『ベートーヴェンの交響曲』(2007年11月・刊)、そして『ロマン派の交響曲「未完成」から「悲愴」まで』(2009年5月・刊)に続く「交響曲シリーズ第3弾」として、本書『マーラーの交響曲』を、お届けします。
この「シリーズ」は、音楽を聴くことが大好きで、音楽やオペラの歴史や作曲家のエピソードを知ることも大好きだけれど、楽譜は読めず、音楽理論にもほとんど無知で、楽器も弾くことのできない私(玉木)が、もっと音楽を楽しみたい、深く味わいたい、という気持ちから、そのきっかけを与えてくれるにふさわしい人物である指揮者(金聖響さん)にお願いし、お話を聞かせていただくことから生まれた3冊です。
じつは、『ベートーヴェンの交響曲』を出版した直後から、次は『マーラーの交響曲』について、聖響さんに話を聞いてみたい、と思っていました。というのは、私がクラシック音楽を聴きはじめ、ジャズや歌謡曲やポップスを楽しむ以上にのめり込むようになったきっかけに、レナード・バーンスタインという音楽家の存在があったからです。
今から半世紀近く前の1960年代、近所にあった禅寺(京都・大本山建仁寺)の広い境内で、毎日泥まみれになって草野球に明け暮れていた小学生の餓鬼は、突如、♪ジャジャジャジャ〜ン……と、鳴り響く音の凄さに魅了されました。それは、自宅が電器屋で視聴盤のレコードを聴くことのできる最新式のステレオ装置が常に店頭に並んでいたことや、その店で働いていた従業員のお兄さんが大のクラシック音楽ファンだったこと、それに音楽大学のピアノ科を卒業しながら中学の数学教師をしているというワーグナーが大好きな少々変わり種の叔父が存在したから……といった環境がととのっていたから(?)でもありました。
とはいえ、まだ小学生の餓鬼は困惑してしまいます。下町の商店街に暮らし、毎日草野球で暴れまくっているような餓鬼にとって、クラシック音楽というのは最も掛け離れた存在です。それどころか、「音楽が好き」などと口にしようものなら、草野球の餓鬼仲間から「クラシック?何を気取っとるねん!?」「そんなもんの何がオモロイねん!?」「シスターボーイになったんか!?」などと揶揄され、蔑まれ、馬鹿にされるのは火を見るよりも明らかでした。そこで、♪ジャジャジャジャ〜ン……に、雷に打たれたようなショッキングな感動を味わった餓鬼は、以来、そのことはできるかぎり口に出さず、まるで隠れキリシタンのように、クラシック音楽と向かい合ったのでした。
そんなときに出逢ったのが、レナード・バーンスタインでした。当時ニューヨーク・フィルハーモニックの指揮者だった彼は、大ヒットしたミュージカル映画『ウェスト・サイド物語』の作曲者でもあり、何よりも、その容貌がハリウッド・スターと見紛うばかりのカッコ良さでした。こんなカッコイイ人物がクラシック音楽の指揮をする……ということは、クラシック音楽が好き……と口に出して話しても、男としてカッコ悪いことと違う! そう確信することのできた餓鬼は、地獄で仏に出逢ったような心境で、胸を張ってクラシック音楽ファンを自称するようにもなり、中学、高校へ進むと、バーンスタインのレコードばかり買いあさるようになったのです。
それは、いま思い返しても素晴らしい出来事でした。バーンスタインという指揮者(さらに作曲家でもありピアニストでもあり、音楽の名解説者でもあり教育者でもある)の存在のおかげで、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ベルリオーズ、ブラームス、ドボルザーク、チャイコフスキー……といった、いわゆる定番クラシックの作品だけでなく、ラヴェル、ガーシュウィン、ストラヴィンスキー、ショスタコーヴィチ……、ニールセン、アイヴス、コープランド……等々、20世紀のクラシック音楽や、少々珍しい北欧やアメリカの作曲家の音楽まで、まったく自然に耳を傾けるようになりました。さらに、バーンスタイン自身の作曲した交響曲やミュージカルなどに加えて、ジャズやロックや歌謡曲や演歌など、特にジャンルなど気にせず音楽なら何でも聴くようになり、1966年からは彼がヨーロッパでも活躍するようになったおかげで、ヴェルディやリヒャルト・シュトラウスのオペラの大ファンにもなったのでした。
そんなふうに音楽を聴く喜びのレパートリーを広げていったなかで、最もショッキングだったのがグスタフ・マーラーの音楽でした。同じユダヤ人としてマーラーの交響曲の演奏に力を入れていたバーンスタインは、つぎつぎとマーラーの交響曲をレコード録音し、それらは日本でも次々と発売され、私も『第一番巨人』『第二番復活』『第三番』『第五番』『大地の歌』といった30LPレコードを買い求め、中学高校時代から耳を傾けるようになりました。
