『サロメ』の魅力は、神話である、という一言に尽きる。
19世紀末を代表する作家オスカー・ワイルド(1854−1900)は、新約聖書のマタイ伝とマルコ伝に記されている短いエピソードをもとに、詩劇『サロメ』を書きあげた。
そこに登場する人物は、ギリシア神話のアポロンやミューズのような神々ではない。我々と同じ人間である。ユダヤ王ヘロデ(紀元前37年−紀元後4年)も、その妻ヘロディアスも、ヘロディヤスと先夫フィリポ(ヘロデ王の兄)とのあいだに生まれた娘サロメも、イエス・キリストに洗礼を授けたヨハナーンも、すべて歴史上実在した(と思われる)人物である。
そこに記されている出来事も、歴史的事実と考えられている。兄のフィリポを殺害して結ばれたヘロデ王とヘロディアスの罪業を、洗者ヨハナーンが激しく非難し、そのためヘロデ王に捕らえられたことも、宴会の席でサロメが美しい舞いを披露し、褒美を問われたときに母のヘロディアスの指示で(と新約聖書には書かれている)ヨハナーンの首を求めたことも、多くの民衆に支持されているヨハナーンの殺害をヘロデ王がためらったことも、サロメの要求を断り切れずヨハナーンを殺害したことも、すべて歴史上の出来事と考えられている。
彼らは、空を飛んだわけでも水の上を歩いたわけでもなく、それらの出来事を歴史上の事実と認定しても何の不都合も生じない。
が、『サロメ』の魅力は、やはり、それが神話である、という一点に尽きる。そういうほかない、とわたしには思えるのである。
そもそも、神話とは、何か? それを論じる紙幅はない。が、『広辞苑』には次のような短い定義が記されている。
《現実の生活やそれをとりまく世界の事物の起源や存在論的な意味を象徴的に説く説話》
要するに、わたしたちが現在生きている人生で、なんでこんなことが起こるのんやねん、なんでこないになっとるねん、と思うようなことを、おもしろい例をあげて説明した昔話が「神話」というわけである(わかりやすく書こうとした結果、とつぜん関西弁になったことを御容赦ください)。
では、『サロメ』は、わたしたちが現在生きている人生の、どんな疑問を解き明かしてくれているのだろう?
その答えは、じつに簡単。
男女間の心の機微である。
【男と女のあいだには深くて暗い河がある・・・とフォークソングでも歌われたように、】男は女の心が理解できず、女も男の気持ちがわからない――というのは、古今東西を問わない真理である。
オスカー・ワイルドは、新約聖書に記されていたほんの短い歴史的エピソードから想像力をふくらませ、いつの世にも変わらない「男と女の物語」をつくりあげたのである。
権力を手に入れた男が、さらに個人的淫欲を満たそうとする。【そんなヘロデ王の姿は、今日の独裁国家の首領から、公費を使って温泉でドンチャン騒ぎをする地方公務員まで、どこにも見られる光景である。】
そうした権力者の常として、彼らの最も怖れるのが民衆の声である。それゆえ、【今日の政治家や公務員はマスコミを怖れ、】ヘロデ王は、多くの民衆から預言者として敬愛されているヨハナーンを怖れる。みずからの罪業を責められても、ヨハナーンを抹殺することは、みずからの権力を危うくすることにつながる。そこでますます「権力者の孤独」を募らせ、個人的情欲に走り、娘のサロメにまで淫欲の眼差しを向ける。
もっとも、女性の感覚は少々異なる。力のない兄(フィリポ)から力のある弟(ヘロデ王)へと、夫を乗り換えたヘロディアスは、その後ろめたい行為を名指しで非難するヨハナーンが邪魔で仕方ない。おそらく倦怠期に入っていたであろう熟年人妻が、一夜にして富も名声も手に入れたのだから、民衆の声など関係ない。自分で手に入れた権力ではないから、政治権力を維持するシステムも理解できない。名指しで非難するウルサイ男は抹殺しろ。それだけである。
