「敷居が高い」という言葉がある。が、この言葉を口にするときは、敷居を跨いでない場合がほとんど。つまり敷居の向こう側にある世界に触れないまま、なんとなく「敷居が高い」と思い込む。要するに「食わず嫌い」と同じ。そんなつまらないことはない。
これから紹介するオペラやコンサート、歌舞伎や文楽の世界。まだ足を踏み入れたことのない人にとっては、敷居は高く感じられるかもしれない。が、所詮は敷居である。鴨居ではない。跨げない高さにある敷居など存在しない。どんな高尚な芸術も伝統芸能も、すべては娯楽。お勉強ではない。楽しむために存在するものである。
たとえば、オペラ。何やら難しい音楽が延々と続き、太った歌手が両手を広げてイタリア語かドイツ語でアアアアア〜と大声を張りあげるワケのわからないモノ……と思っている人がいるかもしれない。が、それは大間違い。大錯覚。大誤解。
オペラのストーリーは、すべてが男と女のホレタハレタ。主流は、不倫。横恋慕あり、三角関係あり、熱愛、盲愛、悲恋、邪恋、女狂い、男狂い、岡惚れ、よろめき、乱交、淫行、嫉妬、憎悪、百人斬り、千人斬り、略奪愛、加虐愛(サディズム)、被虐愛(マゾヒズム)、自己愛(ナルシシズム)、近親相姦などなど…、男女の恋愛の見本市。だからガキには理解できない。酸いも甘いも噛み分けた経験ある大人だけにわかる世界。
『第九』を聴いてベートーヴェンは凄い、と感じることはガキでもできる。しかし、夫の愛が薄くなったことを嘆き、若いツバメとの不倫を繰り返していたところが、そのツバメに新しい恋人ができ、泣く泣く若いカップルの幸せを願う中年女性の悲哀(リヒャルト・シュトラウスの歌劇『ばらの騎士』)など、ガキにはとうてい理解できない。
しかも最近のオペラでは、日本語の翻訳字幕が出る。舞台で展開される愛憎劇を、字幕を追って楽しんでいると、その物語を大オーケストラが盛りあげてくれる。
そもそもオペラとは、芝居に音楽をつけて、わかりやすくしたもの。お芝居ならば、台詞に一所懸命耳を傾けなければならないが、オペラなら、舞台の上の登場人物が泣いているのか笑っているのか、音楽が教えてくれる。音楽に身を浸せば、それでいいのだ。
また、その音楽に身を委ね、コックリコックリと船を漕ぐのも最高の贅沢。幕が開く前に10分間ほどかけて荒筋を読んでおけば、どこで目を覚ましても、ストーリーの展開はだいたいわかる。だいたいわかれば、それでいいのだ。日本人の悪い癖で(と言っていいと思いますが)わからないところばかりが気になって、なんだかよくわからないと思いこんでしまう。
そんな重箱の隅はつつかずに、荒筋さえわかれば、それでいい。あとは音楽に酔えば、満足できるのがオペラである。
何しろオペラは(もちろん歌舞伎や文楽も)同じ演し物を繰り返し見たり聴いたりしても飽きないもの。聴けば聴くほど、見れば見るほど新しい発見もあり、味わいも深くなる。焦らず気楽に、楽しめばいい……。
ここで一言ご注意を。オペラを見に行くからといって、別に着飾る必要はありません。タキシードとイヴニングなど不要。もちろんたまにはちょっと洒落て着飾るのも楽しいかもしれません。が、着慣れたもので音楽と舞台を楽しむほうをオススメします。
とにかくオペラは楽しいモノで、オペラ好きの小生なんぞ、(2008年)7月に来日するパリ国立オペラ公演のワーグナー『トリスタンとイゾルデ』では、演出家(ピーター・セラーズ)が絶対に凄いことをするに違いない!(主役の女性が全裸に?あるいはホンバンを?)と期待しているくらいですから。
オペラは幕間も楽しみ。ロビーでガヤガヤワイワイ、大勢の人がビールやワインを飲みながら、今見た舞台について話してる。その話に耳をそばだてるのもナカナカ面白い。
