北欧神話を題材にし、ワーグナー自らが台本も書き、作曲もした超大作『ニーベルンクの指環』は、序夜『ラインの黄金』第一夜『ワルキューレ』第二夜『ジークフリート』第三夜『神々の黄昏』の四部に分かれている。そのなかで最も完成度の高い作品は、『ワルキューレ』(全三幕)で、とりわけ第三幕の最後のシーンは、古今東西のあらゆるオペラのなかの最高傑作ともいえる感動的なシーン、感動的な音楽を味わうことができる。
その最高傑作シーンを説明するために、全体の筋書きを説明しておこう。
神々の長であるヴォータンは、巨人族(ファーフナーとファーゾルト)に命じてワルハラの城を建設させる。そのために、あらゆる財宝を与える約束をするが、巨人族は、「ラインの黄金で作った指環も与えろ、そうでないと、青春の女神フライアを奪う」と、ヴォータンを脅す。
ラインの黄金で作った指環とは、地下の王国(ニーベルハイム)に住む小人族のアルベリヒが、ラインの乙女たち(ウォークリンデ、ヴェルグンデ、フロースヒルデ)が守っていたライン川の黄金を奪い取り、弟のミーメに命じて作らせた指環で、それを手にする者が世界を支配する、といわれている指環だった。
ヴォータンは、その指環の存在を知ると、是が非でも手に入れたくなり、狡猾な火の神ローゲの悪知恵を利用して、アルベリヒを騙し、指環を手に入れる。ヴォータンは、その指環だけは手放したくなかったが、青春の女神フライアを奪われると、神々は、彼女の育てる不老不死のリンゴを食べることができなくなり、神々は滅亡する。
そこで仕方なく、ヴォータンは指環を巨人族に与える。するとその瞬間、巨人族の兄弟の間で指環の奪い合いが起き、弟のファーフナーは兄のファーゾルトを叩き殺す。それは、ヴォータンがアルベリヒから指環を奪ったときに、アルベリヒが「その指環を手にする者は災いに遭遇する」という呪いをかけた結果だった。
ヴォータンをはじめとする神々は、新しく建設されたワルハラの城に入城する。が、世界を支配する指環を失った結果、衰退の危機に見舞われる(ここまでが、序夜『ラインの黄金』)
ヴォータンは、神々の危機を救う英雄の出現を期待して、人間の女性との間に多くの子供を作る。そのなかの一人ジークムントは、ヴォータンの期待通り、強い英雄として成長し、地上で戦いの日々を送る。が、ある日、戦いで傷つき、敵の武将フンディンクの家に迷い込む。フンディンクは、翌日に決闘することを条件に、一夜の宿泊を許す。が、その夜、ジークムントはフンディンクの妻となっていた双子の妹ジークリンデと再会し、二人は結ばれる。そしてジークムントは、ヴォータンが神々を救う英雄のために用意した最強の剣ノートゥンクを、トネリコの大木から引き抜いて手に入れる。
一夜あけて、ジークムントとフンディンクは決闘する。その様子を天上界から見ていたヴォータンは、当然ジークムントを勝たせようとする。が、ヴォータンの正妻であり、結婚を司る女神のフリッカは、ヴォータンの「浮気」を詰ったうえ、兄妹でありながら結ばれたジークムントとジークリンデを非難し、ヴォータンに対して、フンディンクを勝たせるよう迫る。
ヴォータンは仕方なく正妻の意見に従うことを約束し、自分の娘である「戦いの乙女」たち(ワルキューレ=地上の戦いで亡くなった兵士を天上界に運び、神々を守る戦士として復活させる乙女たち)のなかで最も愛しているブリュンヒルデに向かって、フンディンクを勝たせ、ジークムントを負けさせるよう命ずる。
ところが父ヴォータンの心の奥の真の気持ちを悟ったブリュンヒルデは、英雄ジークムントに勝利を与える。しかし、その命令に反した態度に怒ったヴォータンは、自ら与えた剣ノートゥンクを叩き割ったうえ、ジークムントを殺す。
それでもブリュンヒルデは、なおも父ヴォータンの命令に逆らい(真意に従い)、ジークムントとの子供(真の英雄ジークフリート)を宿した妹ジークリンデにノートゥンクの破片を渡したうえ、彼女を逃がしてやる−−。
さて、ここからが、冒頭に記した、古今東西のあらゆるオペラのなかで、最も感動的ともいえる場面のはじまりである。 命令に背いた娘に対して、怒り心頭に発したヴォータンは、娘のブリュンヒルデを捕らえ、罰を与えようとする。
その罰とは、娘を地上の山の頂きで眠らせ、最初に発見した男のものにする、というものだった。が、ブリュンヒルデは、父に向かって最後の懇願をする。「罰は受けます。でも、私を弱い男のものにしないでください。私の眠るまわりを、真っ赤な炎で覆い尽くしてください。私は、その炎のカーテンを飛び越えてくる英雄のものになりたいのです!」