しかも、インテリたち(ユダヤ人やナザレ人やパリサイ人やサドカイ教徒たち)は、やれ救世主が出現しただの、そんなものは存在しないだのと、権力者に影響をおよぼさない中味のない討論ばかりを繰り返すばかり。【それを、現在のテレビの政治討論番組と結びつけるのは、失礼がすぎるでしょうか?】
一方、罪深い両親のもとで育った娘サロメ【がグレてしまうのは当然。】〔はどうなるのだろう。〕しかも絶世の美貌まで備えているとなると、【男に走る】〔男に対しても屈折した愛情表現をとる〕のが世の常。【とはいえ、渋谷のセンター街あたりを徘徊するギャルとは異なり、美貌のうえに】〔その上〕ユダヤの王女という地位まであったサロメは、そんじょそこいらの男(シリア兵隊長のナラボート)などには心をなびかせない。
愛を捧げようとするナラボートの自殺など屁とも感じないまま、民衆のなかのスーパー・ヒーロー(ヨハナーン)を女の魅力で虜にしようと試みる。【それに近い女性は、いまもいますよね。】ところが、そのスーパー・ヒーローは、サロメなど見向きもせず、「おまえは呪われている。おまえを救えるのは、ただひとり(キリストのこと)」と、「救世主の到来」と「神の国へ入る道」を説く。
このあたり、絶対者(神)とエロス(人間)の凄絶な闘いとでもいえばいいのか、あるいは、空虚で観念的な男性原理と、具体的で官能的な身体感覚に満ちた女性原理の葛藤というべきか。「やは肌のあつき血潮に触れも見でさびしからずや道を説く君」という与謝野晶子の三十一文字が想起される。
「道を説く」ヨカナーンに腹を立てたところへ、【エロ親父】〔父親〕から【ストリップ・ショウを】〔扇情的な目で見られ、踊りを〕要求されたサロメは、母の反対も顧みず、狡猾にも「何でも欲しいものを与えてやる」という約束を取り付け、踊りはじめる。そして、約束どおりの褒美として、「銀の皿に載せたヨハナーンの首」を要求する。
もちろん(オスカー・ワイルドの書いた)サロメは、新約聖書に書かれているように、母ヘロディアスの指示に従ってヨハナーンの首を要求するのではない。絶世の美女からの求愛を拒否し、キスをさせなかった(おそらく唯一の)男を、自分のものにしたかったのである。さらに、おそらく(晶子と同様)「道を説くヨハナーン」の「男らしさ」に惚れ込んでしまったのである。
いや、どこまでも多種多様な解釈が可能、というのが、「神話」の魅力でもある。
サロメの行動を、死を賭けても己の欲するものを手に入れようとする女の愚かさ、ととらえるような解釈が書かれた本もある(じつに浅薄でつまらない解釈だが)。スペインの哲学者オルテガは、「わがままいっぱいに育てられた現代的わんぱく小娘による前後の見境ない行為」と解釈した(なるほど、そんなものかもしれない)。救いのない境遇の娘が、ひとりの男によって純愛に目覚め、その男の死とみずからの死によって救済される、というワーグナーの物語とは男女が入れ替わった「救済劇」と解釈することもできる。
いずれにしろ、ヘロデ王が苦渋の決断を下し、ヨハナーンの首をサロメに与えた結果、ヘロディアスは狂喜し、サロメは生首に接吻するなかで愛の陶酔(死)を迎える(その狂態に恐れをなしたヘロデ王の命令で殺される)。そして、やがて、ユダヤの国も滅びる(ということが察知される)。
『サロメ』に登場する男女は、誰も、心と心が結ばれない。そのようなきわめて今日的な孤独感に満ちた「現代の神話」は、胸にひまわりの花を付けて街を闊歩した唯美主義者(自分が美しいと思えば他人の目など気にしない人物)であるオスカー・ワイルドにしか書けなかったに違いない。
その作品が、ビアズリーの挿絵を得て、さらにリヒャルト・シュトラウスの美しい音楽を得て世界中に広がったことは象徴的である。男と女の心の機微などというものは、結局のところ、言葉で理解できるものでなく、感覚(視覚や聴覚)でしか感じ取れないものですからね。 |