「今日の指揮者はダメだな。もっとオケを響かせてくれよ」
「今日のテノールは抜群だね」
「ソプラノは声が出てないじゃないか」
……などと即席の批評家たちが「論争」している。ただし、その声を信じてはダメ。そんなものか…と聞き流すこと。自分が楽しめているかどうか。それだけで十分のはず。そして幕が下りたらレストランへでも行きましょう。
イタリア・オペラは最後に必ずといっていいほど主人公が死ぬ。不倫の末や裏切りの末に「モ〜ルタ〜!(死んだー!)」と叫んで幕が閉じる。すると、観客は「ブラヴォー!」と喜ぶ。それは、地中海の太陽と美味しいパスタやワインのある国ならではの芸術。美しい風土と美味しい料理があるから、悲劇を楽しむことができるのだ。
ドイツ・オペラはちょっと事情が違う。ジャガイモとザワークラウト、どんよりと雲の垂れ下がった気候では、そういう余裕は生まれず、主人公は「死ぬ」のではなく「天に召される」。
近松門左衛門の心中物に喝采を送る日本人は、イタリア的。料理も旨いし、風土も美しい。だからオペラのあとは、レストランか鮨屋へ…。それもふくめてオペラの楽しみと言えるのだ。
オペラもクラシック音楽も、いまや東京が世界中で最も多い公演数を誇るほど。いや、それが誇れることかどうかはさておき(宅配便の集積所のようなもの、とも言えますからね)、誰でも、いつでも、何らかの音楽を楽しむことができるのは確か。
東京では常に、世界の一流どころの指揮者とオケの演奏会が、それが当たり前のように目白押し。とはいえ、もしも貴方が、いままでクラシック音楽とはあまり縁がなく、これから聴き始めてみようか…と思っている程度の初心者であるなら、何も高いチケット代を奮発して外来のオーケストラのコンサートに行く必要はない。日本のオーケストラで十分、などと書くのは、日本のオーケストラの人に失礼なくらい、最近はレベルが高い。
クラシック音楽というと、昔の大作曲家が残した名曲と言われる楽譜を、そのまま演奏しているもの、と思っている人が多いかもしれないが、それは、大きな間違い。楽譜というのは曖昧なところも多く、演奏家や指揮者によって、まったく別の音楽に思えるくらい演奏が異なる。
しかも、演奏家や指揮者やオケのその日のコンディションも大きく影響する。前日奥さんとケンカした指揮者は、腹立たしさのあまり、思いっきり指揮棒を振りまわし、オーケストラを響かせるかもしれない。クラシックといえど音楽はナマモノ。
だから、ライヴに足を運ぶのが一番。オペラや歌舞伎は(あとで書くように)入場料も高いので、DVDで当代一流の舞台を楽しむというのも悪くない。が、音楽だけなら、CDよりもナマに限る。
クラシックもいいけど、本格的にジャズを聴いてみたい…と思ってる人も少なくないはず。何しろ、最近はジャズ・ブーム。バーやレストランのバックに流れているジャズに、BGMではなく身を浸してみたい、と思っている人も少なくないだろう。
ジャズを聴こうと思えば、六本木の『ミスティ』、新宿の『ピットイン』、吉祥寺の『サムタイム』など(東京以外にも)各地にライヴハウスがあるので、とりあえずは、近場に足を運ぶのが基本。
もっとも、ジャズほどジャンルの広い音楽はないので、ひょいと足を踏み入れたライヴハウスでやっている音楽が、自分の好みに合うとは限らない。ギンギンのロックに近いようなクラブ系ジャズをやっている場合もあれば、重く静かな70年代モダンジャズで、周囲の客が眉間に皺を寄せて聴き入ってる場合もある。
