最近、あるテレビ局のディレクターから、次のような質問を受けた。
「オペラとミュージカルって、どこが、どう違うの?」
ことあるごとに、わたしが「オペラは面白い」と口にし、「テレビでも、もっとオペラをとりあげるべき」などといっているので、そんな会話のなかで、スタッフの一人が、ふと素朴な疑問を口にしたのである。
わたしは、待ってましたとばかりに、次のように答えた。
「歴史的、学問的には、いろいろ違いを指摘できるし、歌手や演奏家にとっては大きな違いがあるだろうけど、観客である我々にとっては何も違いはないですよ。どっちも面白い。それだけのことです」
カンの鋭いディレクターは、それだけの言葉で、わたしのいいたいことを察知し、うなずいてくれた。オペラは高級で難解、ミュージカルは大衆的で平易……というような区別はつけない方がいい−−というわたしの主旨を、理解してくれたのだ。
それは、けっしてコジツケではない。わたしの正直な感想である。
『ショウボート』や『サウンド・オブ・ミュージック』と『カルメン』や『椿姫』の間に(わたしは)明確な線を引くことができない。それどころか、『ウエスト・サイド・ストーリー』と『メリー・ウィドウ』(陽気な未亡人)を較べるなら、前者(の音楽)のほうが、よほど「オペラ(クラシック)的」に思える。
が、世間では一般的に、前者がミュージカル、後者がオペラ(または、オペレッタ)と呼ばれている。
分けること(分類)は、分かること(理解)につながるのだろうが、それは、あくまでも学問的理解であり、我々シロウトには、花鳥風月を分類する必要性など存在しない。サクラもモモもウメも、どれもバラ科の落葉樹で、サクラはサクラ属、モモとウメはサクラ亜属−−などという知識も、まあ、無駄ではないだろうが、それよりも、染井吉野、江戸彼岸、白妙、御車返、有明、八重紅虎尾、駿河台匂、八重紅枝垂といったサクラ、紅冬至、白加賀、紅筆、内裏、月影、紅千鳥、谷の雪といったウメを、じっくりながめて美しさの違いを味わうほうが楽しい。
あるいは、ドジャースの野茂と、ベイスターズの佐々木のフォークボールの握り方の違い−−野茂は、ワインドアップの投球動作の最中に、普通の握りから人差し指をずらせてフォークボールの握りに変えるため、人差し指と中指の開きが浅い。佐々木は、セットポジションのときに、人差し指と中指の間にボールを差し込むため、二本の指が大きく開く、ということを知るのも、面白いことではある。が、そんなことより、どっちの投手のフォークのほうが打者を鮮やかに三振に切ってとるか、ということを見て楽しむほうが、面白い。
オペラもミュージカルも、花鳥風月やスポーツと同じ。それは(我々シロウトにとっては)楽しむものであり、味わうものであり、あまり難しく考えないほうがいいのだ。
とはいえ、いま、サクラとモモとウメが同じバラ科に属する、という事実を知って、ソウダッタノカ…と思ったひともいるだろう。また、野茂と佐々木のフォークボールの投げ方の違いを知って、ナルホド…と思ったひともいるはずだ。知識を重視しすぎるのも馬鹿馬鹿しいが、知識を完全に無視するのもつまらない。
そこで今回は、オペラとミュージカルを分類する必要はない、ということを確認したうえで、なぜ、そんな分類が生じたのか、という歴史を、少しばかり勉強することにしよう。
オペラというのは、他の芸術とは違って、少々不思議な特徴がある。
絵画が、いつ生まれたのか? 演劇や音楽がいつ誕生したのか? という問いに対しては、「人類の誕生以来」と答えるほかない。が、オペラは、誕生の「年」と「場所」が、まるで人間の誕生日のように、はっきりとわかっているのだ(以下、音楽之友社・刊『新訂音楽標準辞典』『オペラ辞典』を参考にしました)。