その言葉に心を動かされたヴォータンは、娘を山の頂に眠らせると火の神ローゲを呼び寄せ、山全体を炎で覆い尽くさせる。そして、神々の長である槍を高々と掲げ、叫ぶ。
「この槍の先を恐れるものは、この炎を飛び越えてはならぬ!」そのときオーケストラは、朗々と英雄ジークフリートのテーマを演奏する(炎を飛び越えてくるのが、ジークフリートであることを暗示するのだ!)。
そして『ワルキューレ』の幕が閉じる……というわけだが、この場面は、じっさい何度見ても(聴いても)、じつに感動的で、胸のふるえる思いがする。
複雑な筋書きや、多種多様な登場人物、それに、ワーグナーの哲学だの、ニーチェの永劫回帰の思想だの、神々の表すメタファーだの……といったものは、関係ない。フル・オーケストラが♪ジャジャジャジャーン……と鳴り響くと、自然に目頭が熱くなる。
ある日、この場面をレーザーディスクで見ているときに、高校2年と中学3年の娘が学校から帰ってきた。そこで、わたしは「ちょっと、この場面を見てみろ。最高なんだから」といって、並んでソファに座らせた。二人の娘は、興味深そうにテレビ画面に目を凝らし、音楽に耳を傾けた。そして、オーケストラが♪ジャジャジャ〜ン……と素晴らしい音楽を鳴り響かせ、舞台の左右から走り寄った父と娘が、しっかと抱き合ったとき、我が二人の娘は、声をそろえて叫んだ。
「クッサー!。これ、クサすぎるよ。恥ずかしくなるほどクサイじゃ〜ん」
わたしは、思わず、笑い転げた。
そうなのだ。ワーグナーは「クサイ」のだ! 恥ずかしくなるほど「クサイ」のだ! 「クサすぎる」ほど凄いのだ! 考えてみれば、ヴェルディもプッチーニも「クサイ」。マスカーニもレオンカヴァッロも、いや、ベートーヴェンやウェーバーだって「クサイ」。そもそもオペラとは「クサイ」ものなのだ。「クサイ芝居」がオペラなのだ。
「うれしい」といえばいい場面で、「♪ああああ〜うっれしいいいいい〜……」と朗々たる声を張りあげる。さらにオーケストラが、♪ジャジャジャ〜ンと喜びの音楽を鳴り響かせる。これが、クサクならないわけがない。それを「クサイ」といわずに「感動」だの「高い完成度」だの「ワーグナーの哲学」だのというのは、先入観に毒されている大人の言葉だ。「オペラとは高尚なものである」「ワーグナーは最高の芸術家である」といった先入観があるから、素直に「クサイ」といえないのだ。
歌舞伎の見得が「クサイ」のと同じように、オペラの名場面も「クサイ」。バレリーナのポーズが「クサイ」ように、オペラのアリアも「クサイ」。美空ひばりも都はるみも三波春夫も「クサイ」。どれも非日常的な表現を誇張した結果であり、それは当然の結果といえるのだ。しかもワーグナーの『ニーベルンクの指環』は神々や英雄の話なのだ。クサクならないわけがない。
オペラは新劇とは違うのだ。そのかわり、「クサイ」おかげで、オペラは(歌舞伎もバレエも、ひばりもはるみも春夫も)何度でもくり返し味わうことができる。同じ歌手(役者やダンサー)による同じ演し物を、何度でもくり返し見たり聴いたりすることができる。見事なまでに「クサイ」演技や音楽に、陶酔することができる。クソ・リアリズムには、そんな楽しみはない。
おまけに、そういう「クサイ」なかに、現実社会のリアリティが含まれている。 先に書いた『ニーベルンクの指環』の粗筋を読まれて、読者がどう感じられたかはわからないが、結婚の女神フリッカが、夫ヴォータンの浮気(不貞)を詰る場面など、どこの家庭の妻と夫にも存在する話である。ヴォータンが娘のブリュンヒルデと別れる場面も、<娘を嫁に出す父親の別れの場面>(新潮オペラCDブック特別版『ニーベルンクの指環』の永竹由幸氏の解説より)といえる。
オペラに限らず、クラシック音楽、小説、絵画、演劇、映画……等々、芸術作品といえるものに触れるとき、われわれ日本人はともすれば「高尚な理屈」を振り回す傾向がある。ゲーテの思想、ピカソの技巧、シェークスピアの人生観……等々。しかし、それらの基本になっているのは、人間の日常生活であり、要するに恋であり愛であり、不信であり裏切りであり憎悪であり、日常生活での喜怒哀楽なのだ。
