日本で初のオペラとバレエの専用劇場である新国立劇場がオープンした(残念ながら筆者はまだ足を運んでいないので、感想は書けない。註・そーゆー時に書いた原稿です)。
最近、タレントのルー大柴が司会をするNHKの『趣味の手帳』という番組で、趣味としてオペラが取りあげられた(作家の島田雅彦が歌手の佐藤しのぶと『椿姫』をデュエットしたが、恋人同士というより母子相姦の二重唱のようで面白かった)。
フジテレビも、偉大なオペラ歌手マリア・カラスの特番を放送した。東京では毎日どこかで(といっても過言ではないほど)オペラが上演されている(最近ではケント・ナガノ指揮リヨン歌劇場によるコンサート形式の『カルメン』が秀逸だった。主役を歌ったアンネ・ゾフィー・フォン・オッターが色っぽく、フランス的エスプリに満ちた演奏だった)。
今秋から来年にかけては、モスクワ・シアター・オペラ、ベルリン国立歌劇場、スロヴァキア国立歌劇場、ベルリン・ドイツ・オペラ、そしてボローニャ歌劇場……といったオペラ座の来日公演が、目白押しである。地方でも、アマチュアの北海道交響楽団が札幌でプッチーニの『トスカ』を上演したり、関西では、モーツァルトの『魔笛』を、古代の日本を舞台にした新演出で上演したり……。
−−というわけで、いつの頃からいわれはじめたことかは知らないが、「オペラ・ブーム」はとどまることを知らず、ますます盛んになりそうな気配である(『三大テナー』の最初のコンサートが1990年。「軽チャー路線」のフジテレビがイタリア・オペラの招聘を開始したのも1990年頃。そのころから「オペラ・ブーム」という言葉が人口に膾炙しはじめたように記憶している)。
そんな「ブーム」を、あるオペラ好きのニュース・キャスターが、テレビで次のように評した。「オペラはマイクを使わず、人間の肉声を聴かせる。機械に囲まれた生活を余儀なくされている現代人が、そんなホンモノ指向に目覚めた……」
この意見は、いいたいことはわかる。が、残念ながら、少しばかり的を外している。
好むと好まざるにかかわらず、文明の発達は自然破壊を伴い、たしかに現代人は<機械(人工物)に囲まれた生活を余儀なくされている>。そんななかで人間の身体は、最後に残された唯一の自然であり、その自然の身体器官を、そのまま用いた表現がオペラ(の歌)である、といえる。が、それが<ホンモノ>かどうかは、判然としない。
石器の製作、農耕の開始から、産業革命を経て、光ファイバーによる高度情報都市の建設にいたるまで、人間の営為(人工)とは、すべて自然に手を加え、自然を破壊する行為だった。映画『2001年宇宙の旅』で、サルの手から空高く投げあげられた骨の棍棒が宇宙船に変化したように、ストラディヴァリの作ったヴァイオリンはシンセサイザーにまで発達した。ならば、人間(人工)という基準では、肉声による音楽よりも、マイクやアンプを用いる音楽のほうが、人間的に<ホンモノ>といえなくもない。オペラ歌手の歌声とは、むしろ非人間的であり、原始的で、動物的で、あるいは、時代錯誤的ともいえるのである。
もちろん、だからといって、オペラ歌手の肉声が<ニセモノ>というわけではない。
そもそも<ホンモノ/ニセモノ>という言い方が間違っているのだ。世界中の美術館に存在するといわれるピカソやマチスやモジリアニの贋作が、誰にも見抜くことができないように、また、ルイ・ヴィトンやプラダやシャネルのバッグに、ときにホンモノ以上に優れたニセモノが存在するように、<ホンモノ指向>という言葉ほど曖昧なモノはない。
何がホンモノで、何がニセモノか。そんなことは、誰にもわからない。ニセモノよりもホンモノのほうが優れている、とも断定できない。したがって、オペラがホンモノで、マイクとアンプを用いたポピュラー音楽がニセモノとはいえない。オペラのほうがポピュラー音楽よりもスグレモノ、という言い方もできない。
いえるのは、それが<自然>か、<人工>か、ということだけである。そして、オペラ歌手の肉声は、<自然>の営み、といえるのである。
♪アアアアア〜と大声や高い声を張りあげることは、けっして不自然ではなく、自然なのである。肉声を自然のまま磨けば、♪アアアアア〜となるのであり、マイクやアンプを用いた声のほうが不自然(人工)といえるのである。