それは、ルネッサンス末期の1597年、イタリア・フィレンツェのバルディ伯爵の宮廷での出来事だった。当時の貴族(風流人や知識人)が、古代ギリシア劇の上演を企図し、詩人のリヌッチーニ、作曲家のヤーコボ・ペーリとカッチーニなどが協同して『ダフネ』という音楽劇を作りあげた。このときの楽譜や台本は残念ながら残されていないが、3年後の1600年にほぼ同じメンバーが製作した『エウリディーチェ』が、現存最古のオペラの楽譜として残っている。
それらの作品は大好評を博し、「音楽劇」はイタリア全土へ広がり、とくにヴェネチアではモンテヴェルディが、『オルフェオ』『ウリッセの帰還』『ポッペアの戴冠』など、現在も「バロック・オペラ」と呼ばれて上演されている傑作を作り、17世紀末には、イタリア各地に多くのオペラ劇場が次々と造られるほど、オペラ人気は広がった。
18世紀になると、ナポリにスカルラッティやペルゴレージ、フランスにリュリやラモー、イギリスにパーセル、そして現在のドイツ(ハレ)に生まれてイギリスに移り住んだヘンデルなどの作曲家が現れ、オペラは、ヨーロッパ全土に広がった。
それらの「音楽劇」は、最初のうち、“drama in musica”“drama per musica”などという言葉で、文字通り「音楽劇」と呼ばれた。が、のちに“opera
in musica”と呼ばれるようになり、それが略されて“opera”となった。“opera”とは、ラテン語で「作品」という意味を表す“opus”の複数形で、つまり「オペラ」とは、音楽、演劇、衣裳、舞台装置、さらに舞踏もふくむ「作品群」すなわち「総合作品」(総合芸術)という意味なのである。
18世紀中頃までのオペラは、劇の内容(ドラマ)とは無関係に歌手の技量や声の美しさを強調した作品が多く、とりわけ「カストラート」と呼ばれる去勢された男性歌手がスーパースターとして人気を集めた(タマを抜かれ、ボーイ・ソプラノのまま大人になった男性歌手のスーパースター、ファルネッリ=1705〜1782の栄光と悲惨な生涯は、ジェラール・コルビオ監督の映画『カストラート』に、描かれている)。
そのような歌手中心のオペラを改革し、音楽とドラマを一体化させようとしたのが『オルフェオとエウリディーチェ』などを作曲したオーストリアの作曲家グルック(1714〜87)で、次いでモーツァルトが現れ、ロッシーニ、ドニゼッティ、ベッリーニ、ヴェルディ…によるイタリア・オペラ、ベートーヴェン、ウェーバー、ワーグナー…によるドイツ・オペラ、マイヤベーア、オベール、グノー…によるフランス・オペラ、さらに、グリンカ、チャイコフスキー、ムソルグスキー、リムスキー・コルサコフ…によるロシア・オペラなどへと引き継がれていく−−。
が、ここで、「オペラ」という「総合芸術」が誕生した折の特筆すべき点−−それは、ルネッサンスの精神によって人工的に生み出された、ということを、指摘しておきたい。
ルネッサンス(フランス語で「再生」「復活」の意)の精神とは「人間性」を「回復」することであり、キリスト教の全能の神の命じる「戒律」と、それを錦の御旗として人々を抑圧してきた教会権力からの「人間の解放」を意味していた。
何度かの十字軍遠征によってアラビア諸地域から古代ギリシア文化の遺産を持ち帰ったイタリア人は、キリスト教やユダヤ教やイスラム教の全能の神に縛られないソクラテス、アリストテレスらの自由な発想に驚き、笑い、怒り、哀しみ、楽しみ、愛し合い、憎み合い、嫉妬し合うギリシアの神々や英雄たちの人間臭いドラマに心を動かされた。
