レナード・バーンスタイン(1918〜1990)は、晩年になって(1985年頃から)自作を自分の指揮で次々と録音しはじめた。
超一流のピアニストでもあり、超一流の音楽解説者・音楽教育者でもあり、そして何より超一流の指揮者であった彼が、自分のタクトで自分の作曲した作品の「決定版」を残したいと思った気持ちは理解できなくもない。
が、まず最初に『ウエスト・サイド・ストーリー』の全曲を録音する企画がもちあがったとき、バーンスタインは、あまり乗り気になれなかったという。それは「音楽も台詞も舞台設定も、すべて1950年代のものであり、古くさくなっているのではないか、と思えたから」だという。
この言葉は、にわかには信じられない。なぜなら、「ダンス組曲」としての『ウエスト・サイド・ストーリー』は、多くの国々の多くの指揮者とオーケストラによって繰り返し演奏され、録音もされ、大勢の音楽ファンに楽しまれているからだ。その音楽を「古くさい」などとは誰も思っていないことくらい、当のバーンスタイン自身もわかっているはずだ。
とはいえ、このときの録音は「ダンス組曲」ではなく、ミュージカルの全曲だった。そうなると、抽象的な音楽のみの響きとは異なり、日常的な会話や台詞、そしてそれにマッチした音楽という具体的な要素が、露骨に1950年代のニューヨークという姿を表現することになる。
Tシャツ(というよりも丸首シャツ)やカッターシャツやポロシャツにジーンズ姿の若者たちは、ジェット団やシャーク団といった名前を付けた愚連隊を形成し、縄張り争いを繰り返す。が、彼らは、ドラッグには手を出さず、入れ墨もせず、もちろん銃を乱射するわけでもなく、警官をバカにしながらも呼び止められれば会話を交わす。マリファナを吸いながら乱交パーティにふけるのでもなく、ブレザーやドレス姿で体育館でのダンスパーティに足を運ぶ。そして、たった一度の偶然から生じてしまった殺人に、恐れおののく。
誤解をおそれずに書くなら、彼ら1950年代の若者たちは、おとなしいものである。そして、彼らの会話をそのまま台詞にしたアーサー・ロレンツの詩も、それにメロディをつけたバーンスタインの音楽も、じつにおとなしいものといえる。歌詞にはせいぜい“Punk”(ろくでなし)という言葉が出てくる程度で、“Fuck”(この訳語は書かないでおきましょう)という言葉は一度も用いられず、音楽もエレキギターやシンセサイザーが用いられているわけでなく、せいぜいドラムとエレキベースが加わっているだけなのである。
しかしそれでも、『ウエスト・サイド・ストーリー』は、1950年代当時、あらゆる意味で「時代の最先端」を突っ走る文字通りの前衛的作品にほかならなかった。
16世紀イタリアのヴェローナが舞台となっているシェークスピアの最高傑作『ロミオとジュリエット』を、「時代の最先端」としての「現代」に置き換えて再生しようとする試みは、舞台をニューヨークのウエスト・サイドという(当時の)貧民街に移し、そこに蠢く若者たちの民族的対立(白人対プエルトリカン)という構図へと変化した。そして格調高い名台詞は当時の若者たちの日常語に置き変えられ、古典劇はブロードウェイ・ミュージカルへと変身し、歌詞も音楽も(そして振付も)、「時代の最先端」にふさわしい革新性を備えたものとして、世界中の人々に強烈な衝撃を与えたのだった。
新しいものは、時代とともに古くなる。新しいものほど、古くなるのも早い。その例として「たまごっち」や「プリクラ」をあげるまでもなく、流行が移ろいやすいのは、孔子、孟子、ソクラテス、プラトンの時代から、洋の東西を問わず、賢人たちが嘆きとともに指摘されている事実である。
バーンスタインが「古くさくなっているのでは・・・」と怖れたのは、まさに自分が「時代の最先端」を走ったという自覚があったからだったに違いない。
が、彼は、リハーサルや録音のための演奏を繰り返すうちに「そんな心配は完全に消え去った」という。「アーサー・ロレンツの書いた歌詞は、完璧な作品の詩になっていたから色あせることなく、音楽も同様に古くさくなっていなかった」と感じたという。そしてバーンスタインは、この自作を、「ちょっとばかりおかしな言い方になるが」(funny little crazy way)と少し照れながら断ったうえで、こう結論づけたのだった。「これは、クラシックだ」
「クラシック」とは、誰もが知っている言葉だが、少々わかりにくい言葉といえる。
とりわけ日本では「古典」という言葉に翻訳されているため、誤解も生じている。