とはいえ、ジャズの基本はダンス(いや、クラシックも、もとはといえば踊りから生まれた音楽が多い)。山下洋輔も若いときはダンス・ホールでピアノを弾いていた。だからライヴハウスでも、自分の身体を揺らすことができるか否か。それが、聴く側にとっての基本。身体を揺らせることができれば、自分の好みのジャズと言える。できなければ、酒だけ飲んで、店を出ればいいのだ。
話題をがらりと変えて日本の古典芸能にも注目してみたい。
「世界遺産」という言葉が最近いろいろとニュースでも話題になり、「自然遺産」と「文化遺産」のあることを御存知の方は多いだろうが、そのほかに「世界無形遺産」というものがあり、日本からは、歌舞伎、人形浄瑠璃、能楽が選ばれている。
日本人であるにもかかわらず、その「世界無形遺産」をまだ見たことがない、という人は、まったく不幸と言うほかない。若いころにチラリとテレビなどで見て、何を喋ってるかわからず、興味もなくチャンネルをまわしたあと、そのまま無縁…というのでなく、大人になって足を運ぶと、その芝居としての面白さ、舞台の美しさに、目を瞠るはず。
たとえば『仮名手本忠臣蔵』の『九段目山科閑居』。忠臣蔵(赤穂浪士の討ち入り)を知らない人はいないだろうが、それを脚色した歌舞伎ヴァージョンは、人間関係がさらに複雑に錯綜し、そこから日本人の原点とも言うべき義理と人情の世界が現れる。
この九段目でも(ここでは詳しく説明できませんが)、塩冶判官(浅野内匠頭)を切腹に追い込んでしまった男(加古川本蔵)が、きわめて日本人的な、いや、いまは失われてしまった日本人の原型とも言うべき情念で、その罪の償いをする。これもオペラと同様、ガキには理解できない大人の世界。
歌舞伎は昼の部と夜の部が各4本立ての場合が多いが、歌舞伎座には一幕だけ見るシステムもある。『仮名手本忠臣蔵』(大序〜一一段目)は、日本人なら(!)一度はナマで見ておきたい演し物だ。
歌舞伎に初めて足を運ぶと、誰もが驚くのは、客席に意外と若い女性が多いこと。もっとも、昨今テレビのワイドショウでも取りあげられることの多い海老蔵や獅童や亀治郎のことを思えば、それは納得できなくもない。が、さらに驚くのは、文楽の客席にも若い女性の姿が見られることだ。
一人前の主遣い(三人で扱う文楽人形の頭を動かす役目)になるのに三〇年かかると言われる世界。浄瑠璃語りもふくめて、スターはすべて還暦を過ぎている。が、人形の妖しい表情と、喉から血を吐くほどの浄瑠璃の語り、それに近松門左衛門の人情の世界にハマると、どんな若い人でも(特に女性は)その魅力の虜になるという。
正気言って、小生は、その魅力にはまりそうな自分が恐く(オペラと歌舞伎だけでも、金と時間がめいっぱいですから)、文楽の世界からはわざと足を遠ざけている(NHK教育テレビによる時々の中継を見るだけに止めている)のがホンネ。
しかし、国立文楽劇場『曽根崎心中』などというポスターを見ただけで、大阪で仕事のときに寄ろうかな…と血が騒ぐ。この世で結ばれない男と女があの世をめざす近松の心中物は、いわば『失楽園』の原点。渡辺淳一の世界のモデル。
最近では、国立文楽劇場でも東京の国立小劇場でも、様々な「文楽鑑賞教室」が開催され、ストーリーの解説や、見所などを教えてくれる。まずは、それに足を運ぶのもいいかもしれない。何しろ、人形浄瑠璃(文楽)の世界に完全にハマッた友人にいわせると、「人形を見て、浄瑠璃を聴くだけで、死ぬまで人生飽きない」そうだから。
人形浄瑠璃が日本人の庶民の情念を表したものなら、能楽は少々高級な幽玄の世界。江戸時代以降なら、人間の感情も言葉も現代に通じるが、能楽となると、演目も源氏物語や伊勢物語に題材をとったものが多く、ちょいと理解しにくくなる。が、能管と大鼓の驚くほど澄明な響きに耳を傾け、謡を聴きながら能面をつけたシテ(主人公)の舞に見入るのは、現代社会に疲れた心の洗濯。
