銀行、証券会社、ゼネコンが倒産、円安、株安、債券安……で、日本経済は、いま、ボロボロ……らしい。らしい……などと書くと、「何を気楽に!」と、罵声を浴びるかもしれないが、株券も、さほどの預貯金も持たないわたしには、不況だの恐慌だのと騒ぐ気になれない。
もっとも、ほんの数年前のバブルの時期も、財テクやマネー・ゲームや土地神話とは無縁で、収入は伸びず、会社の交際費の恩恵にも預からず、逆に、金欠病に悩んでいた。好況も不況も、わたしには関係ないのだ。
いや、わたしだけではない。つい先日、ベルリン国立歌劇場の来日公演に行ったが、ベルクの『ヴォツェック』という一般には馴染みの薄い作品でも、S席6万5千円の神奈川県民ホールは満席だった。「オペラ・ブーム」と呼ばれる現象は、バブルのときに幕を開けたが、バブルがはじけて「平成大不況」といわれる時代になった現在も、未だに幕を閉じていないのだ。
消費が伸びない……などといわれているが、誰でも、自分の本当に欲しいものにはカネを出す。欧米では、文化経済学やコンサートホール経営論、博物館・図書館経営論、スポーツ経営論といったジャンルが確立されているそうだが、この国も、公共投資でゼネコンを助ける「土建国家」や、製品の売れ行きばかりを気にする「消費国家」は卒業し、文化による経済活性化を考えるべきだろう−−ということはさておき、わたしも、なけなしのカネで、「これは!」と思うオペラ公演のチケットを買っている。
最近は、来年の6月に来日するベルリン・コーミッシュ・オーパーと、9〜10月に来日するボローニャ歌劇場のチケットを買った。すべてB席で(S・A席は少々高いので)、合計5公演の入場料は10万円!女房と2人分で、20万円!
もちろん、安いものではない。が、来年1年間の娯楽費のほとんどすべてだと考えると、そう高くはない。もっと安けりゃ、それに超したことはないが、何年か前に見たウィーン国立歌劇場の『ばらの騎士』(カルロス・クライバーが指揮をした!)や、ベルリン・コーミッシュ・オーパーの『ラ・ボエーム』、それにボローニャ歌劇場の『アドリアーナ・ルクヴルール』など、いま思い出しても、ぶるぶると全身が震えるような感動がよみがえる。その感動を、再び体験できるかも……と思うと、さほど高価とは思えない。
ジュディ・オングや美川憲一のクリスマス・ディナー・ショーでも4万円。彼らにその価値がないとは思わない(それどころか一度行ってみたいと思っている)が、この先何年も、いや、この先一生抱き続けることのできる感動が、ワンステージ平均2〜3万円で手に入るとするなら、けっして高いとはいえないだろう。
日本代表チームの応援で、UAE、カザフスタン、ウズベキスタン、韓国、マレーシアを飛び回り、来年はフランスへ行くことを決めたサッカー・ファンと較べても、オペラが特別カネのかかる娯楽とは思えない。しかもサッカーにJリーグがあるように、オペラにも数千円で楽しめる優れた国産公演がある。ビデオやLDなら3〜5千〜1万円(2枚組=まだDVDの普及しない時代の原稿です)、CDなら2千円で、心を震わすこともできる。
オペラは贅沢−−ではないのだ。ドレスアップしてディナーも楽しみ、本場のミラノやウィーンへも……と、カネをかけようと思えば、いくらでもかけられる。が、安く楽しもうと思えば、いくらでも安く楽しめる。おまけに、わたしはゴルフをやらない。麻雀もパチンコも競馬も競輪もやらない。取材や講演以外には旅行もせず、温泉へも行かず、スキーもせず、失楽園とも(いまのところ)無縁である。酒を飲み、煙草を吸い、美食を好むが、それは家庭内でエンゲル係数を高めるだけのことである。
来年はフランスへW杯を見に行きたい(ついでにバスティーユ・オペラにも足を運びたい)と思っているが、それは、わたしにとっては仕事である(出版社かテレビ局の方、交通費の面倒を見てください!)。だから、年間数十万円の「オペラ代」(CDやLD代金も含めれば百万円くらいになるだろうか)は、四十不惑も半ばに達した男盛りの男にとって、さほど高いものではないのである。それどころか、その程度のカネで、いま、わたしが心に抱いているような喜びを与えてくれるオペラとは、なんと安価に楽しめる娯楽か! と思っているくらいである。
しかし、オペラという趣味に、問題がないわけでもない。
それは、時間である。
1時間程度の短いものもあるが、ほとんどのオペラは、ひとつの舞台を楽しむのに、2〜3時間、長いものになると4〜5時間もかかる。それに、それらの作品を、心の底から楽しむためには、やはり、映像で繰り返して見たり、CDで聴いたりする必要がある。
