これは、私よりも15歳くらい年上の(ということは還暦を過ぎた)ある作家から聞いた話だが、終戦直後から昭和40年くらいまでは、日本でも「パリ祭」を祝っていたという。パリ祭とは、7月14日、フランス革命の記念日のことである。1789年のその日、パリの民衆がバスチーユの牢獄を襲撃し、それがきっかけとなってブルボン王朝は倒れ、共和制の社会となった。
当然のことながら、いまもフランスでは、革命記念日(Le Quatroze Juillet=7月14日)には、パリのシャンゼリゼ大通りを軍隊が行進したり、様々なパレードや記念式典が盛大に行われ、ひとびとがお祭り気分に浸っている様子は、日本のテレビのニュースなどでも紹介されている。
その日――「パリ祭」の日になると、かつては日本でも、「銀座が人波であふれ、誰もが一晩中酒を飲み、歌をうたい、お祭り気分で街を徘徊した」というのだ。
「銀パリなんていうシャンソン・パブもあって、パリ祭のときは満員になった。運良く入れたときは、一晩中シャンソンを聴いていた」
異国の革命記念日なのに、なぜ、そんなことをしたのか、その作家も、「なぜだろうねえ」と首をかしげるばかりだった。が、ひょっとして、ルネ・クレール監督の映画『巴里祭』が大ヒットしたせいかもしれない。
そもそもフランスには「パリ祭」などという(それに近い)言葉はない。"Le Quatroze Juillet"という映画に『巴里祭』という邦題が付けられて以来、フランスの革命記念日を、日本で「パリ祭」と呼ぶようになったらしい。だから、「パリ祭」を祝うようになったのも、映画の影響が大きかったにちがいない。
しかし、東京の銀座が「人波であふれ」た「パリ祭」も、いつの間にか忘れられ、7月14日は、いまでは日本人にとって何でもない日になった(いまでは『7月8日に生まれて』のほうを心に留めているひとのほうが多いだろう。といっても、アメリカの独立記念日を祝うひとはいないだろうが)。
私は、日本人がパリ祭を祝ったことなど、まったく知らなかった。世代の相違もあるのだろうが、子供のころにそんな騒ぎのあったことも記憶にない。私の生まれ育った京都は、パリとは姉妹都市だが、誰も騒がなかった。
しかし、シャンソンが流行していたことはよく憶えている。シャンソンの神様といわれたエディット・ピアフが亡くなり(1963年)、女性の憧れイヴ・モンタンが人気を集め、ジュリエット・グレコ、シャルル・アズナヴール、ジョルジュ・ムスタキなどが活躍し、アダモの『雪が降る』、シルヴィ・バルタンの『アイドルを捜せ』、少しあとにはフランス・ギャルの『夢見るシャンソン人形』などがヒットしていた。もちろん、越路吹雪や美輪明宏(昔は丸山明宏と名乗っていた)なんかもテレビに出てシャンソンをよく歌っていた。昭和40年代の話である。
そういえば、何のテレビ番組だったか忘れたが、日本の歌手の誰だったか(岸洋子だったか)が、ある曲をうたったとき、私の親父が、「この曲を聴いて自殺したひとが大勢出たらしい」と呟いたのを、いまも憶えている。題名を訊くと、『暗い日曜日』と親父が答えた。
私の親父は、戦前、定時制の中学に通いながら大阪の電気屋で丁稚奉公をしていたが、そういう人間でもダミアの『暗い日曜日』を知っているのだから、シャンソンは日本で相当に市民権を得ていたにちがいない。
その名残だったのか、昭和50年ごろになって、グループ・サウンズのザ・タイガースが解散したあと、ソロ歌手として独立した沢田研二が、『モナ・ムール・ジュ・ヴィアン・ドゥ・ブ・ドゥ・モンド(巴里にひとり)』というシャンソンをうたい、フランスでヒットさせた。
