掲載日2003-10-20 |
オペラ「アイーダ」の本当の魅力
(宝塚・星組公演『王家に捧ぐる歌 オペラ「アイーダ」より』パンフレット)
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イタリアの大作曲家ジュゼッペ・ヴェルディ(1813〜1905)の残した大名作『アイーダ』は「祝祭のオペラ」である――などと書くと、そんなに高級なものなのか、と少々たじろぐ人がいるかもしれない。が、それは、筆者の本意ではない。
そもそもオペラ(歌芝居)とは、庶民の文化である。ギリシア悲劇もゲーテやシェークスピアの戯曲も、台詞だけで上演されるよりも音楽がくわえられたほうが楽しく、わかりやすい。主人公が、感極まって「ああ、いまは悲しみに打ちひしがれるとき」という言葉を口にするだけでなく、バックでオーケストラが♪ジャジャ〜ンと音楽を掻き鳴らすほうが、われわれ観客も「悲しい!」という気持ちになりやすい。
オペラとは、本来そういうもので、モーツァルトのオペラに登場するアリア(歌)も、ヴェルディのオペラで歌われるカンツォーネ(歌)も、かつては「流行歌」であり、馬車の手綱をとる馭者や、ゴンドラの櫂を握る船頭などが、鼻歌交じりに歌ったものだった。
だから、「祝祭のオペラ」などといっても、その音楽はけっして堅苦しいものではなく、いわば京都祇園祭のコンチキチンの祇園囃子のようなものであり、神田祭で火消しの男衆が歌った木遣り節のようなものと考えたほうが当たっている。だから、いまも、『アイーダ』のなかの「凱旋行進曲」は、サッカーのワールドカップという祝祭のスタジアムで、サポーターたちによって大声を張りあげて歌われているのである。
じっさい、このオペラは、1871年にスエズ運河の開通を祝ってエジプトのカイロに建設された新しいオペラ・ハウスのこけら落としのため、エジプト政府の依頼を受けて、ヴェルディがつくったものだった。そのため、豪華な「祝祭」の場面がつくられている。
それが、総大将である若きラダメスの率いるエジプト軍がエチオピア軍を破って凱旋してきたときの場面で、「アイーダ・トランペット」と呼ばれる管の長い(1メートル以上にもおよぶ)トランペットによる行進曲が響く場面では、野外劇場などでの演出によっては本物の象やキリンやラクダやシマウマなどが「戦利品」として次々と登場することもある。
舞台のバックには、ピラミッドやスフィンクス。まさに豪華絢爛、イタリア・グランド・オペラの粋といえる「祝祭のオペラ」は、世界各地のオペラ座のこけら落としにもよくとりあげられ、1998年に東京新宿に建設された新国立劇場が、日本で初のオペラ専門劇場としてオープンしたときも、オープニング記念のシリーズのなかで、この作品がとりあげられた。
とはいえ、『アイーダ』は、ただ豪華な「祝祭のオペラ」というだけでなく、男女の愛をめぐる心の葛藤を細かく描いた心理ドラマとしての側面も有している。エジプト軍の総大将ラダメスは、王女のアムネリスから愛されている。が、彼女以上にラダメスを恋しく思っているのがアイーダで、彼女はエチオピアの王女なのだが、エジプト軍の捕虜となり、その身分を隠して奴隷女としてエジプト王室に仕えている。そしてラダメスは、王女アムネリスよりも、奴隷女のアイーダに心を惹かれているのである。
そんなラダメスが、エチオピアとの戦いに勝ち、多くの戦利品や捕虜を引き連れ凱旋してきたなかに、エチオピア王でありアイーダの父親であるアモナスロの姿もあった。アモナスロは、戦況不利と見て一兵士に身を落とし、エジプト軍の動向を探るために、わざと捕虜になったのだった。
その姿を見て驚くアイーダに向かって、アモナスロは父親であることは知られてもいいが、王と王女という身分は隠したままでいるよう諫める。そして、アイーダの父として人質になるかわりにほかの捕虜の解放をエジプト王に要求する。父と娘を一緒にしてやりたいと思ったラダメスの進言もあって、エジプト王はその要求を受け入れる。と同時に、今回の闘いでの功績をたたえ、ラダメスに王女アムネリスを与え、未来のエジプト王たる後継者にすることを宣言する。
