私がヴァイオリニストの五嶋龍クン(当時13歳)にインタヴューするため、ニューヨークへ飛んだのは2001年10月上旬のこと。同時多発テロの3週間後だった。
こんなチャンスはないと思い、まだ噴煙漂うグラウンド・ゼロを見てまわり、目に焼き付けた。それは、現代文明が一瞬にして廃墟と化した荒涼たる光景だった。
そんな光景とは正反対に龍クンとの会話は楽しかった。勉強にも空手の稽古にもヴァイオリンにも明るく取り組んでいた彼には、未来が広がっていた。
その旅行では、もうひとつ目的があり、それはレナード・バーンスタインの事務所を訪れることだった。
日本で彼の作曲したミュージカル映画『ウェストサイド物語』が大ヒットした頃、小学5年生だった私は彼がニューヨーク・フィルを指揮したドヴォルザークの『新世界交響曲』のLPレコードを買って聴き、それ以来彼の大ファンになった。
彼の録音したCDは全て手に入れ、来日演奏会にも何度か足を運び、偶然にも彼の愛弟子だった指揮者の佐渡裕さんやマネージャーのSさんとも親しくなり、そんな縁でバーンスタインの事務所を訪れたのだった。
バーンスタインの事務所は、彼の住まいだったダコタハウス(ジョン・レノンも住んでいた)の近くにあり、彼の死後10年経ったその頃もまだ、10人ほどのスタッフが楽譜や資料の整理に追われていた。そんななかで私は、いかにもバーンスタインらしい機能的で飾らない椅子や机に触れて感激していた。
が、ロッカーの扉を開いたときに仰天した。なかから大量の勲章やトロフィーがガラガラと音を立てて溢れ出たのだ。旭日ナントカと表書きされた桐の箱の勲章も、フランスのトリコロールの勲章もあれば、アカデミー賞のオスカー像やグラミー賞の小さな金色の蓄音機もあった。
「彼はこんなのを飾らない人だった」とスタッフのひとおりが言ったので、「だったらグラミー賞をひとつください」と言うと、「それはダメ。あとで別の何か送ってあげるから」と笑顔で言われた。
そうして後日送られてきたのが、バーンスタインが燕尾服の下に着用した(という)ベストだった。しかし残念ながら証拠がない。スタッフの笑顔を信じるほかない……というのもまた「バーンスタイン的な人間を信じる行為」と言えそうだ。
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