その歌は、日本ではあまり人気が出なかったように記憶しているが、ヨーロッパではけっこう流行したようで、私が27歳で(昭和54年)、はじめて海外旅行を経験し、スペインの各地を歩き回ったとき、同じように貧乏旅行をしていたベルギー人の学生と電車のなかで友達になり、「日本人で知っているのはアキラ・クロサワ、イサオ・トミタ、ケンジ・サワダ」といわれ、♪モナ・ムール・ジュ・ヴィアン・ドゥ・・・と、彼が歌い出したのを憶えている(お返しに、黒澤明の映画『生きる』で使われた♪命短し恋せよ乙女・・・を教えてあげた)。
そういえば、私の短い学生時代に(一年足らずで中退したので)シャンソンの好きな友人からブリジット・フォンテーヌという歌手の『コム・デ・ラディオ(ラジオのように)』というLPを貸してもらい、そのアヴァン・ギャルドな歌い方に(つまり、音をぶつ切りにした前衛的な歌い方に)感激したことも、いまこの原稿を書きながら思い出した。
以来一時期シャンソンに凝って、ダミア、ピアフ、モンタン、グレコ、アズナヴールはもちろん、ジョセフィン・ベーカーのLPまで買った。
が、いまはシャンソンをほとんど聴かない。それは、CDを買い直していないせいかもしれないが、買い直そうという気も起こらない。なぜだかわからないが、私個人の「パリ祭」も、いつのまにか廃れてしまった。
しかし、まあ、ピアフくらいは聴き直してみようか・・・と思って、二枚組のCDを買い、プレイヤーにかけて、仰天した。
ピアフって、こんな歌い方をしていたんだ。
私の記憶のなかにあったピアフは、アコーディオンをバックに美しいフランス語で小粋にシャンソンをうたっていた。が、改めて聴き直したピアフは、豊かな声量で、力強く(ときには叫ぶほどに)、歌をうたいあげている。
それは、シャンソンと呼ぶより、カンツォーネといったほうがいいくらいに情熱的な歌い方で、バックのオーケストラも感動の押し売りとでもいえるくらいに美しいメロディを高らかに掻き鳴らし、そのサウンドにのって、ピアフの太く豊かな声が大きく響きわたる。
まるで美空ひばりのようだ・・・。そう思ったとたん、いろんな疑問が氷解した。そうなのだ。ピアフほどの大歌手が、美空ひばりでないわけがないのだ。
美空ひばりも、エディット・ピアフも、そして、ビリイ・ホリデイも、マリア・カラスも、すべて最高の大歌手は、「一般大衆」に向けて歌をうたい、「一般大衆」の絶大な支持を得たのである。早い話が、ミーハー受けしたのである。評論家やインテリを相手にしたのではない。
シャンソンだからといって、何も気取ったおフランスの歌なんかではないのだ。サルトルもカミュも、ボーヴォワールもシモーヌ・ヴェイユも、そしてジャン・コクトーも、ピアフの歌を聴くときは、ミーハーになって拍手喝采を送ったのだ。ピアフの歌の力の前では、どんなインテリも、単なる「一般大衆」のひとりになったのだ。
シャンソンが少々高級で気取ったもの・・・というのは、私が勝手に思い込んでいただけのことかもしれない。が、自分に対して言い訳をするなら、出逢ったときが悪かった。サルトルやカミュがもてはやされ、御多分に漏れず彼らの作品にかぶれたのと同じ時期、同じフランス語だったものだから、何やら「高級なもの」と思いこんでしまったのだ・・・。
ひょっとして、日本の「パリ祭」も同じようなものだったかもしれない・・・。多くの若者がインテリに憧れ、インテリを気取った青春時代――それが「戦後」というものだったようにも思える。
でも、シャンソンに限らず、どんな歌も、頭や理屈で聴くものじゃないのですよね。
♪パダン、パダン、パダン・・・。 そんな意味のない言葉でも、ピアフは聴く者の心をふるわせてくれるのだから。 |