バッハやモーツァルト、ベートーヴェンやチャイコフスキーなどの音楽が「クラシック」と呼ばれることには、誰も異論がないだろう。が、では、ビートルズの音楽はどうか? ディスクショップでは「ロック・ミュージック」のコーナーに並べられており、「クラシック」のコーナーに並ぶことは、まずありえない。しかし英語を母国語とする音楽ファンに向かって「ビートルズはクラシックだよね」というと、ほとんどの人が首を縦にふるに違いない(ローリング・ストーンズをクラシックだというと、ほとんどの人が首を横に振るだろうし、エリック・クラプトンについて同じことをいうと、大議論になるおそれがあるだろう)。
アメリカ大リーグでは、10月に行われるワールドシリーズのことを“Autumn Classic”(秋のクラシック)と呼んでいるし、競馬の世界では、日本でもアメリカやイギリスでも、ダービーなどの大きなレースのことを「クラシック・レース」と呼んでいる。
つまり「クラシック」とは、何も「古い古典的なもの」を指すのではなく、「時代を超えて伝統的に継続しているもの」のことを示す言葉なのだ。
したがって、音楽のジャンルでいうなら、「懐かしのメロディ」と呼ばれて演奏されるものは「クラシック」とは呼べないし、ディスク・ショップのクラシック・コーナーに置かれている現代音楽作曲家による現代音楽も、将来「クラシック」と呼ばれるようになるかどうかはわからない。「継続する」ということは、時代を超えて繰り返し演奏されるもの、多くの人々が聴き続けるもの、という意味なのだ。
どんな音楽でも、それが創られたときは「現代音楽」にほかならず、モーツァルトのオペラ『フィガロの結婚』のなかの有名なアリア『もう飛ぶまいぞこの蝶々』も、『ドン・ジョヴァンニ』のなかの有名な二重唱『奥様お手を』といった歌も、18世紀末に誕生した当初は、ウィーンやプラハに住む多くの人々が(貴族も庶民も)流行歌として口ずさんだ。
また(これは佐渡裕さんに教わったことだが)ベートーヴェンの『第九交響曲』の第四楽章のメロディが、♪ミミファソソファミレ、ドドレミミ〜レレ・・・と、簡単な音階になっているのは、フランス革命に共鳴したベートーヴェンが、それまで貴族の暴政に苦しめられていた庶民の誰もが簡単に口ずさむことができ、「世界中の人々よ、手をつなごう!」というメッセージを発することができるように創ったためだという。
つまり「クラシック音楽」とは、断じて「堅苦しい音楽」や「難解な音楽」のことを意味するものではなく、それが生まれた時代時代の空気を存分にふくみ、なおかつ時代を超えて愛され続ける音楽のことをいうのである。
その意味において、レナード・バーンスタインの残した音楽は、『ウエスト・サイド・ストーリー』だけでなく、すべてが素晴らしいクラシック音楽といえるものばかりである(本人が自分の作品を「クラシック」と呼んだときに、“funny little crazy way”という言葉を前置きに使ったのは、自画自賛になってしまうことを少々照れたことに加えて、「通常クラシックといわれているバッハやモーツァルトの音楽とは、かなり異なっていますが」ということを断っておきたかったに違いない)。
1944年という第2次世界大戦中につくられたミュージカル『オン・ザ・タウン』は、ベティ・コムデンとアドルフ・グリーンの二人が、戦争中の3人の兵士のニューヨークでのたった一日の休暇、という当時の時代そのままを舞台にして台本を書いた(のちに彼女と彼は、ジーン・ケリーの主演で大ヒットしたミュージカル映画『雨に唄えば』の脚本も担当した)。
バーンスタインは、その台本に、40年代に大流行したスイング・ジャズと時代の最先端であるモダン・ジャズの要素を採り入れた音楽をつけた。そしてこのミュージカルは、ブロードウェイで463回ものロングラン公演となるほど人気を博し、ジーン・ケリーとフランク・シナトラの主演によって映画化もされた(邦題は『踊る大紐育』。もっとも、この映画化に際しては、バーンスタインの音楽は半分くらいしか使われず、代わって、さらに「人気を博す」ような「流行歌」が他の作曲家によって挿入され、バーンスタインはそのことを不愉快に思うと同時に、大いに嘆き悲しんだという。この映画のプロデューサーは、おそらく、「時代に迎合する」あまり、「時代を超越する」部分があることに気づかなかったのだろう)。
1956年に初演されたミュージカル『キャンディード』は、バーンスタイン自身のアイデアによって、フランス革命の時代の大作家ヴォルテールの作品をミュージカルにしたものだが、その時代背景としては、アメリカ国内にマッカーシズムの嵐が吹き荒れるという出来事があった(マッカーシズムとは、上院議員のマッカーシーが提唱し、ソビエト連邦の台頭から、共産主義や社会主義だけでなく、自由主義者の知識人までが逮捕されたり追放されたりして、アメリカの国家主義を煽動した運動だった)。
