プロ野球評論家の江本孟紀氏と話をしたとき−−というより、参議院議員の江本氏と話をしたとき、彼は、次のような企画を語り出した。
「いちど参議院の議会場で、オペラを上演したいんですよ。国連総会の会場でも音楽の演奏会をやってるんだから、国会でもやればいいと思うんです。そうすれば、いまの政治家たちも、国民にちょっとは見直してもらえるんじゃないかと…」
ここで少々お断わりしておくが(本誌をお読みの読者なら、以前、江本氏と小生の対談が掲載されたので御存知のことと思うが)、江本氏はオペラやミュージカルの大ファンであり、二期会のバリトン歌手の重鎮である中山悌一氏に発声のレッスンを2年間受け、『カタリカタリ』や『帰れソレント』などのナポリ民謡をイタリア語で歌われるほか、何年か前に『題名のない音楽会』に出演し、ワーグナーの歌劇『タンホイザー』のアリア『夕星の歌』を原語(ドイツ語)で歌ったほどの人物である。
ついでに書いておくと、オペラ・ファンのなかには「意外な人」が少なくない。 フジテレビのプロ野球ニュースで、大リーグのレポートをされている伊藤一雄さん(通称パンチョ伊藤さん、プロ野球のドラフト会議でいつも司会をしていたパ・リーグ職員)は、大ヴァイオリニストのヤッシャ・ハイフェッツの来日公演(昭和29年)をご覧になったほどのクラシック・ファンで、『レコード芸術』誌に、ムソルグスキーのオペラ『ボリス・ゴドノフ』についての文章を書かれたこともある。
またV9巨人時代の名捕手で、西武ライオンズの監督として黄金時代を築いた森祇晶氏は、“SPレコード”の竹針時代以来の音楽ファンで(わかります?)、三大テナーやオペラの来日公演などでは、よく姿を見かけるほか、毎年ニューヨークのブロードウェイとロンドンのミュージカルには必ず出かけ、『タイタニック』や『ジキル博士とハイド氏』などの新しい舞台も既にチェック済み、というほどのミュージカル・ファンでもある。
それに、北島三郎さんの弟子で『木曾路の女』をヒットさせた演歌歌手の原田悠里さんは、鹿児島大学教育学部音楽科で声楽を学び、卒業公演ではモーツァルトの『魔笛』の夜の女王を歌った元オペラ歌手で、マリア・カラスと美空ひばりの大ファンとして、最近『ひばりとカラス』という本を上梓された。
また、歌手の都はるみさんや俳優の緒方直人さんはパヴァロッティの大ファンだし、女優の賀来千香子さんはホセ・カレーラスの大ファンだし、弁護士の伊藤芳明さんはカルロス・クライバーの指揮したリヒャルト・シュトラウスの歌劇『ばらの騎士』に心酔しているし、TBSアナウンサーの宮澤祐介さんは、マリオ・デル・モナコの大ファンだし、プロレスラーの藤波辰巳さんは指揮者の佐渡裕と仲が良くて、レナード・バーンスタインの大ファンだし……。
要するにオペラ・ファンは少数派ではないのである−−ということをいいたかったのだが、話を冒頭の話題に戻そう。
参議院の議会場でオペラを……と主張する江本氏は、議長席がとりはずせて舞台として使用できることや、大臣席がオーケストラ・ピットになること、そして議員席と傍聴席が客席になることまで調べたのだが、何を上演するかと演目を考えたときに、ハタと困ってしまった。「日本のオペラというのはポピュラーじゃないし、かといってワーグナーやヴェルディの作品のなかから一つを選ぶというわけにもいかない。日本の国会でやるんやから、日本の作品も含めた名作のガラ・コンサートしか、やりようはないんだろうけど、そうなるとイタリア・オペラとドイツ・オペラと日本の作品で、日独伊になってしまう。その組み合わせを日本の国会でやるのは、ちょっとまずいよなあ……(苦笑)」
