わたしはカラオケが大嫌いだ。といっても、別段深い理由があるわけではない。酒の席では歌うよりも話すほうが好きなだけだ。それに歌は、上手い人がうたうのを聴くのが好きで、下手な人がうたうのは聴きたくない。だから下手な歌を聴かせたくもない、という思いもある。
とはいえ、うたうこと自体は嫌いではなく、というより大いに好きで、夕食の酒が少々度を超したあとなど、娘にピアノを弾かせてモーツァルトやヴェルディのオペラのアリアをうたったりしている。そんなときは10曲程度では終わらない。カンツォーネ、ミュージカル、歌謡曲まで、娘に小遣いの増額を約束して付き合わせる。
じつは、カラオケを避けているのも、マイクを手放せなくなる自分が怖いからかもしれない。じっさい、子供たちにせがまれて一度だけカラオケ・ボックスへ家族で行ったときには、『ファンキー・モンキー・ベイビー』『マイ・ウェイ』『浪花恋しぐれ』『女の十字路』『中之島ブルース』・・・と、マイクを独占しつづけた。
中学生や高校生の子供が相手では酒も進まず、家族にはどれだけ迷惑をかけてもいいと判断した結果である。
だから、この体験の結果カラオケにハマルということもなく、友人との酒席はいつもカラオケのない場所で酒を飲みながら、最近のスポーツや音楽や小説に関する談論を風発させている。
ところが最近、大学時代の旧友と再会し、カラオケのある飲み屋に連れて行かれてしまった。しかも彼らは、大のカラオケ・ファンらしく、次からつぎへとマイクを握って自慢のレパートリーをうたいだす。
マイッタナァ・・・と思っていると、案の定「おまえも、一曲うたえ!」と、マイクがまわってきた。
「音楽評論なんぞを書いてるヤツのうたう歌が、どれほどのものか、おれが判断してやる!」
などと悪友がわめき、ヤンヤの喝采が湧いたものだから(別に、意地を張ることもないのだろうが)、こっちもメラメラと対抗心を燃え立たせた。
こういうときは、イタリア語のアカペラでオペラのアリアを一発うたえば、こっちが少々下手でも貴奴らの度肝を抜くことができるにちがいない――とも思ったが、もっと巧いアイデアが思いついたので、バーのママに向かって「じゃあ、この曲を」と、分厚いカラオケ・リストのページを開いて指さした。
「何をうたうんだ?」と、悪友どもが訊くので、「ヴァケーション。ヴイ・エー・スィー・エー・ティ・アイ・オー・エン(VACATION)」と答えると、「おお、なっつかしいなあ・・・!」と再びヤンヤの喝采。
そこで、わたしがうたいだしたところが、悪友どもの誰もが、目を丸くしてカタマッてしまった。彼らは、てっきり弘田三枝子の(またはコニー・フランシスの)『ヴァケーション』がうたわれるものと思ったのだが、わたしがうたったのは、PUFFYの吉村由美がうたっている『V・A・C・A・T・I・O・N』だったのだ。
♪いますぐ、どこかへ行きたいな・・・格安チケット手に入れて・・・バッグに水着とTシャツつめこんで・・・こんなに幸せばかり続くのも、ちやほやされるのも、若いのも、今のうち・・・まとめて休みをとりましょう・・・V(ヴイ)A(エー)C(スィー)A(エー)T(ティ)I(アイ)O(オー)N(エン)・・・
それまで、悪友どものうたっていた曲が『銀座の恋の物語』『爪』『ベッドでタバコを吸わないで』『川の流れのように』といった「中年オジサマ族カラオケ定番」ばかりだったので、バーの雰囲気は一変した。
誰も、この歌を知らなかった。PUFFYも知らない、という悪友までいたので、それなら・・・とばかりに『サーキットの狼』と『渚にまつわるエトセトラ』もうたって聴かせた。
「どれも、いい歌だろ」といっても、誰も反応が鈍かったので、「新曲の『海へ』は、まだうたえないけど『アジアの純真』も『これが私の生きる道』も面白い音楽だから、聴かせようか」というと、「いや、いや。もう十分」と苦笑いしながらいわれて、続けてマイクをとろうとする悪友もいなくなり、わたしの「復讐」は成就したのだった。
