我が国では「オペラ」をクラシック音楽の一ジャンルだと考えている人が多い。そして、クラシック音楽は難しいから自分には無縁なもの、と敬遠する人も少なくない。
たしかにクラシックに分類されるジャンルの昔の作曲家が、戯曲(台本)に音楽をつけた作品が多いから、そういう側面もないわけではない。が、「オペラ」とはラテン語で「オプスopus(英語読みで「オパス」)=作品・仕事」の複数形。英語の「オペレーションoperation」にもつながる言葉で、日本語に「歌劇」と翻訳されている以上に、「いろんな作業の集まった作品群」というのが本来の意味だ。
実際、芝居としての物語があり、登場人物の心理の動きや会話の妙味もあり、豪華な舞台装置や舞台転換の面白さもあり、衣裳デザインも楽しめ、バレエが伴っているものもある。
当たり前のことといえるが、オペラとは、ただ音楽や歌を聴くものではなく、様々な楽しみ方ができるもので、ミュージカルや映画も「オペラ」の一種と言うこともできる。そして、芝居に音楽までついているのだから、基本的にわかりやすいもの、といえるのだ。
たとえばフランス革命直前に書かれたボーマルシェの『フィガロの結婚』という戯曲がある。その芝居を見るには、時代も古く感性も違う西欧の貴族や召使いたちの長い会話を聞き続けるために、相当の忍耐が必要となる。
しかし、そこにモーツァルトの軽妙にして美しい音楽が加わると、浮気しまくりの伯爵や、夫の浮気に悩んで若い男に手を出しかける伯爵夫人や、ふしだらな貴族に機知で闘う召使いなどの不倫ドタバタ・スラップスティック・コメディに大笑いしながら、いつの世も変わらない男と女の大騒動を楽しむことができるのだ。
しかも最近のオペラの演出は、総じて相当に過激で、舞台設定を現代に移し、男女の営みは組んず解れつ、下着姿も全裸も珍しくなくなった。
一昨年のモーツァルト生誕250年を記念して、生地ザルツブルクで上演された『フィガロの結婚』も、そんな現代版演出。全裸こそ登場しないものの若い男性に扮した女性歌手と伯爵夫人の愛の営みは、観客を少々倒錯した世界に誘う。
しかも原作のオペラには登場しない天使を登場させ、ドタバタ不倫騒動を「演出」させるという「新演出」は、モーツァルトの音楽とともに芝居の面白さも満喫させてくれる。
さらに過激な展開が予想されるのはパリ国立オペラによるワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』。
演出のピーター・セラーズ(あの『ピンク・パンサー』で有名な俳優と同姓同名の別人)は『フィガロの結婚』の伯爵を現代ニューヨークの富豪ドナルド・トランプに見立てたり、ヘンデルのオペラ『ジュリアス・シーザー』をアメリカのアラブ中東政策とオーバーラップさせるなど、超過激な舞台作りで名を馳せた演出家。
はたして、ワーグナーのエロチックで妖美で耽美な音楽をバックに、中世の騎士と女王の不倫の愛がどのように描かれるのか(おそらく全裸は必然でしょう)いまから想像するだけでもワクワクしてくる。
日本のオペラも負けてない。4月から『題名のない音楽界』の司会者にもなる佐渡裕の指揮で上演されるオペレッタ『メリーウィドウ(陽気な未亡人)』(兵庫県立芸術文化センター)は、佐藤しのぶ、塩田美奈子、ジョン・健・ヌッツォらの豪華歌手陣とともに落語の桂ざこば師匠まで登場。関西のノリでのドタバタ不倫喜劇には大いに期待できる。
同じ兵庫では、作家の筒井康隆がジャズ・ピアニストの山下洋輔と組んで『フリン伝習録〜ジャズ版オペレッタ「メリーウィドウ」』まで上演される。
こうして書くとオペラの世界は不倫だらけ。若者にはわからない、大人にしか理解できない男と女の化かし合い。そんなオペラを「敷居が高い」と避けるのは愚の骨頂。
さぁ、オペラの世界へ! 男と女の愛の世界へ! |