もっとも、<自然>だから素晴らしい、と安直に断定することもできない。ナイル河という<自然>は、肥沃な土地を生み、人間に文明を創るきっかけを与えた。が、氾濫すれば、人間を大量に殺しもした。そこで人間は、古代文明の神殿を移動させてまで巨大なアスワン・ハイ・ダムを建設し、ナイルの水を制御することに成功した。
しかし最初のうちは、その近代科学の成果を讃える声が高かったが、最近は、下流の土地が痩せ衰え、砂漠化が進行し、日本のダム建設が見直されているのと同じように、アスワン・ハイ・ダムの建設も失敗ではなかったか、という声が聞かれる。
オペラ歌手の肉声も、<自然>であるがゆえに、人間にとっては、ナイル河の氾濫のように不都合な点が少なくない。身体の調子が悪いと、すぐに声が出なくなる。どんなにがんばって声を制御しようとしても、暴走して妙な声が飛び出すこともある。それに、ちっぽけな自然(実力のないオペラ歌手)の声は、人工の音(オーケストラの音量)にかき消されて聴こえない。
そこで、ナイル河にダムを造ったように、マイクとアンプで自然(の声)を制御すればいい、という考えが思い浮かぶ。オペラ歌手が小型マイクを胸につけ、小型スピーカーを舞台の様々な場所に隠し、ミキサーの操作によって歌手の声を制御すれば、現代のハイテク技術なら、おそらく、肉声を聴くのとほとんど変わらない声が再現できるに違いない。
しかし、そんなことをすれば、肥沃な大地が枯れあがったたように、オペラ歌手の声もいつしか枯れてしまい、人々の心に感動を呼び起こすことができなくなるに違いない。少なくとも、オペラ歌手が、肉声(自然の声)を聴かそうと努力したときの感動とは、異なる感動しか得ることができなくなるに違いない。
♪アアアアア〜というオペラ歌手の一声を聴いて、人々は涙を流す。また、熱狂的な快哉を叫ぶ。それは、蕩々と流れる大河や、広大な海原や、峻厳な高山を見たときに心を揺すぶられる感情と似ている。オペラ歌手の肉声も大自然の光景も、どっちも<自然>であり、人間の心は、その神々しいまでに偉大な存在感に、なぜ、存在しているのかはわからないまま、ただただ圧倒されるのである。
話は、少々横道にそれるが、スポーツもまた、人間の身体−−すなわち、最後に残された<自然>を用いた娯楽である。だから、自然の存在しなくなった(自然に接する機会の少なくなった)現代社会のなかで、オリンピックやワールドカップが大騒ぎされるのである。
おそらく、スポーツ(身体を用いた娯楽)と舞踏(身体表現)とオペラ(肉声を用いた音楽劇)は、「ブーム」にとどまらず、人工化と自然破壊がいっそう進行するに違いない未来社会において、ますます人気を博すようになるに違いない。
−−と、前置きが長くなったが、この連載をこれまで三度に渡ってお読みいただき、推薦ビデオを鑑賞された読者の方々は、すでに、プッチーニの甘美なメロディに涙するようになり、ヴェルディの力強い音楽に隠された政治劇に身をふるわせるようになっているはずである。
ならば、そろそろドイツ・オペラに手を伸ばし、通してビデオを見るには14時間を要するワーグナーの超大作『ニーベルンクの指環』に手を出すのも一興……いや、そういう一見破天荒に思える道筋を紹介することこそ、このオペラ入門で筆者がやりたいこと……ではあるのだが、そこは少しばかり手綱を引いて、プッチーニ、ヴェルディの次に、彼ら以外のイタリア・オペラをまとめて紹介しておくことにしよう。
しかし、誤解されたくないのだが、それは何もドイツ・オペラや『ニーベルンクの指環』が、難解で高級なオペラだから後回しにした、というわけではない。
『ニーベルンクの指環』は、ニーチェの永劫回帰の思想にも影響を与えたドイツ・ロマン主義思想の総大成であり……というような解説をする人もいるが(たしかにそのとおりなのだろうが)、映画の『スター・ウォーズ』三部作のように面白い「北欧神話版痛快SF巨編」ともいえる。それを手にした者は世界の支配者になれるというラインの黄金から作られた一個の指環をめぐって、天上の神々や地下の小人族、それに大蛇に変身した巨人族などが争い、双子の兄と妹の間から生まれた英雄ジークフリートが……。いや、それは次回にまわして、今回は、物語(を表現した音楽)の面白さでなく、圧倒的な「歌の世界」「イタリア音楽の世界」に酔いしれていただきたい。