もちろん、初めて見る舞台、初めて聴く音楽に感動することもないわけではない。モスクワのボリショイ歌劇場でプロコフィエフの『修道院の花嫁』という作品を初めて見たとき、ロシア語の台詞も筋書きもわからないまま、その見事な舞台と音楽に感動した。オペラは基本的に勉強するものでなく楽しむものだから、暇を見つけてタマに見たり聴いたりして、楽しむだけでもかまわない。
とはいえ、何度も音楽を聴き返し、何度も舞台(ビデオ)を見直すと、最初はつまらないと思っていた音楽や場面が素晴らしく感じられるようになる。深く感動するようにもなる。新たな面白さを発見することもある。メロディが口ずさめるほどのオペラの舞台に接するのと、何も知らずに接するのでは、前者のほうがはるかに楽しい。が、そうなると、ますます時間が足りなくなる。
高校生や学生のころは、カネはなくてもヒマがあった。海外のオペラ座の来日公演の切符など、とても買えなかった。が、ワーグナーの『ニーベルンクの指環』の全曲を、10か月月賦で買ったLPレコードで14時間ぶっ通しで聴くことができた。モーツァルトやヴェルディを毎日4時間以上、対訳と首っ引きで、何度も聴き直すこともできた。しかし、いまは仕事に追われ、そんな時間はとれなくなった。
わたしのように、主に自宅で原稿を書くことを仕事にし、朝起きたときから夜寝るときまで、ほとんど途切れることなくオペラのCDをかけているような人間でも、3〜4時間のオペラの全曲をじっくり見たり、聞いたり、楽しんだりするような時間をとることは難しい。夕食後など、タマには気楽にオペラを楽しみたいと思ったときでも、LDのチャプターをフル活用し(註・まだDVDはそれほど一般的ではなかった時代の話ですね)、有名なアリアや重唱を飛ばし飛ばし味わうことがほとんどである。
わたしのような男でさえ、そんなものだから、毎日朝早く起きて会社へ出勤されているサラリーマンやOLはもちろん、ご主人を送り出したあと、掃除、洗濯、買い物、それにご近所付き合い……と、雑事に追われる奥様方も、オペラに接する時間は、なかなか取れないだろう。
オペラに興味を持ち、見てみたい、聴いてみたい、とは思っても、時間がとれない、というのが実情だろう。そんなときに便利なのが、「オペラ名アリア集」とか、「オペラ名合唱曲集」というようなCDである。1曲3〜7分の名曲が、イタリアものも、ドイツもの、フランスものも、ロシアものも(それに、イタリア民謡やカンツォーネまで)ごちゃ混ぜに、いろんな歌手が歌っているCDを、ポピュラー音楽を聴く感覚で何度も聴く。それなら、自動車のなかとか、掃除や洗濯をしながら、簡単にできる。そのうち、△△というオペラの◇◇というアリア(合唱曲)のメロディが気に入り、口ずさむようになれば、全曲盤のCDやビデオ(LD)を買えばいい。
すると、耳慣れたメロディが、序曲のヴァイオリンの旋律に現れたり、変形されて二重唱で歌われたりして、そのオペラ全体も馴染み深いものとして、一気に楽しめる場合が多い。2〜4時間のオペラの名場面だけを1時間くらいに編集した抜粋盤のCDもあり、時間の節約には効果的に思う人がいるかもしれない。が、オペラ初心者には、あまり奨められない。というのは、いずれ全曲を聴きたくなり、無駄になってしまう場合が多いからだ。
全曲盤のCDを既に一組持っていて、歌手や指揮者の演奏を聴き較べたいが、同じオペラの全曲盤を何種類も買うほどの予算がない、という人にはも抜粋盤はオススメだ。演奏を聴き較べるほどには興味がなく、オペラを楽しみたいと思っている初心者は、抜粋盤に手を出さず、「アリア集(合唱曲集)全曲盤」というルートを歩むことをお奨めしたい。
それに、名アリア集は、ディスク会社の持っているソフトのなかから最高の歌手による最高の歌唱が選ばれていることが多いから、名曲が心に染み入り好きになる可能性も高い(歌唱や演奏が悪いと、せっかくの名曲も好きになれない場合がある)。また、全曲盤を楽しむようになったあとでも、別の歌手の名唱を何度も楽しむことができる。
その意味で、一人の歌手による名アリア集を買う場合は、何といっても、ソプラノのマリア・カラスと、テノールのマリオ・デル・モナコをお奨めしたい。三大テナーがいくら素晴らしいといっても、この二人だけは、別格。
