佐渡裕がレナード・バーンスタインの『キャンディード』を指揮するのは、今回で何度目になるのだろう? 詳しいことは知らないが、バーンスタインの大ファンであり、佐渡裕の大ファンでもある小生は、札幌交響楽団を指揮したパシフィック・ミュージック・フェスティバルでの公演、大阪センチュリー交響楽団を指揮した大阪国際フェスティバルでの公演に次いで、3度目の「体験」となる(たしか、その間に、新日本フィルハーモニー管弦楽団を指揮した東京公演もあったと記憶している)。
過去のどの公演も、見事なまでに楽しくオモロイ演奏で、このミュージカル(作曲者の言葉では「コミカル・オペレッタ」)が、バーンスタインの残した『ウエスト・サイド・ストーリー』に優るとも劣らない大傑作であることを確信した。が、どの公演でも、一緒に演奏を聴いた友人たちのあいだから、次のような声があがるのを耳にした。
「いやあ、最高に楽しい演奏で面白かったけど、物語の中味がよくわからなかった・・・」
「素晴らしい音楽だとは思ったけど、話の筋が複雑すぎて、ワケがわからなくて・・・」
最初のうちは、そんな言葉を口にして首を傾げる友人の顔を眺めて「ハハハハハ」と笑い飛ばし、心の底で「世の中には真面目な人間が多いんだ・・・・・・」と呟いていたのだが、同じような人物が4人、5人と出現すると、彼らの「疑問」を解消しなければ・・・という気になった。
たしかに、『キャンディード』の筋書きは、複雑といえるかもしれない。
ドイツの片田舎にある貴族の城で暮らしていた青年キャンディードが、城主である貴族(ツンダー・テン・トロンク男爵)の娘(クネゴンテ)と恋に落ちる。が、キャンディードは男爵の妹が生んだ私生児。そこで、男爵の一人息子のバカ殿(マキシミリアン)の告げ口から、「娘を貴様なんかにはやれん」と怒り心頭に発した男爵は、キャンディードを追放する。
その後、キャンディードはブルガリアの軍隊に入り、そこを逃げ出し、故郷に戻ると戦争で城は焼け落ち、放浪を続けると、焼け落ちた城から逃げ出して乞食になっていた家庭教師の哲学者(パングロス)と偶然出逢い、二人でポルトガルのリスボンに行くと大地震に出くわし、宗教裁判に巻き込まれ、そこを逃げ出したと思ったら、今度はパリで、死んだと思った恋人クネゴンテと再会。
ところが、喜んだのもつかの間、キャンディードは、クネゴンテがパトロンにしていたユダヤ人の大金持ちとキリスト教の大司教を二人とも殺してしまい、スペインに逃げ、さらに南米のブエノスアイレスまで逃げたと思ったら、そこで奴隷として売られそうになっていたバカ殿と腰元女中(パケット)に出逢い、そこにもスペインの官憲の追っ手が来たのでさらに南米を奥地に逃げると黄金郷にたどり着き、黄金の羊を手に入れ、その間に奴隷だったはずのバカ殿が修道院長に出世し、その修道院長を、キャンディードはちょっとした諍(いさか)いからまたもや殺してしまい、今度は黄金の羊を持ったままヴェニスに逃れ、そこのカジノでクネゴンテと再々会するのだが、カジノで詐欺師として金を稼いでいる彼女に、黄金の羊を奪われそうになり・・・。
いやはや、何人かの登場人物やエピソードを省略して書いても、『キャンディード』の粗筋は、たしかに「複雑」である。おまけに奇想天外。死んだと思った人間が生き返ったり、無一文が大金持ちになったり、ワケのわからない出来事が次々と起こる。
しかし、ちょいと見方を変えれば、この程度の物語は、よくある物語だということに気づくはずだ。たとえば――川から流れてきた桃を拾ったら、そこから男の子が生まれ出て、その男の子が大きくなって鬼の征伐にいくときに、犬、猿、キジが現れて・・・とか、竹藪の中に光り輝く竹があり、切ってみると中から女の子が産まれ、成長すると多くの貴人が求婚に訪れるが、彼らに難題を出してその誘いを断り、最後は故郷の月の世界へ帰る・・・といった話と較べると、『キャンディード』の「複雑さ」も「ワケのわからなさ」も、さほどのものではない、と思えるだろう。それに、「桃や竹から人間が生まれるのだろうか?」などと首を傾げるひとはいないはずだ。
ところが、「ニッポン昔話」のほうは、誰も「複雑」とも「ワケがわからない」ともいわないのに、『キャンディード』のほうは「複雑」で「ワケがわからない」というひとが少なくない。
それは、たぶん「先入観」のせいだろう。
『キャンディード』は、かのレナード・バーンスタインが作曲した大傑作ミュージカルである。しかもフランス革命にも影響を与えた18世紀の大哲学者ヴォルテールの書いた物語である。ならば単なる奇想天外な昔話とはちがい、深遠なシソウやテツガクが隠されているはずだ・・・と思う。だから「ワケがわからない」と思ってしまうにちがいない。
たしかに『キャンディード』には、思想や哲学が隠されている(それは『桃太郎』にも『竹取物語』にもある)。が、物語は物語である。そこにはウソもあればホラもある。ジョークやハッタリもある(それらがなければ物語という虚構が面白くならない)。が、そのような「奇想天外」の「虚構」を、いちいち「わかる」とか「わからない」とか理屈をつけず、ギャハハハハハと呵々大笑しながら楽しめば、それでいいのである。それが、物語の楽しみ方というものである。
おまけにミュージカル『キャンディード』には、(当たり前のことだが)音楽まで付いている。ということは、楽しさ倍増、面白さ倍増の魅力がある、ということである。
そうして、美しい音楽、楽しい音楽に身をまかせ、奇想天外な物語の世界にどっぷりと浸かり、ドイツの片田舎やパリの社交界、南米の黄金郷やヴェニスのカジノの世界などをキャンディードと一緒に旅すれば、彼が最後にうたう歌の「意味」もおのずと「わかる」はずである(それさえ「わかる」と十分である)。
キャンディードは、恋人のクネコンデと二人で、最後の最後に次のような歌をうたう。
「これからは、自分たちの畑を耕し、手を取り合って、一生懸命ひたむきに生きよう・・・」
奇想天外な物語以上に欲望の渦巻く「複雑」な現実社会では、そういう簡単なことが、いちばん難しくてやりにくいことで、だから、ヴォルテールは一見「複雑」「奇想天外」に思える物語を書いたに違いない・・・。 |