当時(60〜70年代、もちろんCDなど存在しない時代)、マーラーのレコードが発売されるのは非常に珍しいことで、バーンスタイン以外にはブルーノ・ワルターやオットー・クレンペラーなど、マーラーの直接の弟子といわれた巨匠の録音したレコードが、ちらりほらりとディスク・ショップに散見される程度でした。そんなときにバーンスタインに引きずられてマーラーの音楽に次つぎと耳を傾けた私は、まったく幸せなことにマーラーの音楽の大ファンになり、中学高校生のころから現在まで40年以上にわたってマーラーの交響曲を聴き続けることになったのです。
最近では、マーラーの交響曲は毎月のように新譜のCDが発売され、その数はベートーヴェンの交響曲を上回るほどです。また、コンサートで取りあげられる回数も格段に増え、マーラーの交響曲の演奏会は特別な出来事ではなくなりました。そして2010年はマーラー生誕150周年、翌2011年はマーラー没後100年の記念すべき年として、マーラーの音楽と彼の生涯がさらに注目を集め、金聖響さんも手兵の神奈川フィルハーモニー管弦楽団を率いて2年間にわたってマーラーの交響曲を次つぎと取りあげ、見事な演奏を聴かせてくれました。
まさにマーラー自身が、「いずれ私の時代が来る」と予言したとおり、いままさに「マーラーの時代」が到来したのです。そしてマーラーの音楽(交響曲)は、この先おそらくモーツァルトやベートーヴェンの音楽(交響曲)と同様に、世界中のすべての人々にとって欠かすことのできない音楽として、定着するにちがいありません。
そこで、これから金聖響さんに、『マーラーの交響曲』を存分に語っていただこうと思いますが……その前に、ひとつお断りしておいたほうがいい大きな出来事が起こりました。それは、ほかでもありません。東日本大震災のことです。
昨年(2010年)夏頃から月に一度くらいのペースで金聖響さんに話を聞き、今年(2011年)になってその話を私がまとめ始め、『交響曲第一番巨人』から『交響曲第五番』まで書き進んだとき(3月11日)、その大事件が起きました。それはちょうど聖響さんと神奈川フィルがマーラーの『交響曲第六番悲劇的』を横浜みなとみらいホールで指揮する前日のことでした(また、その日は聖響さんの友人であるダニエル・ハーディングさんが新日本フィルハーモニー管弦楽団を指揮して、墨田トリフォニーホールでマーラーの『交響曲第五番』を演奏する当日のことでもありました)。
大震災の影響で首都圏の交通機関も大混乱に陥り、私も聖響さんのコンサートには(ハーディングさんのコンサートにも)足を運ぶことができなくなったのですが、そんなこと以上に、こういう時代――世界的にも未来の見えない混迷の現代――であればこそ、まさに現代的な巨大で複雑なサウンドのなかに、苦悩、絶望、愛、救済、鎮魂、大いなる肯定……といったメッセージを織り込んだマーラーの交響曲は、他の様々な音楽以上に今後ますます多くの人々の心に響くようになる、と確信したのでした。
そんなマーラーの交響曲を金聖響さんに解説していただくその前に、先の『ベートーヴェンの交響曲』や『ロマン派の交響曲』と同様、今回も巻末に年表を付けておきました。マーラーの生まれ育った時代(1860〜1911)は、日本の歴史のうえでは幕末明治維新から日露戦争の終結、そして第一次世界大戦前の不気味な緊張が漂いはじめたころまで……と、ほぼ明治時代(1868〜1912)と合致しています。
また、マーラーが作曲家として(さらに超一流の指揮者として)大活躍した時期(30〜51歳の約20年間=1890〜1911)は、ちょうど19世紀最後の10年間と20世紀最初の10年間にまたがる時期で、科学技術の爆発的な進歩と世界経済が地球規模の驚異的拡大を見せる一方、西洋近代社会の矛盾が噴出し、ヨーロッパには世紀末的退廃の空気が漂い、人間とは何か? 人間社会とは何か? 人間の「生」とは何か? といったことが改めて問い直された時代でもありました。
それは、モーツァルトやベートーヴェンが音楽を創造したフランス革命とナポレオンの時代以来、右肩上がりに発展してきた近代ヨーロッパ社会のひとつの終着点ともいえる時代といえそうで……(申し訳ありませんが、この先は『マーラーの交響曲』をお求めになってお読みください)
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