おどろおどろしい……といえるほどに女の魔力を歌に込めたカラスと、トランペットのように輝く張りのある声(しかも高くても太い声)で激情をほとばしらせるデル・モナコ。二人の歌唱は、わずか5分間のアリアを聴くだけでも、オペラの全曲に接するほどのドラマチックな感動を味わうことができる。
しかも、彼らは、レパートリーが広いから、数多くのオペラのサワリを次々と楽しむことができる(残念ながら、ドイツ・オペラやモーツァルトのオペラに関してはカバーできないから、それは、ビルギット・ニルソンやエリザベート・シュワルツコップといったソプラノ、ヴォルフガング・ヴィントガッセンやディートリヒ・フィッシャー・ディースカウといったテノールやバリトン歌手に手を伸ばすほかない)。
CDの「オペラの名アリア集」と同様の「オペラ名場面集」というべきビデオ(LD)は、メトロポリタン歌劇場やミラノ・スカラ座、それに名ソプラノ歌手のキリ・テ・カナワが案内役を務めたロイヤル・コヴェントガーデン歌劇場のものなどが発売されている。
が、わたしの個人的感想では、ビデオの「名場面集」は、お奨めできない。聴覚のうえに視覚も伴った情報を、一部分だけ切って取り出されると、なぜか、モーレツな欲求不満が生じ、前後の舞台を見たくなり、全曲を知りたくなり、結局、全曲盤のビデオ(LD)を買うことになり、抜粋盤のCDを買ったあとと同じように、無駄になる場合が多いのだ。
まあ、それがディスク・メーカーの狙いなのかもしれないが、ビデオ(LD)の場合は、最初から全曲盤を買い、すべての舞台を知ってから、早送りやチャプターで、自分の好きな部分(アリアや重唱や合唱)を楽しむことをお奨めする。
オペラ入門者が、CDの「名アリア集」と同じような感覚でビデオ(LD)を購入しようとするなら、歌手の演奏会(コンサート)をお奨めしたい。
コンサートでは、数多くのオペラのアリアが歌われるので、名オペラのサワリを知る入門編としても最適である。そのうえコンサート自体が全体で一つの作品になっているから、のちに、そのコンサートで歌われているアリアの入っている全曲盤のビデオを買っても、重複にはならない。
三大テナーがローマのカラカラ浴場で催した1980年のコンサートなど、何度見直し、聴き直しても、じつに素晴らしいものである(それに、わたしは、そのコンサートで歌われたアリアをきっかけに、マアイベーアの『アフリカの女』、レハールの『ほほえみの国』、チレーアの『アルルの女』といったオペラを知ることができた)。
『パヴァロッティ&フレンズ』と銘打って催されたパヴァロッティのコンサートを収めた何種類かのビデオも、スティング、ブライアン・アダムス、エリック・クラプトン、ライザ・ミネリ、エルトン・ジョンといった多彩なゲスト歌手を迎えてのコンサート自体が楽しいうえ、ロック歌手やポップス歌手が、平気でオペラのアリアを歌うことに、嬉しくなる(オペラは、何も特殊なものではないのだ!)。
その他、キリ・テ・カナワの五十歳バースデー・コンサートや、様々なガラ・コンサート(「ガラ」とは、「豪華な儀式」「大饗宴」「祝祭」「盛装」といった意味で、多くの出演者がかわるがわる登場して、いくつかの演目の聴かせどころばかりを演奏する特別興行のことをいう)のビデオが発売されてる。が、何といって凄いのは、やはり、マリア・カラスのコンサートのビデオである。
『ハンブルク・コンサート』『伝説の東京コンサート』『コヴェントガーデンのカラス』『パリ・デビュー』といったビデオが発売されているが、どれも、強烈な物凄さである(何という形容の仕方か、と自分でも思うが、そういうほかないほど凄い!)。
たとえばカラスが『カルメン』のアリア「ハバネラ」を歌う。そのときカラスは、顔も指先も、頭の先から足の先まで、すべてカルメンという女になってしまうのである。見ている者に、「ああ、これがカルメンという女だ!」と思わせるのである。「これが、男を惑わす女の目付きだ」「これが、男を悩ます女の物腰だ」「これが、男を狂わす女の声だ」
そして、これが、寂しく死んで行く、悲しい女の姿なのだ……という思いが、カラスのふとした表情−−顎の線、遠くを見る目、小さな首のひねり−−から、うかがえるのである。
断っておくが、わたしが、いま説明しているのは、コンサートでのカラスであり、彼女はドレスをまとい、彼女の背後にはオーケストラ(あるいはピアノ)がある。が、そんなものは、視野から消え、思わず、「ああ!、カルメン、カルメ〜ン」と、ドン・ホセのように叫び、震いつきたくなる。お〜、怖い、怖い。