東京千駄ヶ谷の国立能楽堂や横浜能楽堂など、いくつかある能楽堂では毎月のように催しがあるので、演目にこだわらず、一度心の洗濯のために足を運んでみるのも悪くない。
もっとも、最近では、本来能楽の合間に演じられた狂言が大人気で、若い女性に大人気の野村萬斎、ワイドショウを騒がせている和泉元彌(狂言界の亀田一家という声もある)、それに(いつでもどこでも何と一緒でも美味しく食べられるから、という理由で)「お豆腐狂言」と自称する京都・茂山千五郎家の宗彦・逸平の兄弟など、どの公演も満員盛況といえる人気を集めている。
なかでも、新作狂言に宇宙人や長嶋茂雄を出すという突拍子な活動で(それは「ジャパニーズ・トラディショナル・コメディアン」としては王道とも言えるが)注目できるのが茂山家の「お豆腐狂言」。
京都先斗町の歌舞練場で行われる『花形狂言会』などは、毎年ぶっ飛んだ中味で話題を集めている。
日本文化に触れるのは歌舞伎・能・狂言だけではない。宝塚歌劇も、立派な日本文化に違いない。とはいえ、女性はいいが、男性がその会場に入るには少々勇気を要する。というのは、宝塚大劇場でも東京宝塚劇場でも、観客がほとんど女性なのだ。ちらりほらりと見える男性客も、夫人の付き添い。
圧倒的多数の女性に囲まれるのは(小生の経験では)最初はたじろいでしまう。が、それもまた一興と思って堂々と振る舞えれば、この空気も悪くない。舞台は豪華絢爛女性ばかりのレビュー。幕間のロビーも女性ばかり。そんな『異次元体験』もまた乙なもの。
大ヒットした『ヴェルサイユのばら』などの定番だけでなく、リヒャルト・シュトラウスのオペラ『ばらの騎士』の翻案に挑戦したり、戦後処理でGHQと渡り合い、新憲法の起草や吉田茂首相のもとでの日米講和条約締結に動いた白洲次郎を主人公に選んだりもしている。ちょいと白洲次郎に対する宝塚流の解釈を見てみようか、という男の興味が、女の園へ足を運ぶ理由にできるのは嬉しい。
小生は関西(京都)生まれの関西育ちで、姉が小さいころからの宝塚ファン(寿美花代の大ファン)だったこともあり、宝塚とは縁が深かった。が、まさか男子たるものが、あのような「手弱女(たおやめ)ぶり」の芝居やレビューに興味を抱くわけがなく、長いあいだ興味がなかった。
ところが、大学時代の唯一の恩師といえるシェークスピア学者の小田島雄志氏が、さかんに宝塚の舞台を賞賛するもので、それなら一度は…と、長谷川一夫演出の『ヴェルばら』に足を運んだところが、これがなかなか面白い。わかりやすさと豪華さと楽しさは、芝居の原点。正直いってハマるとまではいかなかったが、無視はできないもの(芝居に興味を持つ者としては学ぶべき要素の多いもの)と納得した。もちろん女性を誘うにも最適のものとも……。
宝塚は、日本で最も有名な歌劇団といえるのに、じっさいに足を運んだ人が少ない(とくに男性はほとんどいない)のは不思議。先頃亡くなった日本でただ一人のアカデミー賞女優でジャズ・シンガーのナンシー梅木が、その助演女優賞を獲得した映画『サヨナラ』(マーロン・ブランド主演)でも、宝塚(の名前を変えた松林歌劇団)のスターが主人公。宝塚も、一度は見ておきたい「日本文化」なのだ。
ミュージカルは、ジャズ・ポップス・ロック系の音楽に乗って米語(アメリカン・イングリッシュ)で歌われるオペラ。
オペラ(opera)とはラテン語のオーパス(opus=作品)の複数形で、つまりは音楽や戯曲や踊りや衣裳や舞台装置……等々、多くの作品の集合体の意。