プッチーニのオペラもヴェルディのオペラも、もちろん「歌」と「音楽」が重要な要素であることには違いない。が、彼ら以外の有名なイタリア・オペラ作曲家たちが残したオペラは、もう、歌、歌、歌……で、イタリア音楽の匂いが、プンプン。誤解を恐れずにいうなら、筋書きも物語も、どうでもいい。とにかく歌を聴き、イタリア音楽に酔えば、胸がスカーッとして、ガーリックとオリーヴオイルがたっぷりの極上のボンゴレ・スパゲッティを食べたあとの気分……といったオペラなのである。
なかでもドニゼッティ(1797〜1848)とベッリーニ(1801〜1835)の作品は、「ベル・カント・オペラ」(美しい歌唱のオペラ)と呼ばれているように、歌手の美しい歌を前面に押し出した作品で、はっきりいって、歌を聴く以外に、魅力はない。筋書きも荒唐無稽なものが少なくなく、現代人の鑑賞には堪えない物語が多い。
たとえば、ドニゼッティの作品−−『愛の妙薬』は、村の純朴な(少々馬鹿な)青年が美しい村娘に一目ぼれして、インチキ薬売りから「ほれ薬」(愛の妙薬)を買って飲み、最初のうちはうまくいかずに、村に兵隊を連れてやってきた軍曹に娘を奪われそうになるが、やがて娘は、青年の真心に打たれて、二人は結婚する……というお話。
また、『ランメルモールのルチア』は、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』と似ており、仇敵同士の家庭にもかかわらず愛し合った女と男の悲劇で、意に沿わない結婚を強いられた女は新婚の夜に夫を刺し殺して狂い死に。男も、その結婚の席で女を罵倒したことを悔やんで自害する……というお話。
粗筋を知っただけでも、だから、どうした……とツッコミたくなるが、じっさいに舞台(ビデオ)を見ても、あまりの馬鹿馬鹿しさ、構成の甘さ、内容の希薄さに、なんじゃい、この話は……といった印象しか抱くことができない。
が、『愛の妙薬』には「人知れぬ涙」というテノールの名曲があり、『ルチア』には、有名な八重唱や美しいメロディの二重唱やアリアが次々と湧き出るうえに、ソプラノ歌手の技巧を尽くした「狂乱の場」まであり、まったく馬鹿馬鹿しい筋書きを紹介する気にもなれない『連隊の娘』というドニゼッティのオペラにも、テノールが最も高い音(ハイC)を連発する歌があり、それらの音楽には、シビレてしまうのである。
34歳で若死にしながら、10曲のオペラを残したベッリーニの作品は、喜劇が一曲もなく、物語もドニゼッティほど荒唐無稽でも単純でもない悲劇が多い。
たとえば、古代ローマ時代のガリア地方を舞台にした『ノルマ』は、ガリア人の土着宗教であるドルイド教の高僧の娘ノルマに二人の子供を産ませながら、別の尼僧に心を奪われるローマ総督の物語で、ギリシア悲劇のような女の精神的葛藤が描かれている。が、最後にローマ総督が真の愛に目覚めてノルマとともに火の中に身を投げて死ぬ、というのでは、現代人の我々にとって、何の教訓もなければ、怖さもない。
とはいえ、 ワーグナーが「わたしはベッリーニに特別の偏愛を抱く。彼の音楽は強い真実の感情にあふれ、言葉と深く結びついている」といい、ショパンが「わたしが死んだら、遺体はベッリーニの墓の横に葬ってほしい」といったくらいで、その音楽の美しさには心を奪われる。
もっとも、ヴェルディは、次のような言葉を残している。
「ベッリーニは比類ない才能の持ち主だった。それは、どんな音楽学校でさえ与えることのできないほどのものだった。が、ただ彼には、音楽学校が当然与えなければならなかったものが欠けていた」
要するにドニゼッティもベッリーニも「イタリア人」なのである。「歌の国」にイタリア人のなかでも、最高の天賦の才に恵まれた音楽家が、心の内側からあふれるままに紡ぎ出した音楽−−それが、ドニゼッティの音楽であり、ベッリーニの音楽なのである。
だから、筋書きに文句をいっても仕方ない。それはイタリア料理店に入って、ジャガイモとソーセージ料理やザワークラウトを注文するようなものである。それが食べたいのなら、店を変える以外にないのだ。
とはいえ、物語の質を高め、音楽と物語を見事にマッチさせたヴェルディのあとに現れ、プッチーニ(1858〜1924)とほぼ同じ世代のレオンカヴァッロ(1857〜1919)、マスカーニ(1863〜1945)、チレーア(1866〜1950)、ジョルダーノ(1867〜1948)といった作曲家の作品は、筋書きも整っており、ヴェリズモ(現実主義)オペラと呼ばれているように、テーマも展開も結末も現代的である。
