歌は世に連れ、世は歌に連れ。 誰がいったのか知らないが、そんな言葉がある。
たしかにそのとおりだと思うと同時に、いや、そうではないのでは・・・という気もする。
そんなことを感じたのは、何年か前に(いや、十何年か前だったか)『ザ・ピーナッツのさよなら・コンサート』のLPを聴いたときのことだった。
『恋のフーガ』『恋のバカンス』『ローマの雨』『月影のナポリ』・・・など、ザ・ピーナッツが名曲の数々を歌い終えると、そのとき司会を務めていた高橋圭三が登場し、次のような台詞を口にした(そのLPレコードを紛失してしまったので、正確ではないが)。
「このままお別れするのは、名残惜しい。ここで、お二人にもう一度ステージに戻っていただき、もう一曲だけ、歌を×××させていただいても、よろしいでしょうか」
その瞬間、満員のNHKホールに拍手が湧き起こり、ザ・ピーナッツが再登場してアンコールに『情熱の花』を歌った・・・のだが、先の「×××」にあたる言葉(漢字で3文字)を、わかる人がいるだろうか?
わたしは、その言葉を聞いたとき、一瞬ギョッとして、「そうか・・・。1975年には、まだそんな古い言葉が生きていたのだ・・・」と思ったものだった。
正解は、「御所望」(ごしょもう)である。
ザ・ピーナッツの歌は、まったく古びていない。リズムも、サウンドも、いま、宇多田ヒカルがうたってもヒット間違いなしと思えるほどに新鮮である。が、宇多田ヒカルが出演したTV番組やコンサートで、司会者が「もう一曲御所望・・・」なとといえば、どうなるだろう? いや、どうにもならない。若い視聴者や聴衆は、何をいわれたのやら、さっぱりわからないだろう。
音楽は、古くならない。が、言葉は、古くなる。歌は世に連れ、世は歌に連れて、たしかに変わる。が、ひょっとして、変わっているのは言葉だけで、音楽は変わっていないのではないか、と思えるのである。
そういえば、LP時代のわたしの愛聴盤のなかに、『赤木圭一郎映画音楽全集』という2枚組のアルバムがあった。そのなかの『霧笛が俺を呼んでいる』には、音楽がはじまる前に映画の台詞が収録されていた。
「長かったお付き合いだけど、これで、おわかれだね」
赤木圭一郎がそういうと、港の霧笛がボーッと鳴る。しばらく重苦しい沈黙が流れたあと、芦川いづみが、小さな声で、「さようなら」という。
そして、赤木圭一郎が、
「××××××」
と、別れの言葉を口にしたところで、ジャジャ〜ンと前奏が流れ、『霧笛が俺を呼んでいる』の歌がはじまる――のだが、さて(べつにクイズをつくっている気はないのだが)、このとき赤木圭一郎が口にした「××××××」とは、いったい、どんな台詞だったのか?