と、まあ、その場は笑い話で終わったのだが、この話の中味はかなり奥が深い。
実際の上演(ガラ・コンサート)を考えるなら、日独伊以外に米英仏露といった連合軍側諸国のオペラ作品も取り上げることは可能だ。が、オペラといえばイタリアとドイツが本場で、仏露はオペラよりもバレエ、英米はミュージカルが主流。そして日本には、和製オペラというべき歌舞伎があり、やはりオペラは“日独伊”が主流になってしまうのである。
その証拠に……というわけでもないが、次のような文章もある。
<第二次世界大戦は、オペラと歌舞伎を持つ国民国家と持たざる国民国家の戦いであった。オペラを持たない鬼畜米英は、ヴァーグナーを軍旗とするドイツ第三帝国とヴェルディ軍旗を掲げるイタリア共和国、並びに東洋に於てオペラと同様の文化産業である歌舞伎を持ち、大東亜共栄圏をめざす大日本帝国に対し、これ以上大きな文化的格差をつけられることは国民的屈辱であり、全世界における彼らの利益を損なうと判断した。かくてオペラを持たぬオランダ、オペラを半分しか持たぬフランス、ソ連等とかたらって、日独伊の三国同盟に対し、戦争を起こさせ、それを叩こうと言う陰謀を抱いたのである……>(永竹由幸・著『オペラと歌舞伎』丸善ライブラリーより)
断っておくが、この文章は、ギャハハハハと笑うべき怪文であり、著者の永竹氏も、<と書いていくと少々扇情的であり、少し皮肉がきついかもしれないが>と文章を続けておられる。
しかし、江本氏の到達したオチと同様、この扇情的で皮肉あふれる文章も、内容的には相当に奥が深いのである。
オペラを持たない国や、半分しか持たない国は、植民地経営や自国の領土拡大に力をそそいだ。が、<オペラを創りあげて徹底的にオペラ大国となったイタリアおよびドイツ・オーストリアはほとんど植民地を持つことができなかった。又、十七世紀以降鎖国をして歌舞伎を育てた江戸文化も、目の前にある北方の島々にすら国土を拡大するという考えを抱かなかった。(略)この三国の歴史的共通性は、1600年のオペラと歌舞伎の誕生から現代に至るまで、一種の運命共同体のような目に見えぬ歴史的“糸”で結ばれていたような気がしてならない。つまりオペラと歌舞伎は日独伊三国の国民的エネルギーの集約地であり、それは植民地に向けて国民的エネルギーを放出していった国民と大きなギャップを生んだのだ。(略)オペラと歌舞伎、それは普通の芸術ではない。人間が考えうる限りの美の道楽の極地なのであり、国民的エネルギーの巨大な消費地なのである。一民族のエネルギーが“美の享楽”に注がれた時に生まれたもの、それがオペラと歌舞伎>なのである−−と、少々引用が長くなったが、永竹氏は続けている。
その詳しい中味は、快著『オペラと歌舞伎』を読んでもらうことにして……。
この連載を読み、プッチーニ、ヴェルディと親しみ、イタリア・オペラを愛するようになり、オペレッタやミュージカルといったちょっとした横道に遊ぶことも覚えた読者の皆さんは、当然のことながら、とうとうドイツ・オペラの深遠な森の中へと足を踏み入れることになる−−。
といっても、何も難しいことはない。たしかに「ドイ・オペ」は「イタ・オペ」よりも理屈っぽい。が、オペラに変わりはない。そして、オペラと(歌舞伎)は<道楽芸能であり、遊びであり、完全に娯楽番組なのだ。オペラも歌舞伎も、ものを飲み食いしながら役者見物をするという大衆の非常に俗っぽい道楽が磨きに磨かれて美の極致に至っているのであり、それは目と耳の最高の贅沢なのである。だからギリシャ悲劇や能を観て、人生を考える人はあっても、オペラや歌舞伎を見物して人生を考え込む人は少ない>と、永竹氏も書いている(前掲書より)。