相思相愛のラダメスとアイーダは、このエジプト王の決定にショックを受けるが、その後も、エジプト王やアムネリスの目を盗んで逢瀬を重ねる。そして「一緒にエチオピアへ逃げましょう」というアイーダの誘いの言葉を受けて、ラダメスはエジプト軍がいない道筋を教えてしまう。その言葉を影で聞いていたのが、アモナスロ。じつは、その言葉は、エジプト軍の配置を聞き出すようにと迫った父アモナスロの命令に、アイーダが仕方なく応じた計略だったのだ。
ラダメスは、思わず口にした自分の言葉に後悔する。が、アモナスロとアイーダの説得に応じ、一緒にエチオピアへ逃げることを決意する。
しかし、神殿に身を潜めていたアムネリスが、それらの逢瀬や会話の一部始終を見聞きしていた。アムネリスの知らせで衛兵が現れ、ラダメスは、アイーダとアモナスロを逃がすために衛兵と闘い、みずからは囚われの身となる。
国家に対する反逆者として地下の牢獄につながれたラダメスに向かい、アムネリスは、「アイーダのことを忘れて私と一緒になるならば命を救ってあげよう」と申し出る。が、すでに死を覚悟しているラダメスは、その申し出を拒否する。アイーダへの愛の強さにショックを受けたアムネリスが去ったあと、ラダメスの目の前にアイーダが現れる。彼女は、逃亡せずに、ラダメスとともに死ぬ決意で、みずから地下牢に入り、ラダメスを待っていたのだった。
死を覚悟した二人は、死後の世界での愛を約束しながら地下牢のなかで抱き合う。その外では、アムネリスが、自分の行ったことは正しかったのか・・・と悩み続ける――。
というのがオペラ『アイーダ』の粗筋だが、王女の身分にありながら敵の将軍ラダメスへの一途の愛を貫くアイーダのみならず、強大な権力を有しながら「愛」に見捨てられるアムネリス、出世街道を頂点まで登り詰めながら「愛」を成就させることのできないラダメスという、三者三様の悲劇が描きだされているのだ。この三人の背後に大きく横たわり、彼らの「愛」を妨げているもの――それは「政治」であり「国家」であり「組織」といえる。
ジュゼッペ・ヴェルディの残したオペラ(『マクベス』や『リゴレット』や『オテロ』など)は、すべて(唯一『椿姫』を除いて)「政治ドラマ」ととらえることができる。
個人の「自由」や「愛」を妨げる「運命」としての「政治の論理」(組織の論理)が、まるで「強大な怪物」のように描き出されているのだ。そのなかで、ヴェルディが最も大切に考えたもの。それが、個々人の「自由」であり「愛」である――ということが、ヴェルディの美しい音楽に耳を傾けると、心にしみこんでくるのである。ならば、この文章の最初に書いた《『アイーダ』は「祝祭のオペラ」である》という言い方は、改めなければならないかもしれない。
たしかに、豪華で勇壮な「凱旋行進曲」は、「祝祭のオペラ」というにふさわしい「外見」を備えている。が、そのような「外見」は、ヴェルディが本当に描きたかった「中味」、すなわち「自由」と「愛」の尊さや、それらが虐げられている現実社会を、よりわかりやすく表現するための、少しばかり派手な「装置」にすぎない、といえるのかもしれない。いや、おそらく、そうにちがいない。
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宝塚が『アイーダ』に取り組む、と聞いたとき、まず最初に思ったのは、あれほどの豪華絢爛なオペラを、宝塚はどんなふうに「料理」するのだろう? という疑問であり、心配だった。が、すぐに、そんな疑問や心配は氷解した。グランド・オペラ『アイーダ』の豪華な外見に惑わされてはいけない。『アイーダ』は(というより、ヴェルディのすべてのオペラは)本質的に「愛の物語」なのだ。
ならば、「愛」を描くことにかけては伝統のある宝塚に、うってつけの演目というべきだろう。
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