たとえば、村々をドサ回りしている道化師一座の座長が、女房で役者の相方である女房の浮気に気づき、現実と舞台の区別がつかなくなって舞台上で女房を刺し殺す、という筋書きのレオンカヴァッロの『道化師』は、アンソニー・クインが主演し、ニーノ・ロータが作曲した、フェデリコ・フェリーニ監督の名作映画『道』とまったく同じようなシチュエーションの物語で、男と女の悲哀が余すところなく描き出されている。
マスカーニの『カヴァレリア・ルスティカーナ』(田舎の騎士道)は、初な恋人の愛を無視して、美人の人妻に横恋慕した若者が、人妻の主人との決闘を余儀なくされ、刺し殺される、という物語だが、若者の無鉄砲な行動に泣かされる二人の女(母親と恋人)のやるせない心情が、鮮やかに描かれている。
この二つの作品(一つが一時間半程度の長さで、一晩に二作が上演されることも多い)ほどの凝縮度はないが、チレーアの『アドリアーナ・ルクヴルール』(男を奪い合う三角関係のなかで、恋敵の女に毒殺される女優物語)も、女の情念を怖いほどに描いた作品であり、フランス革命を舞台にしたジョルダーノの『アンドレア・シェニエ』(革命政府から死刑を宣告された詩人のシェニエと、革命政府の一員となった男が、同じ伯爵令嬢を愛し、最後に詩人と令嬢がギロチン台にのぼるという物語)も、その心の葛藤は、昨今のテレビのトレンディ・ドラマなどよりも深みのあることはもちろん、よほど現代的ともいえる。
が、それら「ヴェルディ以降の作品」も、ドニゼッティやベッリーニの「ヴェルディ以前の作品」と同様、やはり、イタリアならではの美しい「歌」と「音楽」が魅力なのである。
それらの「歌」と「音楽」は、ときとして物語の内容を大きく逸脱するほどの甘美さで、またオーバーでやりすぎと思えるほどの激しさで、あふれ出る。歌手はありったけの声を張りあげ、オーケストラもプッチーニの音楽以上に思い入れたっぷりのメロディを掻き鳴らす。ガーリックとオリーヴオイルをたっぷり入れたパスタが嫌いだ、という人には、あまり薦められないが、それが大好きという(筆者のような)人には、この魅力はコタエられない。
弦楽器のキュイ〜ンキュイ〜ンと胸を掻き毟るような音色に乗って、テノールとソプラノが♪アアアアア〜と声を張りあげると、もう、失神寸前!
あやうく射精しそうになるほどの興奮のなかで、ハッと我に返って「ブラヴォー!」と叫ぶ。嗚呼! これぞ、イタ・オペの醍醐味!
同じイタ・オペでも、ヴェルディよりも、ドニゼッティやベッリーニよりももっと前、モーツァルトの後にヨーロッパ中で大人気を博したロッシーニ(1792〜1868)の音楽は、少々質が異なっている。
それは(主に喜劇での話だが)、キュイ〜ンキュイ〜ンという甘美な流れるようなメロディではなく、ジャカジャカジャカジャカと忙しく繰り返され、歌は早口言葉が機関銃のように放たれ、音符は超絶技巧ともいうべき跳びはね方をする。
ドニゼッティ以降のナポリ民謡のような美しいメロディからは程遠い。が、やはりイタリア。そのジャカジャカというメロディが延々と繰り返され、2分間以上にも渡ってクレッシェンドされる音楽にいったんハマルと「モルト・ディ・ピウ!」(もっともっと)と叫びたくなる。そして大笑いするなかで「バースタ!バースタ!」(もう、十分!)といいたくなる。ロッシーニ(の喜劇音楽)は、麻薬のようなものである。いったんハマルと、笑い死にするまで味わい尽くしたくなる!
イタリアには「過ぎたるは及ばざるがごとし」という諺は、存在しないに違いない。「過ぎたるは及ばざるよりもよし!」という諺があるはずだ。そう思いたくなるくらい、イタ・オペには「過剰」な魅力がある。
メロディも過剰、歌声も過剰、そして、感情も過剰。物語と音楽の節度ある融合−−は、ヴェルディが完成させた。いや、そんな節度ある作品は、イタリアでは、ヴェルディしか作れなかった。
他のイタリアの作曲家の作品は、すべて「過剰」が魅力。その「過剰な魅力」に、モット、モット、ヤッタリーナ、タント、タント、ハメタリーナ……と乗りまくること、すなわち、ガーリックとオリーヴオイルをガバガバ入れて味わうこと、それが、イタ・オペに陶酔する唯一の方法なのである。
どれほど「過剰」になっても、オペラは根本的に「自然な行為」なんだから、「酒鬼薔薇」のような異常なまでの狂気に走ることは、ありえないのですよ。もっとも、イタリア語にも、“Il
troppo stroppia”(やりすぎは害になる)という諺があるという。ホンマカイナ!? 信じられない! |