わたしの娘たちは「クッサー!」といってワーグナーの作品を笑い飛ばしたが、その「クサイ」作品を笑い飛ばして終わるか、そこから心に深い感動を得るかは、日常生活(人生経験)の厚みの問題であり、けっして学問的知識の問題ではない。ニーチェの思想に通じるワーグナーのニヒリズム……などといってばかりいては、妻に詰られる夫の気持ちや、<娘を嫁に出す父親の別れ>の感情など理解できない。ということは、ワーグナーの作品を深く味わうことができない。
ゲーテやピカソやシェークスピアも同じ。胃の痛むような失恋を知らない学者に「ウェルテルの悩み」や「ロミオの一目ぼれ」など理解できるはずもなく、女性の身体に触れていない童貞男にピカソの描く女体の魅力に興奮できるわけもない。逆にいうなら、あらゆる芸術作品に、学問的知識など、いっさい不要なのだ。そうでなければ、ワーグナーのオペラも、ゲーテやピカソやシェークスピアの作品も、今日まで、これほど多くの人々に愛され、楽しまれ、味わわれるわけがない。
もちろん、ある程度の学問的知識がないと、楽しめないような芸術作品も存在する。たとえばワーグナーのオペラなら『タンホイザー』や『パリジファル』は、キリスト教に関する知識がないよりも、あったほうが取っ付きやすい(キリスト教というのは、多くの日本人にとって「日常」ではないですからね)。『ニーベルンクの指環』も、北欧神話やゲルマン民族の意識を知っているほうが、知らないよりも親しみやすいだろう。が、だからといって、それらを予備知識として勉強する必要など、毛頭ない。
そんなことをしなくても、日常生活の喜怒哀楽、自分の人生経験をもとに作品を楽しめば、逆に、オペラからキリスト教の知識やゲルマン民族の意識を学ぶことができる。オペラとは、学問的教養や複雑多岐な知識を、音楽という直感的手段を用いて大衆的にわかりやすくしたものともいえるのだ。だから、北欧神話を読んだり、ゲルマン民族の歴史書を読むよりも、ワーグナーの『ニーベルンクの指環』に接するほうが、北欧神話・ゲルマン民族の意識が理解しやすい。
同様に、ロシアの歴史書を読むよりも、ムソルグスキーのオペラ『ボリス・ゴドゥノフ』や『ホヴァンシチーナ』を見るほうが、ロシア人の意識やソビエト崩壊の理由がよく理解できる。シェイクスピアの『オセロ』よりもヴェルディの『オテロ』、ゲーテの『ファウスト』よりもグノーの『ファウスト』やボイートの『メフィストフェーレ』のほうが、よほどわかりやすい。そもそもオペラとは、そういうものなのだ。
そういう「日常意識」(とくに女性の感覚)で、深く味わうことができる(大きな感動を得ることができる)のが、リヒャルト・シュトラウスのオペラである(『ニーベルンクの指環』の『ジークフリート』と『神々の黄昏』の粗筋は、この連載を単行本化するときは、書かせていただきますが、今回は誌面の都合で割愛させていただきます)。
シュトラウスの数多いオペラのなかでも、とくに『ばらの騎士』は、「30歳を過ぎて容姿の衰えを意識しはじめた女性」「結婚後、夫の愛情の冷めたことを嘆いている女性」「結婚していながら若い男性と失楽園に陥っている女性」「失楽園は実行できないでいるが、あこがれを抱いている女性」……そして「好きな男性に別の女性(年上の女性)がいることを感じている若い女性」や「ベルサイユのばらを愛読する女性」「ハーレクイン・ロマンスを愛読する女性」……さらに、「同性愛に興味のある女性」など……早い話が、すべての女性が、深く納得できる筋書きである。
しかも音楽に素晴らしく美しい優雅なウインナ・ワルツが用いられており、あらゆる女性が、あふれる涙とともに、深い陶酔感に浸れるオペラであり、「寂しく、痛々しく涙する女性」や「その涙を気丈にこらえる女性」の好きな男性(つまり、すべての男性)も、深く感動できるオペラである。
では、『ばらの騎士』の粗筋を書いておこう。
夫の愛情を得られない侯爵夫人(マルシャリン)は、若い伯爵オクタヴィアン(女性のメゾ・ソプラノ歌手が演じる)と、この日も不倫をくり返している。が、自分の容姿の衰えを嘆くと同時に、いつの日か若いオクタヴィアンにも若い恋人ができ、その女性と恋に落ち、結ばれ、自分のもとを去ることを予感している。
そんなところへ、中年助平男のオックス男爵が現れる。侯爵夫人は、オクタヴィアンを女装させ(男性役の女性歌手の女装)、マリアンデルと名づけて不倫の現場を隠すが、オックスは、彼女(彼)にチョッカイを出しながら、近々裕福な商家の女性と結婚することになったので、結納の「ばら」を届ける騎士を紹介してくれるよう、侯爵夫人に依頼する。侯爵夫人は、オクタヴィアンにその役割を命じる。
