぐグノーの有名なオペラ『ロミオとジュリエット』も、逆に原作が超有名なだけに、誰もがすんなり楽しめる。オペラ(音楽劇)という制約から筋書きの一部が省略された結果、シェイクスピアの原作に較べて劇的な迫力や深みに欠ける、という批判もあるらしいが、そのぶん美しい音楽(「ジュリエットのワルツ」や「白いきじ鳩」)があるのだから、そんな批判は意味がない(そんな批判をする奴は、シェイクスピアの舞台を見ればいいのだ)。
ジャック・オッフェンバック(1819〜80/ドイツ生まれで、14才のときにフランスに移住)は、誰もが知ってる♪ジャ〜ン、ジャカジャカジャンジャン……のフレンチ・カンカンのメロディが出てくる『天国と地獄』(原題は『地獄のオルフェ』)の作曲家で、『ホフマン物語』にも「ホフマンの舟歌」として有名なメロディが出てくる。
また、『ホフマン物語』は、ホフマンの語る三人の女性との恋の想い出という筋立てになっている(機械仕掛けの人形であるオランピア、宝石に魅せられて悪魔の手先となった遊女ジュリエッタ、病弱なのに悪魔に歌を歌い続けさせられて死んでしまうアントニア、という三人の女性との失恋の物語)。
だから、短くまとまった三つのオペラ(と、プロローグとエピローグ)が楽しめ、初心者でも飽きることがない。おまけに、機械仕掛けの人形だの、魔術だのもくわわり、絶対に退屈しない(パリの観客を飽きさせない)仕掛けもある。
シャルル・カミーユ・サン・サーンス(1835〜1921)の『サムソンとデリラ』にも「バッカナール」(古代ギリシアの酒と収穫の神バッカスを讃える音楽と舞踏)と呼ばれる超有名な管弦楽曲と豪華絢爛のバレエがあるうえ、以前話題になったTVドラマ『ストーカー』で用いられた音楽(デリラのアリア「あなたの声に私の心は開く」)も登場する。
物語も、旧訳聖書からとったもので、エホバの神を讃える怪力男サムソンが、ダゴンの神を讃えるペリシテ人たちの手先となった美女デリラの誘惑に負けて捕らえられるが、最後に渾身の力を発揮してダゴンの神の神殿を破壊する――という単純なもの。その単純な物語のなかにエロチックきわまりないデリラの歌が散りばめられているのだから、はじめてオペラを見る人も絶対に飽きない。
旧訳聖書の知識がなければわからない、のでなく、オペラを通して旧訳聖書の物語を知ることができるのだ(オッフェンバックの『天国と地獄』では、ギリシア神話と親しむこともできる)。
ただし、クロード・ドビュッシー(1862〜1918)の『ペレアスとメリザント』だけは、少々趣が異なる。
『青い鳥』で有名なメーテルランクの幻想的寓話戯曲に基づくオペラだが、これはフランス流グラントペラではない。豪華絢爛も、バレエも、アリアもなく、全編が、ただ朗読風の語り(レチタティーヴォ)。しかも登場人物の心理描写がすべて管弦楽で表されているため、フランス語の美しさと管弦楽技法の見事さに陶酔する以外なく(われわれ音楽の素人が)それに気づくためには、そうとう根気よく何度も(CD等で)音楽を聴きこむ必要がある。
ただし、何度も聴くうちに、強烈なエクスタシーに全身がふるえるような瞬間が訪れるので、努力の甲斐のあることは、保証します。
フランスとロシアという両国は、言葉のイントネーションがドイツ語や英語やイタリア語ほど激しく上下しないところや、バレエの人気が高くて発展したことなど、どこか似たところがある。オペラも、豪華絢爛、バレエの加わるものが多いことなど、共通するところがある。
が、ヨーロッパの中華思想を持つフランスの鼻の高さとは対照的に、ヨーロッパの辺境にあって東洋の遊牧民との戦いに明け暮れ、凍てつく冬の寒さにふるえて育った国民性は、土の香りのする民族性あふれる土着のオペラを作りあげた。
ロシア・オペラを聴いて気づくのは、ギリシア神話や旧訳聖書の世界ではなく、「ロシア」という世界の、圧倒的な奥行きの深さである。
私は、ソビエト連邦崩壊直前のモスクワやレニングラード(現在のサンクト・ペテルブルク)を訪れたことがあるが、そこで見た光景は、ロシア・オペラに描かれている世界とそっくりだった。
社会主義政権の打倒を叫んでデモをしていた大衆の疲弊した顔は、モデスト・ペトロヴィチ・ムソルグスキー(1839〜1881)のオペラ『ボリス・ゴドノフ』で、苦しみ、祈り、嘆く大衆と、変わりなかった。また、空き缶を前にして道路に座った多くの乞食(浮浪者)に、けっこう多額のコインが投げ与えられている様子からは、『ボリス』に出てくる乞食が聖者として、箴言に満ちた歌をうたう姿が思い出された。ならばクレムリンのなかでも、皇位を巡って血で血を洗う闘争をくりひろげたボリス・ゴドノフや貴族たちと同様、政治体制は変わっても、ミハイル・セルゲイヴィチ・ゴルバチョフやボリス・ニコライェヴィチ・エリツィンが、同じような権力闘争を展開していることが、容易に想像できた。
また、当時、ボリショイ劇場の周辺にも戦車が並んでいたにもかかわらず、タキシードに身を包み、イヴニング・ドレスの女性をエスコートして、シャンデリアの輝く劇場の椅子に座っていた青年は、プーシキン原作のピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(1840〜93)のオペラ『エウゲニー・オネーギン』の主人公――純愛を捧げる女性を無視し、友人の恋人への愛をも馬鹿にし、その友人を決闘の末に殺してしまい、のちに公爵夫人となった最初の女性と再開して、自分の愚かさにはじめて気づく田舎貴族――の末裔のようにも見えた。
私は訪れたことはないが、ロシアの中央アジアのほうへ行くと、「ダッタン人の踊り」で有名なアレクサンドル・プルフィリエヴィチ・ボロディン(1833〜87)のオペラ『イーゴリ公』の世界も、まだ残されているという。
逆に、ロシア・オペラ(とロシア文学)の世界を知らずに、ロシアは理解できない、といういい方ができるようにも思う。
なぜだかは知らないが、スラヴ系人種はバスの名歌手を数多く輩出し、ソプラノも太いドラマチックな声を持つ。そのためか、ロシア・オペラでは、テノールではなくバスやバリトンが主人公になることが多く、女性歌手も太々と声を震わせ、悠久のロシアの凍てついた大地と永遠に混迷を続ける社会を歌いあげる。
その迫力は、圧倒的で、はじめてオペラに接する人でも、驚嘆の連続に思わず聴き入り、見入ってしまうに違いない。しかもロシア・オペラのロシア民謡ふうのメロディは、どこか日本人の心を和ませる。黒澤明の映画『生きる』で志村喬が歌った♪命短し、恋せよ乙女……という歌に似たメロディが多いのだ(ルパシカを着て歌声喫茶にたむろしたかつての日本の社会主義者たちは、社会主義よりもロシアの音楽に魅せられたのかも?)
というわけでフランスとロシア・オペラは(誰もいわないことだけど)ひょっとして、日本人にとっては、最も「オペラ入門」にふさわしい「初心者向け」といえるかもしれない。
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