ドイ・オペの音楽は、イタ・オペに較べて、たしかに少々堅苦しく、端正で、構造的で、早い話がキマジメである。それだけに、テノールやソプラノが、♪アアアアアア〜と声を張りあげても、「ヤッター!」と思ったり、「ブラーヴォ!」と叫びたくなるような解放感はない。が、それだけにドイ・オペは、しみじみと胸に染み入るともいえる。
その代表的な作品には、ベートーヴェンの『フィデリオ』、ウェーバーの『魔弾の射手』、ワーグナーの『さまよえるオランダ人』『タンホイザー』『ローエングリン』『ニーベルンクの指環』『ニュルンベルクの名歌手』『トリスタンとイゾルデ』『パルジファル』、リヒャルト・シュトラウスの『サロメ』『エレクトラ』『ばらの騎士』『アラベラ』『影のない女』『カプリッチョ』……などがある。
ザルツブルクに生まれたモーツァルトも、『後宮からの逃走』『魔笛』などのドイツ語のオペラを残しているが、『フィガロの結婚』『ドン・ジョヴァンニ』『コジ・ファン・トゥッテ』といったイタリア語のオペラもある彼の作品を、「ドイツもの」としてくくるにはあまりに存在が大きいので、「モーツァルト」という特別なジャンルでとりあげるほうが適切に思える。
また『オルフェオとエウリディーチェ』などの作品でオペラの大改革を行ったグルック(1714〜87)は、オーストリアの作曲家ではあるが、当時、オペラといえばイタリアのもの(イタリア語で歌われるもの)という常識があったため、彼の作品は、ドイ・オペ成立のきっかけを作ったとはいえても、イタ・オペのジャンルに分類できる。
そして、今世紀の新ウィーン楽派のシェーンベルクが『期待』というモノドラマ(登場人物が一人のオペラ)を残し、ベルクが『ヴォツェック』『ルル』というすばらしいドイツ語のオペラを残しているが、それらは、ツィンマーマンの『軍人たち』やワイルの『三文オペラ』などとともに、「ドイツ・オペラ」と言うよりは、現代音楽を用いた「現代オペラ」と呼ぶほうが適切だろう。
こうして見ると、純然たる「ドイツ・オペラ」と呼びうる代表作が、以外と少ないことに気づく。
ロッシーニ、ドニゼッティ、ベッリーニ、ヴェルディ、プッチーニ、レオンカヴァッロ、マスカーニ、チレーア、ジョルダーノ、カタラーニ……とオペラ作家をあげることのできる「イタ・オペ」に較べて、前記「ドイ・オペ」の代表作としてとりあげた作家は、わずか4人。メルヘン・オペラ『ヘンゼルとグレーテル』を残したフンパーディンクや、オペレッタ作家のヨハン・シュトラウス、レハール、などを加えないと、イタ・オペに(量的に)対抗できない。
バッハやブラームスがオペラを書き、シューベルトが、彼の書いた歌曲ほど有名になるオペラを残していれば、ドイ・オペも、もっと豊かなものになったのだろう。シューベルトは、生涯オペラを8作品残したが、少し価値を認められているのは『アルフォンゾとエストレッラ』くらいなもので、筆者もよく知らない。従って、今日さかんに上演されるドイツ語のオペラの作品は、意外と少ないのである。
これは、ひとつには、ヒットラーの率いるドイツ第三帝国のまったくナンセンスな文化政策の結果といえる。
じつは、ワーグナーがすばらしい作品を残したあと、ドイツには、その影響を受けた(あるいは反発した)作曲家たちが大勢出現し、ドイ・オペ界は黄金時代を迎えた。イタ・オペ界が、ワーグナーと同い年のヴェルディという大天才を生んだあと、先に書いたようにプッチーニをはじめとするオペラ作家を大量に輩出したように、ドイ・オペ界にも、リヒャルト・シュトラウスや新ウィーン楽派の作曲家だけでなく、才能あるオペラ作家が数多く出現し、すばらしい作品を数多く残したのだ。
