少々手前味噌で恐縮だが、何年か前に『クラシック道場入門』『オペラ道場入門』という音楽の本を2冊上梓したとき、何人かの友人や編集者から次のような言葉をかけられた。
「おまえとまったく同姓同名の音楽評論家が現れたぞ……」
私は苦笑するほかなく、そのまま誤解させておくのも楽しいか、とも思ったが、やはり何やら居心地が悪く、「あの音楽評論家は俺だ」と種明かしをすると、相手はさらに驚いたものだった。
最近でもテレビやラジオに出演した折りなど、私が音楽の話を始めると、一緒にスタジオにいた出演者が目を丸くすることがある。それは、私のことを「スポーツライター」だと思っているからだろう。
もちろんそれは間違いではない。が、もしも私が「作家」や「エッセイスト」といった肩書きを使っていたなら、クラシック音楽やオペラの話を始めたところで、誰も驚かないに違いない。スポーツとクラシック音楽やオペラ(あるいは芸術)は「一致しない」という先入観が存在しているのだ。
その原因は明らかで、スポーツは肉体派で少々荒々しい「益荒男(ますらお)ぶり」。一方、クラシック音楽は、審美的、耽美的な「手弱女(たおやめ)ぶり」。両者は、まったく正反対の対極にあるもの、といったイメージができあがっているのだ。
しかも中学高校大学での課外活動が、「運動部」と「文化部」に分けられているのも、無意識のうちに両者が二律背反……とまではいわなくても、異なるジャンルのものというイメージが植え付けられる一因になっている。
しかし、それは、まったく大きな誤解である。
古代ギリシアのオリンポスの祭典(古代オリンピック)では、音楽(竪琴や詩歌の朗唱)も正式種目になったことがあり、その様子を後世に残すため、画家や彫刻家は観客席で腕をふるった。要するに、オリンポスの神々を讃えるのが芸術であり、その神々の肉体的強さや美しさに近づこうとするのが競技(スポーツ)であり、両者は、文化として同じ根っこを持つ兄弟のような関係だったのだ。
その伝統を引き継ぎ、現在行われている近代オリンピックでも、かつては芸術競技(作曲、演奏、絵画、建築設計等)が正式競技として実施されて金銀銅のメダルが授与されていた。そして、それらが競い合うものではないと判断され、1948年のロンドン大会を最後に正式競技でなくなったあとも、オリンピック期間中は、開催都市で様々な芸術祭を行うことが、オリンピック憲章によって義務づけられている。
これは何も西洋だけの話ではない。相撲に相撲甚句や触れ太鼓があるように、一種の「ハレの時空間」となる競技会(スポーツ・イベント)には、それを盛りあげるうえでも、音楽(芸術芸能)が必ず伴うものなのだ。
ならばスポーツライターが音楽ライターを兼ねるのは、まったく不思議なことでなく、逆にスポーツライターなら音楽の知識を持ち合わせていないといけない、ともいえる。
昨年の冬季オリンピックで、荒川静香さんはトリノの観客を大興奮の渦に巻き込み、見事に金メダルを獲得した。そのとき用いられた楽曲はプッチーニ作曲のオペラ『トゥーランドット』。この大会では、開会式にテノール歌手のルチアーノ・パヴァロッティが登場し、そのオペラのアリア『誰も寝てはならぬ』を熱唱した。
荒川さんがその曲を用いたことは、たとえてみれば長野大会でヨーロッパの選手が『川の流れのように』を使うようなもので、観客の心をつかむ(審査員の採点のイメージをよくする)ためには最適の選曲といえたのだ。
しかも『トゥーランドット』はイタリア・オペラだが、舞台は東洋(北京)で、氷のような冷たい心の持ち主である姫君が、やがて王子の愛によって心を開く……というストーリーであり、ほとんどのイタリア人は常識としてそのストーリーを知っている。ならば、荒川さんのルックス、そして表情の変化が、イタリアの観衆の心を鷲掴みにし、魅了したのも当然といえるだろう。
そんな事情を理解するには、もちろんオペラ『トゥーランドット』をある程度知っていなければならない。が、そこでまた誤解に基づくハードルが出現する。
それは、オペラ(やクラシック音楽)に対して、難しいもの、高級なもの、近寄りがたいもの、という先入観が存在することだ。はっきりいって、それはまったくの誤解であり、私は、世の中にオペラほど面白いものはない、と確信している。
ストーリーは、ほとんどすべてが男と女の惚れたはれたの話であり(だから子供には理解できない)、三角関係、四角関係、百人切り、純愛、熱愛、略奪愛、不倫、よろめき、近親相姦、サドマゾ……と、あらゆる愛情物語(愛憎物語)が展開される。
そんなストーリーが、美しく激しく、音楽によってさらに盛りあげられているのがオペラで、オペラを好きになればリタイアしたあとの人生にも絶対に飽きることがない、と断言できる。
少々オペラの話に力が入りすぎたが荒川さんの金メダルと、真央ちゃん、美姫ちゃん、高橋クン、織田クンたちのハイレベルな活躍のおかげで、スポーツとオペラ(クラシック音楽)の距離が、ぐぐっと縮まった。
じっさい昨年は、荒川静香さん、スピードスケートの岡崎朋美さん、レスリングの吉田沙保理さんのトークショウを名古屋でプロデュースさせていただいたが、「前座」として二期会合唱団にスポーツと関係の深いオペラの合唱曲(『トゥーランドット』やサッカーの応援で使われる『アイーダ』等々)を歌ってもらい、大いに盛りあがった。
これまでにも、世界的な指揮者の佐渡裕さんと、サッカーの岡田武史さん、ラグビーの平尾誠二さん、阪神タイガースの赤星憲広さんらとの対談やトークショウを実現したが、フィギュアスケート世界選手権の東京大会で、さらにスポーツと音楽の融合(馬鹿な先入観の解消)は進んだに違いない。
ワーグナーのオペラ『タンホイザー』のアリア『夕星の歌』を原語(ドイツ語)で歌える江本孟紀さんや、『オレ流クラシック』と題したCDアルバムの選曲構成を担当したドラゴンズの落合監督などにも、もっともっと音楽を語ってほしいものだ。
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