バーンスタイン自身も、自由主義的な言動からFBIに目をつけられたらしい。が、そこで彼が発表した作品は、いかにもバーンスタインらしいというべきか、何歳になっても誰からも「レニー」と呼ばれて愛された人物らしく、自ら「コミカル・オペレッタ」と呼ぶ笑いと皮肉と哀愁に満ちた心温まるものとなった。
戦争で故郷を焼き払われ、離ればなれになった一組の恋人は、あるときは殺人事件に巻き込まれて火炙りの刑寸前になったり、またあるときは一攫千金を求めて南米に渡って大金持ちになったり・・・と奇想天外の大冒険を繰り返す。が、最後に再び巡り会い、故郷に戻った恋人同士は、「二人で家を建て、畑を耕し、穏やかな生活を始めよう・・・」と歌う。
人間の権力欲や金銭欲や闘争本能の愚かさを、笑いとともに吹き飛ばし、最後に到達するきわめて単純な真理が、これほど心に深く染み入るのは、バーンスタインの創った素晴らしい音楽の力というほかない。
バーンスタインは、それらのミュージカルのほかに、三曲の交響曲やミサ曲、ダンス音楽や歌曲も残している。それらの音楽のなかには、ちょっと聴いただけでは、いかにも現代音楽(ハ長調やニ短調といった調性やメロディがよくわらず、単純な繰り返しや不協和音が響く、といった類の音楽)と思える曲もある。が、よく聴くと(というよりも、素直に音の響きと流れに身をまかせると)、バーンスタインの音楽は、じつに様々なことを語りかけてくれていることに気づく。
1949年に発表された『交響曲第二番 不安の時代』は、イギリス生まれ(のちにアメリカに帰化)の詩人W・H・オーデンの同名の詩に触発されて創られた。第2次世界大戦が幕を閉じても戦争は終わらず、地球を破壊してしまうことも可能なほどの核兵器の開発競争を伴った冷戦という時代のなか、それでも経済的に豊かになった社会は享楽を求め続ける・・・。バーンスタインの音楽は、そのような「不安な時代」を絶望と皮肉で描写しながらも、けっしてそれだけで終わらない。
これは、『オン・ザ・タウン』にも、『キャンディード』にも通じることだが、バーンスタインの音楽は、すべて希望と喜びにあふれた結末になっている。兄のベルナルドと恋人のトニーを失ったマリアひとりが取り残されるという『ウエスト・サイド・ストーリー』の結末でさえ、最後に流れる美しいメロディは、単なる悲しみだけを表すものとは思えない。それはマリアに対する鎮魂歌であると同時に、一人の男性を懸命に愛した女性の美しい心に対する賛歌でもあり、彼女の愛の犠牲によって闘いを繰り返していた男たちが和解に向かうという希望をも表しているように思える。
それと同様、交響曲『不安な時代』の結末も、不安な音の洪水の果てに、素晴らしい未来の光が輝く。
人間は、たしかに、いつの時代も愚かなことを繰り返し続ける。おかげで、文明はいくら発達しても、わたしたちの心に平安は訪れない。が、それでもバーンスタインという天才は、人間を信じ続けている。いつかは発揮することのできる、あるいは、時々は垣間見ることのできる、人間の素晴らしい叡智と、その結果としての輝かしい未来を、バーンスタインは信じている。おそらく、それを「愛」というのだろうが、そのことが、彼の音楽を聴くと痛いほど伝わってくるのだ。
佐渡裕さんから聞いたことだが、「レニーほど人間の好きな人はいない」という。仕事のうえでも、個人的な交流のうえでも、バーンスタインは、人と会うことを無碍に拒否したりすることはなく、会えばいろんなことを時間の許すかぎり話し込んだという。
残念ながら出逢ったことはないが、小学生のときからの40年来のバーンスタイン・ファンとして、彼がエネルギッシュな人物であったことは想像に難くない。それは、彼の作曲した作品、指揮した音楽、奏でたピアノを聴いてもわかることだが、人を愛し、人間の未来を信じるには、さらに大きなエネルギーが必要だったに違いない。
悲観主義は雰囲気の問題だが、楽観主義は意志の問題である、という言葉がある。
雰囲気に呑まれてダメだダメだと嘆くのは楽だが、未来に輝きを見つける意志を持つにはパワーがいる。さらに、その意志を作品にまで昇華するエネルギーのことを思うと(しかも、世界中を飛びまわる超過密なスケジュールのなかで!)、レナード・バーンスタインという人物の計り知れないほど大きなエネルギーには、呆然とするばかりである。
もっとも、それくらいのパワーを持つ人物でないと、これほど多くの時代を超越するクラシックを残すことはできないに違いない。
さあ、今宵は、もう一人のパワフルな音楽家、レナード・バーンスタインの最後の愛弟子である佐渡裕さんの指揮するレニーの音楽から、わたしたちも大きなパワーをもらうことにしましょう。人を愛し、未来を信じるパワーを。 |