今年の春、我が家のリビングルームと仕事部屋に、CD専用棚とLD専用棚をつくった。サイズに合わせて、特別に大工さんにつくってもらったのだ。
CDは、かつて主流だった30センチLPレコードに較べて少々チッポケで、LPをぎっしりと本棚に並べていたときほどの満足感を得る(所有欲を満たす)ことができなかった。が、専用棚ができ、オペラ、ミュージカル、歌曲、アリア集、シャンソン、カンツォーネ、歌謡曲、ジャズ・ヴォーカル、民俗音楽、オーケストラ、ピアノ、ヴァイオリン・・・と自分なりに分類し、床から天井までを占める専用棚に並べてみると、CDの行列もなかなかに壮観な眺めで、おおいに満足できた。
これで、本棚に汚く積みあげられていた約1千枚のCDと、約3百枚のLDが、美しく棚に並ぶことになった。
ところが、過日、テレビを見ていて、強烈にショッキングな「事実」を知ってしまった。
CDやLDは、寿命が、25〜30年しかない、というのだ。
「何だとおー!」
けっして、大袈裟にいうわけでなく、わたしは思わずソファから腰を浮かし、テレビに向かって、大声をはりあげてしまった。
「ナニイ! デジタル情報は、永久に残るんとちゃうんか!?」
番組によると、CD盤やLD盤に刻まれた「0」と「1」のデジタル情報は、きわめて長期間、半永久的に保存されるという。が、CD盤やLD盤を覆っている合成樹脂だかなんだかのコーティングが劣化し(剥離し)、情報を正確に取り出すことができなくなる(いわゆる「針飛び」を起こすようになる)というのである。
しかも、コーティングの劣化は、どれほど保存状態に気を配っても避けられず、25〜30年で――つまり、最初に発売されたCDやLDは、もう、そろそろ、「劣化」がはじまるというのだ。
CDやLDだけではない。MDも、DVDも、FD(フロッピーディスク)も、すべて劣化するため、情報を保存し続けるには、劣化の始まる前に、バックアップ(複写)を取る必要があるという。
そんなバカな! 千枚のCDと3百枚のLDの複写など、できるわけがない!
テレビ番組は、さらに、デジタル機器(コンピュータ)の「進化」のために、古い方式(廃棄された方式)で保存された情報の多くが、じっさいに取り出せなくなってきている、とも語っていた。
NASAが保存している火星の写真も、すでに20パーセントが再生不可能になっているという(NASAは、この「事実」を否定しているらしいが)。
これは、理解できる。
LDが発売された当時(20年ほど前)、VHDという映像盤再生装置が発売された。
当時、オペラやバレエは、LDよりもVHDのほうにソフトが大量に揃っていたので、わたしも、その機械(プレイヤー)を購入し、ソフトも十枚ほど買った。が、間もなくLDが主流となり、VHDの生産は中止され、ソフトもすべてLDで買い換える破目になった。
いま、我が家のVHDプレイヤーは物置の奥で眠っている。何枚かあるソフト(VHDディスク)は本棚の端を占拠する邪魔者でしかない。
そういえば、VHSのビデオデッキと並べて、ベータのデッキを置いているが、最近は、スイッチを入れなくなった。
そのことに気づき、20年前に録画したNHKの芸術劇場、カルロス・クライバー指揮ウィーン国立歌劇場公演の『カルメン』(フランコ・ゼッフィレッリ演出、オブラスツォワ、ドミンゴなどが歌った最高の名演)のベータ・ビデオをかけてみた。
すると、まるでアダルト流出裏ビデオを見ているようなザラザラの画面になっていた(ご存じですよね)。ビデオ・テープも「劣化」するのだ。
ということは、ベータのデッキも、そろそろオクラ入りさせるほかなさそうだ。
いや、そのうちに、大量のCDも「劣化」を待たずに「邪魔者」になってしまうかもしれない。じっさい、浪人生の娘は、すでに「CDは邪魔」といって、MDばかり聴いている。
そのうち「音楽」はインターネットで売り出され、デジタル・スティックだかなんだかが、保存手段の主流になるにちがいない。しかしそれも、やがては新しい「進化」によって・・・。
TV番組は、次のような「結論」で締めくくられていた。
いまから5千年後か、1万年後の人類が、過去の文明を発掘しようとする。と、土のなかから、わけのわからない大量の「粉末」が多量に掘り出される。それらは、すべてコンピューター機器とそのソフトの残骸だ。もちろん、未来の人類には、それが何であるか、さっぱりわからない。
さらに土を掘り進むと、うっすらと字や絵が残されたボロボロの紙が出現する。そしてもっと掘り進むと、石版に刻まれた古代メソポタミア文明の楔形文字や、ロゼッタ・ストーンに残された古代エジプト文明の象形文字が現れる・・・。
嗚呼! 現代のコンピューター文明とはいったい何なのか! 大量に消費し、瞬時に燃え尽きるだけの存在なのか!
棚に美しく並べた大量のCDとLDを眺め、それらがすべて近い将来、何の価値もない「燃えないゴミ」になるのかと思うと、呆然とするほかなかった。
その棚のなかから、一枚のCDを取りだし、プレイヤーにかけた。バーブラ・ストライザンドの『クラシカル・バーブラ』。
タイトルどおり、ミュージカルの大スター、バーブラ・ストライザンドが、ドビュッシー、フォーレ、ヘンデル、ヴォルフ、シューマンといった作曲家の、クラシックの歌曲やオペラ・アリアを歌ったアルバムだ。
バーブラの、細く、高く、澄んだ歌声が、心に響く。消え入りそうなほどに繊細な歌声が、愛の儚さ(はかなさ)を歌いあげる。いや、彼女は、人間の存在そのものの儚さを歌っているのだ。
クラシックの歌手のように、楽譜にのっとった正確さや、技術の誇示がないだけに、いっそう歌の心が身にしみる。
あの、神秘的なルックス。何を考えているのか、何を見つめているのかわからない彼女の目は、女優としての演技でなく、けっこう深い人間の心の奥底を見つめているにちがいない。儚く消えてゆくほかない人間という存在を・・・。
そうなのだ。
何もかも、消えてゆく。
歌が、一瞬、一瞬のうちに虚空に消えてゆくのと同じように、すべては消えてゆく。消えてゆくから美しい。あとには何も残らない。残らないから、美しい。
諸行は無常――なのに、残そうとするから、醜くなる。どうせ、何も残らないのに・・・。
バーブラの歌を聴きながら、そんな思いにとらわれる・・・と、CDが劣化することも、デジタル機器が進化することも、CD専用棚をつくったことも、どうでもよくなってきた。
ハハハハハと、呵々大笑したくなった。
そうなのだ。歌さえあれば、それでいいのだ。 |