だから『ウェスト・サイド・ストーリー』のようなミュージカルの大傑作は、最近ではミラノ・スカラ座でも上演されるようにもなった。とはいえ、アメリカ生まれだけあって、一般にオペラと呼ばれているものよりも気楽に楽しめるのは確か。
劇団四季が何度も繰り返し上演している『ウェスト・サイド・ストーリー』は、『ロミオとジュリエット』のニューヨーク若者ギャング団ヴァージョン。60年代に公開された映画が日本でも大ヒットしたので、若いころに見た人も少なくないだろう。が、ナマの舞台は、また一興。レナード・バーンスタインの音楽とジェローム・ロビンスの振付は同じだが、曲の順序が微妙に映画とは違っていたり、ダンス音楽の長さが違っていたりして、映画しか知らない人には新鮮にも感じられるはずだ。
いやはや、芸術の世界の間口は広い。こんな広い間口に、高い敷居など存在するわけがない。
女性の大好物として「芝居蒟蒻芋蛸南京(しばいこんにゃくいもたこなんきん)」という言葉が存在するためか、日本人の男性は、劇場やコンサートホールへ足を運ぶ人が、あまりにも少ない。ひょっとして、オペラとも、ミュージカルとも、コンサートとも、能歌舞伎狂言文楽とも、まったく無縁に一度もナマを目にすることなく、一生を終える日本人男性も珍しくないのではないか。
酒を飲むのもいいだろう。競馬競輪も悪くない。ゴルフも楽しく健康的だ。けど、音楽や舞台の世界には、つねに人生が描かれている。人生を振り返ることのできる年齢に達したとき、目の前に展開されたり、音で響いたりする「虚構の人生」もまた、深く味わうことができるはずだ。
久しぶりに女房と腕を組んで劇場の門をくぐるのも、あるいは女房と異なる女性を誘うのも、また一興。オペラや歌舞伎を見たあとのワインや日本酒も、また格別。パスタとチーズの味わいも、鮨ネタの舌触りもグレード・アップするはず。
いやいや、モーツァルトやベートーヴェン、シェークスピアや近松門左衛門と生涯の友になるわけで、人生に豊かさが増さないわけがない。
とはいえ、少々問題があるのは、チケット代。オペラなら最も高額の席で3〜5万円。歌舞伎でも1万5千円から2万円。それが二人分となると……。安い席ももちろんあるが、そういう席はけっこう早く売り切れてしまう。そこで……そういうゴージャスなイベントは、ここぞという機会に挑むことにして、とりあえずはオペラも歌舞伎もDVDで楽しむ、という方法もある。
DVDなら、『ばらの騎士』の最高の舞台(クライバー指揮ウィーン国立歌劇場)も、主役の女性が見事な全裸の踊りを披露する『サロメ』(マルフィターノ主演ベルリン・ドイツ・オペラ)も、5〜6千円。『勧進帳』も『仮名手本忠臣蔵』(全段ではないが)も同じくらいの値段で、しかも何度も楽しめる。
DVDでオペラや歌舞伎を楽しむとなると、やはりテレビの画面はちょっと大型(最低でも42インチ)にしたいところ。DVDのプレイヤーは1万〜2万円の再生専用でもいいから、思い切って30万円前後フンパツして42インチの液晶かプラズマを購入すれば、それで残りの人生約20年、飽きることなく素晴らしい舞台を我が家で見ることができる。考えてみれば、安い買い物とも言える。
秋の夜長を我が家でビールかウィスキーを傾けながら、まずは画面でオペラ入門、歌舞伎入門。それから(どなたかと)腕を組んで……というのがベストの楽しみ方だろう。
「芸術は長く、人生は短い」(セネカ)
ならば、その芸術の長さに乗せてもらおうではないか。
「芸術は人生と同じ。入り込めば入り込むほど広くなるものである」(ゲーテ)
ならば、芸術とともに広く豊かな人生を! |