そして、ミケランジェロがキリスト教の聖書の物語を題材に全能の神を讃えるふりをしながら(古代ギリシアの英雄のような)人間の美しさや力強さを描いたのと同様、フィレンツェの知識人たちも、神を讃える手段とされていた音楽(今日「グレゴリオ聖歌」と呼ばれている類の音楽)を、ギリシア神話に取り入れ、俗世間の人間たちの物語を作りあげたのである。
つまりオペラとは、誕生したときから(たとえ神の世界を舞台にした作品でも、本質的には)世俗的で現世的な芸術だったのである。そのため、キリスト教(カトリック)の本山であるローマでは、オペラの上演が弾圧されたこともあった。
そんなオペラが、時代の流れとともに、さらに世俗的、通俗的、大衆的なものに変化したのは、いわば自然の成り行きといえる。
オペラが貴族の娯楽として定着した17世紀後半には、早くも「オペラ・セリア」(真面目なオペラ/正歌劇)に対して、より庶民的な「オペラ・ブッファ」(ふざけたオペラ/喜歌劇)と呼ばれるジャンルが生まれ、18世紀にはモーツァルトの『フィガロの結婚』『ドン・ジョヴァンニ』『コジ・ファン・トゥッテ』など、「ブッファ」のジャンルから「セリア」以上の傑作が生み出されるようになった。
そんな時代の流れのなかから、オペレッタやミュージカルも生まれるのだが、ここで面白いのは、先に簡単に紹介したオペラの歴史のなかで、「イギリス・オペラ」と呼べるものが、生まれなかったことである。それどころか、「イギリス音楽」と呼べるような伝統も(なかなか)生まれなかった。
それには、二つの理由が考えられる。一つは、17世紀のイギリスの大作曲家パーセルが、36歳の若さで亡くなり、後継者の育たないまま、ドイツから移り住んだヘンデルがイギリス音楽界に君臨したこと。そして、もう一つは、シェークスピアという偉大な詩人が、多くの素晴らしい演劇作品を残し、演劇がイギリス文化の主流になってしまったことである。
シェークスピアが残した傑作はイタリア語やドイツ語やフランス語に翻訳されたり、原作原案として利用されたりして、サリエリの『ファルスタッフ』、ロッシーニの『オテッロ』、ベルリオーズの『ベアトリスとベネディクト』(空騒ぎ)、グノーの『ロミオとジュリエット』、ニコライの『ウィンザーの陽気な女房たち』、ベッリーニの『カプレーティ家とモンテッキ家』(ロミオとジュリエット)、トマの『ハムレット』、ワーグナーの『恋愛禁制』(尺には尺を)、ヴェルディの『マクベス』『オテロ』『ファルスタッフ』など、多くの素晴らしいオペラが生み出された。
また、メンデルスゾーンの『真夏の夜の夢』やリストの『ハムレット』、チャイコフスキーの『ロミオとジュリエット』など、舞台用の付帯音楽(劇音楽)やバレエ音楽なども作曲された。
シェークスピア(1564頃〜1616)の生前の初演の舞台でも、音楽は重要な役割を果たしたはずで(残念ながら、その資料は残されていない)、彼の死後約半世紀を経て活躍したイギリスの大作曲家パーセルも、『妖精の女王』(真夏の夜の夢)『テンペスト』などの劇音楽を残した(それらはパーセルの作品ではないとの異論もあるが、イギリスの作曲家の作品には違いない)。
しかし、朗読するだけで十分に音楽的ともいえるほど美しい韻文で書かれた詩に、さらに音楽をつけるというのは、相当に困難な作業だったためか、あるいは、屋上屋を重ねるように音楽を付けなくても、演劇のままの上演で十分という意識が強かったためか、シェークスピアの演劇が繰り返し上演されたイギリスでは、オペラは(そして音楽も)発達しなかった(人気を得なかった)のだ。
そんななかで、18世紀になると、当時の流行歌(俗謡)や民謡、さらにパーセルやヘンデルなどの作曲したメロディを盗用して台詞を歌い、庶民的な出来事を題材に政治や社会を風刺する「バラッド・オペラ」と呼ばれる音楽劇がイギリスのロンドンで流行するようになった。