40代後半のサラリーマン諸氏にとって、PUFFYのリズムとサウンドは、そうとうに五月蠅く、せわしなく、耳障りなものだったようだ(♪日焼けの似合うお年頃・・・という歌詞を、腹の突き出た中年男が踊りながらうたうのがキショイと思われたこともあっただろうが・・・)。
とはいえ、PUFFYのうたっている歌は、「中年」にとって、さほど「断絶」を感じる音楽ではないはずだ。
リズムは、ツイストやモンキーダンスにぴったりのオールド・ファッション・ロックンロール。サウンドはビートルズやビーチボーイズの亜流(エピゴーネン)。メロディもビートルズやオーティス・レディングのパクリがパロディックに顔を出す。
つまり、我々中年世代の青春時代に流行した音楽そのまま、ちょっと姿を変えただけなのだ。
♪いかしたエレキのリズムが聴こえたら、スイムで踊りましょ・・・などという歌詞は、70年代に橋幸夫や美空ひばりが慌てて流行に乗り遅れないようにうたったような「古い」歌のようにも思える。
そんな「古さ」のなかで、鮮やかにワザと音をはずしたり、言語崩壊のような意味不明の言葉が突出したりしているのが斬新で、そのうえPUFFYのいかにもぶっきらぼうにうたい飛ばしたところが過去にはなく("Oh Yeah!"という言葉も、かつてのロックンローラーたちのように力むことなく、控えめに、だらけている)、そこがPUFFYの現代的面白さといえる。
が、PUFFYの何より素晴らしいところは、どの歌にも、明るさにあふれていることだ。
かつて、ザ・ピーナッツに『ふりむかないで』という歌があった。その歌詞は、「いま、靴下を直しているところだから振り向かないで」「いま、スカートを直しているところだから振り向かないで」というちょっと思わせぶりな歌詞のあとに、「これから二人でデートなの。ふたりで語るのロマンスを。振り向かないで、いつも前向き、腕組んで、二人で幸せつかまえましょう・・・」といった具合に続く。
それは、いかにも高度経済成長時代の若者の前向きの歌であり、PUFFYの歌には、そこまでの建設的な明るさはない。が、「近ごろ私達は、いい感じ」であり「誰かが不安だったら助けてあげられなくはない」と(宮沢賢治よりも)謙虚に、適度に建設的で、「格安チケット探して」海外旅行に行き、「こんなに幸せばかりつづくのも、いまのうち」と、衣食の足りた現状に満足している。未来に夢はないが、「若いのも、いまのうち」と素直に居直り、そんな自分を「まあ、いいか」と肯定する。
どう考えても、「明るい未来」を描きようのない現在の日本社会にあって、これは、かつてのザ・ピーナッツ(あるいはコニー・フランシス)と肩を並べる十分な「明るさ」といえよう。
もちろん、多くの楽曲は奥田民生や井上陽水らが作詞作曲したわけで、「中年男性」の現状分析とマーケティングから生まれたものといえる。が、むしろ、PUFFYという素晴らしい素材を得て「中年男性」が甦った、というべきほどに、若い彼女たちの歌い方は、素直な達観と力まない活力に満ちている。
わたしは、この素敵に明るい歌の数々を、娘に教えられ、気に入り、自分でも口ずさむようになるほど好きになった。ひょっとして、デフレ不況のまっただなかにいる同輩のサラリーマン諸氏は、この明るさが気に入らなかったのかもしれない。が、そんなつまらないことはない。
♪焦ってエンストこかないで・・・♪笑って、笑って、笑って・・・
と、PUFFYもうたっているではないか!それが現代人の「生きる道」とも思える。歳を重ねるとついつい、最近の若い者は・・・といいたくもなるが、最近の若い者は、なかなかのものですよ。 |