侯爵夫人の命令で、商家の豪邸へ「ばら」を届けに行ったオクタヴィアンは、一目でオックスの結婚相手である若い女性(ゾフィー)と恋に落ちる。オックスの結婚は財産が目当て。ゾフィーは豪商である父親が貴族と親戚関係を結ぶことが目的。そこでオクタヴィアンはオックスとゾフィーの「政略結婚」を破滅させる計画を立て、実行する。
オクタヴィアンは再びマリアンデルに化けてオックスを誘惑し、オックスの本性を露にしたうえで、仲間たち(ヴァルザッキという名前のパパラッチのような人物と、彼の手配した連中)と示し合わせて騒動を起こし、ゾフィーとの結婚を破談にしようとする。が、騒動が大きくなりすぎたところで侯爵夫人が登場。
オックスは、オクタヴィアンがマリアンデルと同一人物であることに気づき、侯爵夫人の寝室に入り込んでいた不倫相手であることにも気づく。が、侯爵夫人はオックスの「邪推」を退けて出て行かせ、さらに、オクタヴィアンとゾフィーの結婚も認める。
自分が愛していた「若い燕」が去って行く前で、毅然たる態度で若い二人を祝福する侯爵夫人(それは、初演時には、滅び行くハプスプルグ家の象徴といわれた)。侯爵夫人の態度に戸惑いながらも、ゾフィーに心を奪われるオクタヴィアン。ゾフィーは、侯爵夫人とオクタヴィアンのただならぬ関係を察知しながらも、オクタヴィアンとの将来に喜びを感じる。この三人の縺れた感情を、見事に美しく表現した終幕の三重唱は、オペラという総合芸術のひとつの偉大な頂点を示すもの、といえるほどの高い完成度と、圧倒的な迫力にあふれている。
いや、「頂点」だの「完成度」だのといった言葉は必要ない。
あらゆる女性は(そして男性も)、侯爵夫人の気高い姿を見て、「女の一生」というものの悲しさ、儚さ、それゆえの美しさ、耐える女性の高貴さ……というものに感動するに違いない。
こうなると、もう、オペラの作品がどうのこうの、などという言葉も必要でなくなる。そこに存在するのは、まぎれもない「女性の姿」である。「侯爵夫人」「伯爵」「男爵」「豪商の箱入り娘」といった(われわれ現代の日本人にとっては)きわめてリアリティに欠けるシチュエーションの夢物語でありながら、さらに、けっこう「クサイ」物語と演技、それに、ワーグナー以上に大規模で、「クサイ」ほどに美しい音楽でありながら、目の前に、真の女性の姿が出現するのである。
いや、そのように大仰な(ともいえる)舞台と音楽であればこそ、女(人間)の本質が描き出すことができる……というべきだろう。
オペラに、リアリティなど必要ない。そんなものを、求めてはならない。オペラは、ノン・フィクションではない。そんなちっぽけなものではない。音楽という抽象芸術が重要な役割を果たすオペラは、そもそもリアルな現実をそのまま表現することなどできないのだ。オペラは、言葉では表すことのできないもっと壮大なものが表現されているのだ。
それは、外見は神話であったり、王侯貴族の生活であったりする。が、内面では、そんな外見よりも、もっと広大な人間の内部(心)が表されているのだ。
リヒャルト・シュトラウスは、恐ろしいほどに燃え盛る女の情念(『サロメ』『エレクトラ』)や、広く豊かな女の愛(『ばらの騎士』『アラベラ』)や、深く慈愛に満ちた女の感情(『影のない女』)など、さまざまな「女心」をオペラで描き出した。
そして最後に、『カプリッチョ』(奇想曲)という作品のなかで、詩人と音楽家という二人の男性に愛され、どちらの男性を取るかで悩む「女性の心」を描いた。それは、オペラという作品において、言葉(詩人)と音楽(音楽家)のどっちが重要か、というテーマをとりあげた作品でもあった。が、女性が素晴らしい二人の男性を理屈で選択できないのと同様、そのテーマに結論など出るわけがない。
オペラは、高度な哲学や難解な思想を表現するものではない。オペラは、人間の「心」を構成している音楽(感性)と言葉(理性)という二つの相反する手段を巧みに総合するなかで、この世の中で最も身近にありながら、最も複雑で理解しがたいわたしたち人間の「心」という存在を、表現しているのである。
すべてのオペラのテーマは、我々人間の誰もが有している「心」なのだ。だから、オペラを楽しめない人、オペラを理解できない人など、この世の中に存在しないはずなのである。それでも、それを理解できないと言う人は、恋する心や愛する心がかけているのかも……? |