シュレーカー(1878〜1934/『烙印を押された人々』)、ブラウンフェルス(1882〜1954/『鳥たち』)、シュールホフ(1894〜1942/『炎』)、コルンゴルト(1897〜1957/『死の都市』『ヘリアーネの奇蹟』)、ウルマン(1898〜1944/『アトランティスの皇帝』)、クシェネク(1900〜91/『ジョニーは演奏する』)、ゴルトシュミット(1903〜1996/『堂々たるコキュ』)……。
ところが彼らは、ユダヤ人であるというだけの理由から、作品が「頽廃している」としてナチス・ドイツの弾圧を受け、作品が上演されなくなったり、亡命を余儀なくされるなどしたのだ。
そして、ワーグナーの音楽をこよなく愛したヒットラーの独裁下では(ノンポリの無意識から)ナチス政権に協力したリヒャルト・シュトラウスのオペラだけが生き延びたといっていい状態になったのである(ほかにナチス党員のプフィッツナー=1859〜1949/『パレストリーナ』が代表作も評価されたが)。
ヒットラーのドイツ第三帝国が、領土拡張に走った結果、オペラがなおざりにされた……というわけだろうか。それともワーグナー一人いれば、オペラ作曲家は十分と考えたヒトラーにドイツ国民が賛成したというワケか……。
それに対してイタリアは、オペラをないがしろにしなかったため三国同盟のなかで一番早く連合国に降伏した−−といえるのか? それはともかく、最近、前記のシュレーカーをはじめとするユダヤの作曲家たちの「消え去ったオペラ」が、「頽廃音楽シリーズ」としてCD化され、発売されたが、これがなかなかおもしろい。現代音楽的な要素もあるが、新ウィーン楽派の音楽のように、無調音楽に走ったりせず、美しいメロディ、心に染み入るドイ・オペならではの魅力にあふれている。将来的には、それらの作品の上演される機会が増え、ドイ・オペのレパートリーも、イタ・オペ並みに増えるかもしれない。
が、いまのところは、ドイ・オペの世界に浸るには、ベートーヴェン、ウェーバー、ワーグナー、リヒャルト・シュトラウスの作品で満足するほかない。
もっとも、いま、文章の行き掛かり上、「満足するほかない」などと書いたが、それは正しい表現ではない。ワーグナーだけでも、あるいは、リヒャルト・シュトラウス一人だけでも、一生飽きずに聴き続け、人生を豊かに満足に感じるほど素晴らしい作品が、山ほどあるのは事実なのだ。
そこでドイ・オペ入門として、まずオススメしたいのは、ワーグナーなら『ニーベルンクの指環』、R・シュトラウスなら『ばらの騎士』である。
もしも、オペラ初心者であるあなたが、若い男性か女性なら、あるいは壮年の男性なら『指環』がいいだろう。が、もしも、あなたが、20歳代後半より上で成熟期を迎えつつある女性か、成熟した女性であるなら、あるいは40歳代後半以降の人生のゴールを意識し始めた男性なら、『ばらの騎士』から入るのがいいと思う。
そうすれば、壮年の男性は『ニーベルンクの指環』の気宇壮大な物語に酔いしれることだろうし、成熟を意識し始めた女性や成熟した女性は『ばらの騎士』の侯爵夫人の悲しみあふれる儚さに涙するに違いない。そうして、誰もが、イタ・オペとはひと味もふた味も違う、胸に染み入るドイ・オペの魅力に引き込まれることだろう。
ということで、オペラ入門を語るときは、どうしても聴き手または見物人の年齢、性別、人生経験…等によって、事情が異なってくる。だから、「オペラ入門者は、まずはドニゼッティの『愛の妙薬』といった易しいオペラから……」などと安易に書いてある入門書や評論家の言葉は、まず信じないほうがいい。何度も書いていることだが、そもそもオペラに、易しいも、難しいもないのである。
