「ザ・バアアアアンド!The Baaaaaaaa-nd ! 」
音楽映画の最高傑作『ブルース・ブラザース』のなかで、ジョン・ベルーシは、そう叫んだ。
刑務所から出て、子供の頃に過ごした孤児院を訪れたところが、固定資産税の未払いで、その孤児院が閉鎖の危機を迎えていた。それを何とか助けようと思ったベルーシは、ある日訪れた教会で神の啓示を得て、「ザ・バアアアンド! The Baaaaaaa-nd!」と叫び、「ブルース・ブラザース・バンド」の再結成を決意する。そして、コンサートのアガリで孤児院を助けようとするのだ。
山下洋輔の場合は、刑務所とも孤児院とも無縁ではある。が、やはりベルーシと同じように、ある時とつぜん「啓示」を得て、「そうや! バンドなんやぁ!」と叫んだに違いない(関西弁ではなかったとは思うが)。
そう叫んだのがいつのことか、私は知らない。知りたいとも思わない(謎は、解かずに考え続けるほうがオモシロイ)。
アメリカで武者修行中にジャズ・クラブに飛び込み、金網デスマッチ級のフリー・ジャズ・セッションを何度か繰り返したあと、ミシシッピ川の支流の穏やかな川の流れを見つめながら、「そうや! バンドなんやぁ!」と叫んだのかもしれない。
あるいは、ドイツでソロ・コンサートを何度か繰り返したあと、ハンブルクの港で冷たく暗い海を見つめながら日本の焼酎の味を思い出したとき、「そうなんや! やっぱりバンドやでぇ!」と確信したのかもしれない。
はたまた、自作のピアノ・コンチェルトを初演し終わったあと、「オーケストラもオモロかったけど、やっぱりバンドやなぁ」と思ったのかもしれない(独白が関西弁になってしまうのは、カギカッコを付けると自然にそうなってしまう筆者の性癖ということで御勘弁ねがいたい)。
ともかく、「バンド」とは、そんなふうにヒラメクものであると、私は映画『ブルース・ブラザース』を見て以来、確信している。
とりわけ山下洋輔のように、独りでピアノと格闘したり、そのピアノをねじ伏せ、手なずけ、みずからの武器にして、ベーシストやドラマーに対して決闘を挑み続けるようなミュージシャンは、ある時、ふと、「やっぱり、バンドやぁ!」と叫ぶときがあるに違いない。
さらに、クラシック音楽の領域の指揮者やオーケストラにまで殴り込みをかけるピアニストならば、なおさら、ときに「バンド」を求める欲求が、心の奥底から沸きあがるに違いない。
「バンド」とは「帯」のことである。連なり結びついたもののことである。かつて楽隊も、連なった帯のように並んで行進しながら合奏したところから、「(ブラス)バンド」と呼ばれるようになった。
ピアノを武器に独りで闘うミュージシャンは、孤高を求めるがゆえに、孤独である。そうでなければ、ミュージシャンとはいえない。アーティストとはいえない。いや、人間とはいえないだろう。より充実した生を求めれば求めるほど、人は孤独に陥らざるを得ない。
はるか昔に、「連帯を求めて孤立を怖れず」という言葉が流行したことがあった。
なんと甘ったれた言葉だろう!
それをいうなら「孤立を求めて連帯を怖れず」と、逆にいうべきだった。孤独な闘いに疲れたあるとき、ときに「連帯」を結ぶのも、なかなかにいいものである。
ソロ(孤独)を求めて、バンド(連帯)を怖れず。いやあ、バンドもいいものだなあ・・・と、つくづく思えるアルバムですなあ、このCDは。
まさに、“Field of grooves”!
“groove”とは、ジャズ用語では「素敵な演奏」のことだが、野球用語では「ど真ん中の直球」という意味になる。
“groove”(ど真ん中の直球)の連続する“Field”(野球場)――それは、「孤高」(ソロ)を求めるプロフェッショナル(メジャー・リーガー)にのみ可能な本物の「チームプレイ」(連帯=バンド)の世界といえるだろう。 |