その代表作が1728年に作られた『乞食オペラ』(ジョン・ゲイ台本/ペープシュ作・編曲)で、20世紀になって劇作家のベルトルト・ブレヒトと作曲家のクルト・ワイルが、この「乞食オペラ」の手法(オペラのパロディ)を真似て、『三文オペラ』を作っている。
この「バラッド・オペラ」はフランスの「ヴォードヴィル」(もとは“voix de ville”「ヴォア・ドゥ・ヴィル」=「街の声」という言葉が短くなったもの)と共通性を持ち、ドイツの「ジンク・シュピール」(歌芝居)と呼ばれる庶民的な「音楽劇」に影響を与え、モーツァルトの『後宮からの誘拐』『劇場支配人』『魔笛』、ウェーバーの『魔弾の射手』やベートーヴェンの『フィデリオ』など、「ジンクシュピール形式のオペラ」(地の台詞が入っているオペラ)へと発展した。
そしてフランスの「ヴォードヴィル」も、「オペラ・コミック」と呼ばれるジャンルに発展。最初のうちはオペラを風刺するパロディで、喜劇的内容だったが、そのうち喜劇的要素が消え、「オペラ・コミック」は「コミック・オペラ」=「喜歌劇」と別のジャンルの「台詞付き音楽劇」を表す言葉になり、ビゼーの『カルメン』やマスネの『マノン』などの名作を生んだ。
さらに19世紀になると、イギリスの「バラッド・オペラ」、イタリアの「オペラ・ブッファ」、フランスの「ヴォードヴィル」や「オペラ・コミック」、ドイツの「ジンクシュピール」などがごちゃ混ぜになり、カンカン、ギャロップ、チャルダーシュといった当時大流行した踊りまで加わり、「オペレッタ」(喜歌劇/軽歌劇)と呼ばれる大衆歌劇が誕生する(「オペレッタ」とは「小っちゃなオペラ」という意味で、末尾に“-etta”の付いたイタリア語は「〜ちゃん」という愛称になり、イタリアには「ポルケッタ」=「子豚ちゃん」と呼ばれる美味しい子豚の丸焼き料理もある)。
「オペレッタ」(フランス語では「オペレット」)という言葉を最初に用いたのは、エルヴァー(1825〜92)というフランスの作曲家で、同時代に活躍し、カンカン踊りの音楽として有名な『天国と地獄』(原題は『地獄のオルフェ』)を作曲したオッフェンバック(1819〜80)とともに、フランス風オペレットを確立した(オッフェンバックは、オペラ・ブッファでもオペレットでもないフランス・オペラの傑作『ホフマン物語』も残している)。
一方ウィーンでは、オッフェンバックの影響を受けたスッペ(1819〜95)が『スペードの女王』『軽騎兵』といった作品でウィーン風オペレッタを確立。なかでも『ボッカチオ』(『デカメロン』の作者であるイタリアの作家が主人公のオペレッタ)は有名で、アリア「恋はやさし」や「ベアトリ姉ちゃんの歌」(トチチリチンの歌)は、日本に伝わり「浅草オペラ」のナンバーとして大正時代に大人気を博し、戦後もエノケン(榎本健一)などによって歌い継がれた(それにしても、主人公の女性ベアトリーチェを「ベアトリ姉ちゃん」と翻訳した浅草オペラの感覚は、じつに見事というほかない)。
さらにスッペに続いて登場したウィンナ・ワルツの王様ヨハン・シュトラウス2世(1829〜99)が、『こうもり』『ジプシー男爵』などの傑作オペレッタを作曲。ウィンナ・オペレッタの黄金時代を築き、20世紀に入っても、レハール(1870〜1948)が『メリー・ウィドウ』(陽気な未亡人)や『微笑みの国』、カールマン(1882〜1953)が『チャルダーシュの女王』といった作品を作り、大ヒットさせた。
