ある日とつぜん新潟の銘酒「越乃寒梅」が三本送られてきた。それに続いて、著作と大量のCD。すべて生前の三波春夫さんからのプレゼントで、なかに手紙が入っていた。と言っても尋常な手紙ではない。
長さ四メートルに及ぶ和紙に墨痕鮮やかな文字で、「拝啓 益々の御活躍をおよろこび申しあげます」と始まり、最後は、「平成十二年十月五日 藝魂花心 春夫」と絞められていた。
その数週間前、私はある雑誌の連載で、三波春夫さんの長編歌謡浪曲を絶賛する文章を書いた。とりわけ忠臣蔵の『血煙高田の馬場 堀部安兵衛』『赤垣源蔵徳利の別れ』『元禄名槍譜
俵星玄蕃』などは大名作で、まさに「日本のオペラ」と呼ぶに相応しいと書いた。
すると間もなく、手紙と御礼が三波春夫さんから届いたのだ。そこには戦後の満州で捕虜となり、シベリアに抑留されたことまで書かれていた。
「とてもおもしろくお書きになっておられて誠に光栄です。たしかにシベリアの時代に浪曲こそ日本の唱劇(オペラ)と確信した記憶がございます。ロシア人の歌と踊りの奥の深さを目にする一方で、実は、同年兵の捕虜に朝鮮人が三人おりました。この人たちは可成りのインテリで音楽なども共に創りました。
(略)やがて(日本に帰国して)三分間の歌謡曲を唄ううちに新しい長編歌謡浪曲を創ろうと思ったのでございます。(略)学兄さまにはどの辺りから興味を覚えて下さったかは存じませんが、嬉しいことでございます。(略)何日(いつ)かお目にかかることがありますように心から祈っております(略)」
残念なことに、手紙をいただいた頃から(さらにずっと以前からも)前立腺癌を患っておられた三波さんは、間もなく入退院を繰り返され、会えないまま翌年四月に亡くなられた。
会って是非ともお話を聞きたいと思いながら、結局叶わなかった人が何人かおられる。植草甚一さん、虫明亜呂無さん、大島鎌吉さん、荻昌弘さん……。三波春夫さん直筆の手紙には、それらの人々を次々と思い出させてくれるのだ。
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