−−というところで、前置きが長くなったが(というより、前置きばっかりになってしまったが)、今回のテーマは、「三大オペラ」である。
誰が名づけたかは知らないが(たぶん、日本のレコード会社の営業部の人間か、オペラのチラシを作っている日本人が考え出したコピーに違いない)、ビゼーの『カルメン』、ヴェルディの『椿姫』、プッチーニの『蝶々夫人』の三つのオペラを称して、そう呼ぶらしい。
どれも、わざわざアリア集や合唱曲集のCDを聴かなくても、聴き慣れたメロディが次から次へとあふれ出てくるオペラである。
『カルメン』の♪ブンチャカチャカチャカという前奏曲や、「ハバネラ」(恋は野の鳥)や「闘牛士の歌」を知らない人はいないだろう。『椿姫』の前奏曲はタンゴに編曲されてヒットしたし、「乾杯の歌」は結婚式の乾杯のときに必ず流される。『蝶々夫人』には「アメリカ国歌」や「君が代」「さくらさくら」「お江戸日本橋」「越後獅子」「宮さん宮さん」といった日本のメロディがふんだんに使われているし、「ある晴れた日に」のメロディを知らない人はいないだろう(ほら、映画『慕情』のテーマに編曲された音楽ですよ)。
しかも、それらの名曲以外にも、親しみやすい音楽にあふれ、筋書きもドラマチックで、物語もテンポよく進行する。
だから、とくに予備知識がなくても、前もって準備などしなくても、見てみよう、聴いてみようという意欲さえあれば、誰もが、すぐにホールの客席に座って舞台を楽しむことができる(最近のオペラ公演では、日本語訳の字幕スーパーが出ますからね)。また、全曲ビデオを楽しむことができるし、対訳を読みながらCDで音楽を楽しむこともできる。
が、だからといって、この「三大オペラ」は、けっして平易な作品というわけではないのである。いや、聴く者、見る者にとっては、親しみやすいオペラなのだが、歌う側、演じる側、演奏する側にとっては、相当な難曲といっていい。
わたしは、ピアノもヴァイオリンも演奏できず、音楽の技術的なことに関してはほとんど無知だから、歌ったり、演奏したりするのが難しいかどうかはわからない(おそらくロッシーニやリヒャルト・シュトラウスのオペラに較べれば、技術的には簡単だろう)。が、ジプシー女のカルメンを演じる困難さは、わかる。
男から男へと心を移し、竜騎兵伍長のドン・ホセをたぶらかし、その人生を破滅させ、最後にホセのナイフに刺されて死ぬカルメンとは、いったい、どういう女なのか? ホセの凶刃に貫かれるとき、カルメンは、いったい、どんな思いで死ぬのか?(最近は、ホセの純粋な愛情に喜びを感じ、自らナイフを手にしたホセに抱きつき、刺される−−といった演出が流行している)。
ヴィオレッタ・ヴァレリー(『椿姫』の主人公)になりきることの難しさも、理解できる。純情な男に愛され、幸せな家庭を築こうと決意したにもかかわらず、男の父親から別れ話しを持ちかけられ、泣く泣くそれに同意するパリの高級娼婦……とはいえ、自分が肺病を病んでいることを知っていたヴィオレッタは、本当は、何をしたかったのか?(馬鹿な青二才の男を弄んでやろうという気持ちもあったのでは……?)
蝶々夫人も難しい。何しろ彼女は、十五歳で、アメリカ人海軍将官の現地妻となった日本女性である。子供を産み、アメリカへ帰った夫を待ち続けていたのに、戻ってきた夫はアメリカ人の正妻を連れ、子供だけをアメリカに連れて帰るという。「名誉に死ね」と書かれた短剣で喉をついた彼女の思いは、はたして、どんなものだっただろう?
そのような個性にあふれ、あるいは強烈な人生を歩んだ女性たちを演じ切ると同時に歌い切るのは、並大抵のことではない。だから、正直いって、「三大オペラ」を見たあとは、必ず不満が募る。完璧な舞台など不可能なのではないか、とも思う。
これからオペラを楽しもうと思っている人たちも、最初に『カルメン』や『椿姫』や『蝶々夫人』を見れば、太り過ぎのカルメンや、歌ってばかりで演技が稚拙に見えるヴィオレッタや、和服の似合わない蝶々夫人を見て、ガッカリする可能性が高い。そして「オペラってやっぱり不自然だ」「歌がなくても芝居で十分だ」と言い出す人が出るかもしれない。
そう思ったので、この有名で親しみやすいオペラを取りあげるのを、今回(連載の五回目)まで見送ったのである。が、少しでもオペラを面白い、と思い始めた人が「三大オペラ」に接したなら、少々不完全な舞台やビデオでも、このオペラに描かれた「女」というテーマを見抜き、オペラの素晴らしさを再発見し、いっそうオペラ好きになるに違いない。 |