そこでドイ・オペ入門の最後に、本来なら『指環』と『ばら』の両方の魅力を書かねばならないのだが、そんなことは不可能なので、今回は『指環』を紹介し、『ばら』は次回にまわすことにする。
ひょっとして、少しばかりドイ・オペやワーグナーをカジッテおられる方のなかには、「オペラ初心者が『指環』から入るのはヘビーだよ」と思っている人がいるかもしれない。
たしかに『指環』は、合計上演時間が十四時間前後もかかる超大作である(実際の上演には四夜を要し、歌手のコンディションを整えるために中一日の休みを取るため合計一週間の時間が必要となる)。これは、CDを聴くだけでも大変な作業だ。が、入門者には、面白さが最優先するはずだ。
ワーグナーには、合唱が大迫力の『さまよえるオランダ人』や、勇壮なメロディの大行進曲がある『タンホイザー』、超有名な結婚行進曲をはじめ旋律の美しい『ローエングリン』など、通常「ワーグナー入門」とされる作品がいくつかある。が、主人公の英雄が清純な乙女の自己犠牲(自死)によって救済される…という、それらの作品に通底するテーマが、はっきりいっていかにも古い(『オランダ人』だけは、すべての出来事が精神病の女性が見た夢で、自己犠牲も彼女の錯乱からの自殺に過ぎないとする、きわめて現代的なハリー・クプファーの演出によるLDが発売されており、これは現代のオペラ入門者には必見といえる)。
『指環』も、英雄ジークフリートの妻となったブリュンヒルデという女性の「自己犠牲」で幕を閉じる。が、そこにいたるまでに、ライン河に潜む黄金から作られた1個の指環−−それを持つものが世界を征服するという指環−−をめぐり、天上の神々と地上の英雄たち(人間)と地下の小人族(ニーベルンク族)が相争う物語は、壮大無比。ジョージ・ルーカスの映画『スター・ウォーズ』以上の迫力と面白さに満ち、ハリウッド超娯楽大作『タイタニック』など足下にも及ばない超豪華絢爛絵巻といえる。
主要な登場人物だけでも三十人を超す物語は、数々の陰謀と戦いのなかで、愛と憎しみ、献身と裏切り、野望と挫折…といった人間の心のドラマを描きながら、最後の最後にライン河が大氾濫を起こし、すべての出来事が「無」に帰して終わる。
それは、未来の核戦争の世界を先取りするようなテーマであり、じっさいクプファーの演出したバイロイト祝祭劇場のLDでは、この作品が現代核戦争の暗喩としてとらえ直されている。またニコラス・レーンホフの演出したバイエル歌劇場のLDでは、物語が巨大な宇宙船のなかで進行するという『スター・ウォーズ』もどきのSFチックな解釈がされている。
そんな「新解釈演出」の端緒となったのがパトリス・シェロー演出のバイロイト祝祭劇場のLDで、これは産業革命直後の世界が舞台となり、機械化する人間界のなかでの神々の死−−を通して、近代社会/現代社会のあり方を問い直すというコンセプトが貫かれている(これは、入門者にはうってつけのハイライト版のLDも発売されている)。おまけに、様々な解釈が可能な作品であるだけに、まったくオーソドックスな(古めかしい)オットー・シェンクの演出を見ても、自分なりの自由な解釈を楽しむことができる。
いやはや、冒頭で少々横道にそれすぎたこともあって、超大作楽劇『ニーベルンクの指環』の魅力の紹介が中途半端になってしまった。そこで、次回も『指環』を少しばかりとりあげ、それから『ばらの騎士』の魅力に迫ることにしたい。
などといっても、本当は、あらゆる解説など無視して、『指環』の音楽と舞台、『指環』の世界にどっぷり浸かっていただければ、それでいいんですけどね……。 |