また、本格的なオペラが育たなかったイギリスでも、「バラッド・オペラ」の伝統からオペレッタが大流行し、劇作家のギルバートが台本を書き、サリヴァン(1842〜1900)が作曲した『魔法使い』『ミカド』などの風刺に富んだ作品が「ギルバート・サリヴァン・オペラ」と呼ばれて、大人気を博した。
当時のロンドンでは、風刺とパロディ精神にエロチックな要素を加えた「バーレスク」(ブルレスケ)と呼ばれた大衆音楽劇が流行し、1893年、オペレッタにバーレスクの要素を取り入れた『ゲイエティ・ガール』という作品に、はじめて「ミュージカル・コメディ」というタイトルが冠せられ、「ミュージカル」の時代が幕を開けた。
アメリカでもオペレッタは大流行し、南北戦争直後の1866年、ニューヨークのブロードウェイで上演された『ブラック・クルック』(黒衣の盗賊)という作品が「ミュージカル・エクストラヴァガンザ」(音楽狂想劇/音楽滑稽劇の意)と呼ばれ、「ミュージカル」の草分けとなった。 そして1907年に、ブロードウェイの大プロデューサーであるジーグフェルドが上演した「ミュージカル・レヴュー」『ジーグフェルト・フォリーズ』が大ヒット(「レヴュー」とは、フランスで生まれた風刺的な寸劇の名称だったが、アメリカへ渡り、スペクタクル性を持つ華やかな演し物の意味になった)。
20〜30年代になると、ジェローム・カーンが、名曲『オールマン・リヴァー』をふくむ「ミュージカル・プレイ」(ミュージカル・コメディよりも、ドラマの要素が強まった作品)『ショウ・ボート』を発表。名曲『ホワイト・クリスマス』の作曲者であるアーヴィング・バーリンが『アニーよ銃を取れ』、『スターダスト』の作曲者であるコール・ポーターも『キス・ミー・ケイト』を発表して「ミュージカル」の人気は爆発的に定着。
さらにジャズとクラシックの融合に成功したジョージ・ガーシュインが「アメリカン・オペラ」とも呼ぶべき『ポーギーとベス』を発表し、その影響でさらに音楽的密度を高めたブロードウェイ・ミュージカルは、作詞家のオスカー・ハマーシュタイン2世と組んだリチャード・ロジャースの『オクラホマ』『南太平洋』『王様と私』『サウンド・オヴ・ミュージック』、フレデリク・ロウの『マイ・フェア・レディ』、レナード・バーンスタインの『オン・ザ・タウン』『キャンディード』『ウエスト・サイド・ストーリー』と名作が続々と生まれ、黄金時代を迎えた。
さらに60年代には、ロック音楽を取り入れた『ヘアー』や、ロンドン生まれの作曲家ロイド・ウェバーによる『ジーザス・クライスト・スーパースター』が生まれ、ロイド・ウェバーは『エヴィータ』『キャッツ』『オペラ座の怪人』などのヒット作を次々と世に出し、ロンドン・ミュージカルを復興……というわけだが、このあたりで十分だろう。
オペラからオペレッタ、ミュージカルへと続く歴史に「断絶」は存在しない。その間、もちろん名作オペラも数多く生まれ、現在も新たなオペラが作り続けられている。が、オペラ誕生時の精神(俗世間的で人間的な試み)に照らすなら、今日「オペレッタ」や「ミュージカル」と呼ばれる作品のほうが、オペラの本質を体現している、ともいえるのだ。
いまではオペラのなかの最高峰といわれるモーツァルトの『魔笛』も、初演時は小さな芝居小屋で、庶民が大合唱するほどの人気を博すなかで、楽しく上演された。音楽劇に、高級も、通俗もない。ただ、いい作品と悪い作品があるだけだ。新しい、古い、といった区別も、流行もない。『魔笛』も『カルメン』も『ウエスト・サイド・ストーリー』も、いい作品は、いまも上演され続け、愛され続けている。だから、オペラ(あらゆる音楽劇)を好きになると、流行に振り回されることなく、いろんな作品の本質をケッコウ見抜けるようにもなる、という余禄もあるのですよ。 |