正解は、「ごきげんよう」である。
ヤクザな若者のキザな台詞ですら、昔はきわめて丁寧な言葉遣いだったのだ。
この「ごきげんよう」という言葉は、なかなかに新鮮で、一度チャンスがあったら使ってみたいと思うくらいだが、いわれた女性は目を丸くするだろう。
そういえば、赤木圭一郎の『野郎、泣くねえ!』という歌には(このタイトル自体、相当に古臭さを感じるものだが)、「さびしい」という気持ちを強調する形容詞として、「××××さびしい」という表現が使われていた。
正解は、平仮名で4文字。もちろん「とっても寂しい」などというありきたりのものではない。「めっぽうさびしい」というのである。漢字で書くと、「滅法」。かなり強烈な言葉で、これまた新鮮な感じがするほどに、いまでは死語となってしまった言葉である。
ザ・ピーナッツの歌にしろ、赤木圭一郎の歌にしろ、メロディは、けっして古くない。というより、そもそも、音楽のメロディに「古い/新しい」などという区別はありえない。
ベートーヴェンの『運命』の♪ジャジャジャジャ〜ン・・・というメロディを「古い」などとはいえないだろう。
リズムには少々「古さ」を感じるが、それはテンポの遅さの問題であり、頭のなかで早まわしをして想像すれば、2拍子でも3拍子でも4拍子でも、今も昔も変わらない。
アフター・ビートや8ビートや16ビート、それに、ルンバ、サンバ、ボサノバ、チャチャチャ、サルサ・・・といったリズムも、はじめて聴いたときは耳新しさを感じるが、そのうち耳慣れてしまう。そして時が経って「古さ」を感じるのは、けっしてリズムのせいではなく、サウンド(響き)のせいである。
サウンドだけは「古さ」を感じる。それは、楽器のせいである。エレキ・ギターの出現と、シンセサイザーの発達は、音楽の響きを根底から変えてしまった。だから、それらが活用されている現代の音楽と、活用されていない過去の音楽では、はっきりと「時代の差」すなわち「古さ/新しさ」を感じてしまう。
1970年代までは、シンセサイザーがあまり発達していなかった。「電気の音」はせいぜいエレキ・ギターだけで、弦楽器やドラムの音までもシンセサイザーで創ることはなかった。
だから、ザ・ピーナッツの『可愛い花』や『大阪の女』や『ふりむかないで』、それに、たとえば太田裕美の『木綿のハンカチーフ』などでは、伴奏にオーケストラのヴァイオリン合奏が使われている。そのアコースティックな響きは、録音時にどれだけ電気処理を施してもやはり柔らかで、ラルク・アン・シエルや宇多田ヒカルのサウンドとは明らかに異なっている。
その違いは、ディズニー映画の『ピノキオ』や『わんわん物語』と、『ヘラクレス』や『ライオン・キング』の違いと同じようなものである。または、『スター・ウォーズ』の過去の作品(エピソードW〜Y)と『エピソードT』との違いのようなものである。
物語にはとくに違いは存在しないが、雰囲気が違う。セル画を一枚一枚描いて色づけしたり、模型を作ってそれを撮影した作品と、色づけや立体処理のすべてをコンピューターで創った作品の違いである。
善し悪し、好き嫌いの問題はさておき(といっても、「古い」もののほうが「素晴らしい」ことは、改めていうまでもないように思えるのだが)、歌が世に連れて「変わる」というのは、所詮は、言葉が古臭く(死語に)なってしまうことと、サウンドの変化、つまり楽器の変化でしかないのだ。
歌は、変わらない。音楽に「古さ/新しさ」などない。ただ、「いい歌」と「さほど良くない歌」の区別があるだけなのだ。
そのことが、はっきりとわかるアルバム(CD)がある。
それは、藍川由美さんというクラシックの歌曲をうたっている歌手の『日本の童謡』『日本の歌謡』『古関裕而歌曲集』『中山晋平歌曲集』といったアルバムである。藍川由美さんという歌手は、作曲家の残した楽譜にきわめて忠実に、歌をうたう。さらに日本のメロディや日本語というものに対して、完璧な発声と発音で歌をうたう。
そうしてうたわれた歌は、『赤とんぼ』『かもめの水兵さん』『犬のおまわりさん』『月光仮面の歌』『ゲゲゲの鬼太郎』といった「子供を対象として作られた歌」でも、『東京行進曲』『港が見える丘』『月がとっても青いから』『南国土佐を後にして』といった広く巷に流れた歌でも、さらに『露営の歌』『愛国の花』『若鷲の歌』『英国太平洋艦隊壊滅』といった軍歌でも、過多な感情や余計な時代背景などがいっさい排除され、「歌そのもの」というべきものになっている。
藍川由美さんのうたう歌は、怖ろしいほどに完璧で、半音の高さの違い、付点のついた音の長さの違い、さらにコブシまでが、数学的といっていいほどに正確に歌いきられる。
その歌を聴いた後は、心の底から「いい歌だなあ・・・」「歌って、本当にいいなあ・・・」という感想を抱くことができる。
歌は、世に連れて変わるようなものではないのだ。いや、ひょっとして、世の中も、昔も今も、さほど変わっていないのかもしれない。いや、変わったものよりも、変わっていないもののほうが大事、ということなのだろう。 |