先日、あるテレビ番組を見て、少々驚いたことがあった。それは、いろんな国籍の外国人が大勢出演し、日本について語るという番組だった。わたしが見たときは、パンクだのロリコンだの入れ墨だのボディ・ピアスだのと、少々奇抜なファッションに身を包んだ日本人の若者たちが登場し、それに対して外国籍のひとたちが意見をいう、というものだった。
「外面をいくら飾ってもダメ。内面を磨きなさい」
「あなたは何個ピアスをつけてるの? 量より質が大事だってこと、わからないの?」
「大切なのは、外見より中身なのよ。体よりも心なのよ」・・・
日本人のコメンテイターも、同じようなことを口にした。
外面より内面。量より質。体より心――。洋の東西を問わず、それが「真理」とされているようである。しかし・・・。
本当にそうだろうか?
もちろんわたしも、両親や教師からそのような教育を受けて育った。が、その「真理」に対して最初に疑問を抱いたのは、小学生の頃に長嶋茂雄という存在を知ったときのことだった。
長嶋茂雄はカッコよかった。ホームランやヒットを打ったときだけでなく、空振りをしたときも、簡単な内野ゴロを捕って投げるときも、走るときも、スライディングのときも、いや、ただ立っているだけでもカッコよかった。彼の外見は他の選手とは比較できないほど際立っていた。
しかも、彼には、内面がなかった。そうとしか思えなかった。
川上哲治は座禅を組み、王貞治は真剣で藁を切り、野村克也や張本勲は一本のホームランを打つ苦労話を語った。が、長嶋茂雄はそんな内面を見せることなく、飄々とヒットを打ち、ホームランを打った。そればかりか、三振や併殺打も多かった。が、それでもカッコよく、ファンの喝采を浴びた。
長嶋茂雄という人物においては、あきらかに「外見」が「内面」を凌駕していたのである。
ところが、長嶋の成績は、常に王貞治や野村克也や張本勲よりも劣っていた。ホームランの数でもヒットの数でも、長嶋はさほど優れた成績を残さなかった。それでも長嶋がスゴイと思えたのは、どういうことか?
王貞治の55ホーマーよりも、長嶋茂雄の一本のヒットに心をふるわせられる。ということは、これこそ、「量より質」というべきものではないのか?
ここで、頭はこんがらがった。
「外見」と「量」、「内面」と「質」という組み合わせならストレートに理解できるが、「外見」が「質」と結びつくのは、容易に理解できることではなかった。
そんな疑問が氷解する――とまではいかなくても、ある程度納得できるようになったのは、20歳をすぎてオペラを大好きになったときのことである。
オペラ歌手は、大声を張りあげる。横隔膜を下げて全身に吸い込んだ息で声帯をふるわせる。その響きは、口腔だけでなく、頭蓋にまで当たって響きを増し、吐き出される。これは、明らかに「質」を磨くことではなく、「量」への挑戦にほかならない。
また、テノールやソプラノの歌手は、ハイC(高いド)だのハイF(高いファ)の音を出すことに挑戦し、バス歌手は限りなく低い声に挑戦する。
歌が人間の喜怒哀楽を表現するものなら、そのような挑戦は「質」的には意味のないもので、「外面」を飾り、人を驚かせるだけのものといえる。
が、オペラ歌手はそのような「量」と「外見」が豊かでないと、一流になれない。いくら歌が巧くても、大きな声、高い(低い)声が出せないと聴く人の心を感動させることができない。
それは、マイクやスピーカーを使えばいいという問題ではない。「量」は「質」に転換するのである。「外見」は「中身」に、「外面」は「内面」に転じるのである。
プロ野球選手(プロ・スポーツマン)もオペラ歌手も、身体を使って何かを表現するという意味で同種の行為であり、長嶋茂雄も一流のオペラ歌手と同じように「量」の「質」への転換、「外見」の「中身」への変換を行っていたにちがいない。
ピアニストやヴァイオリニストにも同じことがいえる。
大きな音が出せる演奏家を、それだけで素晴らしいとはいうことはできないが、大きな音を出せないと話にならない。大きな音はそれだけで迫力があるうえ、小さな音を美しく引き立たてもする。音に「心を込める」ことも大切なのだろうが、音の「量」をバカにしてはいけないのだ。
そういうことを確信したのは2年前(1997年)の春、名古屋ドームのこけら落とし公演にルチアーノ・パヴァロッティが来日し、彼のリハーサルを間近で聴いたときのことだった。
オーケストラが勢揃いするといっぱいになる程度の空間で、彼は、思い切り声を張りあげた。それは驚くべき巨大な音量だった。パヴァロッティの声は、オーケストラの音を突き抜け、周囲の空気をすべて声の振動で満たした。その空気の波に全身が包まれたとき、わたしは涙が出そうになるくらい感激した(F1グランプリでフェラーリのエンジン音を間近に聴いたときも、同じような感激を体験した)。
このようなオペラ歌手の素晴らしさは、CD等の電気を通した録音では、なかなか味わえるものではない。が、さいわいなことに、彼は毎年一度『パヴァロッティ・アンド・フレンズ』というシリーズで様々なポピュラー歌手やロック歌手と共演し、そのライヴ録音を残してくれている。
過去には、スティング、ブライアン・アダムス、エリック・クラプトン、エルトン・ジョン、ライザ・ミネリ等と共演した(それらのライヴの録音と映像は、いまも発売されている)。
昨年(1999年)も、マライア・キャリー、グロリア・エステファン、リッキー・マーチン、ジョー・コッカー、B・B・キングなど、いまをときめくポップス・シンガーやブルースの王様らと共演し、そのビデオとCDが発売された。
超一流のポピュラー歌手やロック歌手は、パヴァロッティが相手でも、さすがに一歩も引けを取らない見事な歌や演奏を披露している。が、マイクとスピーカーを使うことを前提としているミュージシャンには、「質」や「内面」に転換するほどの巨大な「量」や「外見」が存在しない。
エレキ・ギターの音量がどれだけ大きくても、それは人間自身が創り出した「量」ではないのだ。
さすがに64歳になった今年のパヴァロッティは、声にかなりの衰えを見せている。が、それでも、「質」だけではなく「量」を追求し続けるミュージシャンとしての凄味を示している。
クラプトンやエルトン・ジョンが好きなロック・ファンは、こういう録音があることを知らない人が多く、教えてあげると、誰もが、彼らのギターや歌以上に初めて聴くパヴァロッティの声の凄さに驚く。
「なんだかよくわからないけど、オペラ歌手ってスゴイね」
そこで、わたしは、こういう。
「質より量。内面でなく外見。心より体。そこにすべてが現れてるんだから、俺の百キロの体重を太りすぎなんていっちゃいけないんだよ・・・」 |