イタリア人は、まだイタリア人をやってるじゃないか・・・。そんなふうに感じたのは、何年か前、ボローニャ歌劇場の来日公演で、『カヴァレリア・ルスティカーナ』の間奏曲を聴いたときのことだった。マッシモ・デベルナールの指揮によるたっぷりと遅いテンポで、ヴァイオリンがすすり泣くような美しい美しいメロディを奏でる。それは、アリオがたっぷりと効いたペペロンチーノの味わいだった。
最近は、こういう演奏を聴けなくなった。とりわけ録音では、グローバル・マーケットを意識するためか「国際的」な演奏が増え、プンプンと匂うがごときイタリア臭を発散させたる演奏が影を潜めている。
アッバード、ムーティ、シャイーは、トスカニーニの末裔ではあっても、サッバータ、ヴォットー、レッシーニョ、ファブリティス、セラフィン、エレーデ、ガヴァッツェーニの子孫ではない。
いや、そんな言い方をすると、トスカニーニに失礼だ。ベートーヴェン、ブラームス、ワーグナーの世界で、ひとつの「グローバル・スタンダード」をつくりあげたトスカニーニも、『椿姫』『ラ・ボエーム』の世界では、主役の歌手以上の大声で歌いまくりながら指揮をし、イタリアンならではの流麗なカンタービレを朗々と聴かせてる録音を残してくれている。
最近の指揮者では、パッパーノが好きで、『ラ・ボエーム』やプッチーニの『三部作』では、ちょいとばかりイタリア風味の味付けが効いた演奏を楽しませてくれたが、残念ながら「プンプンと匂うがごとき・・・」とまでは至っていない。
いや、録音だけではない。先に書いた『カヴァレリア』も、間奏曲こそ「お見事!」と唸らせられたが、舞台に登場したホセ・クーラなんぞ、歌うべきところで演技を優先し、朗々たるトランペットのようなベル・カントを張りあげてくれなかった(知性を売り物にするなんぞ、イタリア・オペラの世界ではサイテーである。しかも、最近発売されたアリア集なんぞ、単なるポピュラー・ヒット・ソング集のような歌い方ではないか!)。
イタリア・オペラとは、ハッタリの世界である。外面の世界である。重要なのは輝く太陽と地中海の青い色合いであり、ダンディズムであり、内面の世界など、関係ない。
思い切りハッタリをかまして外見だけに固執するなかから、人間の愚かさ、男女関係の切なさ、人生の虚しさ、人間社会の恐ろしさ等々が自然に立ちあがってくる。それがイタリア・オペラの世界であり、イタリアの風味であり、イタリアの素晴らしさ、面白さであるはずだ(と、私は確信している)。
なのに、イタリア風味を掻き消し、誰の舌にもすぐに賞味できるグローバルな味わいを優先させて、どうする? 臭いからといってアリオの量を減らして、どうする? グラッパを水で割って飲んで、どうする? エスプレッソをアメリカンにして、どうする?
こういう時代になってしまうと、「コテコテ・イタリアン大好き関西人」としては、昔の録音を聴く以外に手はない。
さいわい、最近は廉価版オペラの再発売CDで、デル・モナコやバスティアニーニの「コテコテ・イタリアン」を大量に楽しむことができるようになった。最近聴いたなかでは、アントニーノ・ヴォットーが指揮し、ジャンニ・ポッジがロドルフォ、レナータ・スコットがミミを歌う『ラ・ボエーム』は最高だった。これぞ、アモーレ! カンターレ! マンジャーレ!(恋して、歌って、食べて)のイタリアの世界。
ティト・ゴッビのマルチェッロの声と歌い方が、まるでイヤーゴのようで、立派すぎて、怖すぎて、若い絵描きに聴こえないって? それくらい、御愛敬。ゴッビは、そもそもイヤーゴなんだから。イヤーゴが、ハッタリかましてマルチェッロを歌ってると思えば頬笑ましいもんです。
イタリアの(国際的には)無名の指揮者や歌手も、ゴッビを見習って、もっともっと自分勝手にヤッタリーナ! ガンバリーナ! そして、くだらない「グローバル・スタンダード」なんぞ、ぶっとばせ! |