往年のある名歌手が次のような言葉を残している。
「ハートで歌うという歌手がいる。それは、技術がないからだ」
これは厳しい言葉である。あらゆる歌は、歌う人の心から発せられ、それを聴く人の心の襞をふるわせるものに思える。少なくとも我々聴衆は、そのように感じる。
しかし、そこには、当然のことながら必ず技術が介在する。歌う人は技術を駆使し、聴く者は技術を忘れる。おそらく、そのような関係が、最も幸福な音楽の空間といえるのだろう。
大岩千穂さんは、ドラマチックな歌声と表現力の持ち主である。蝶々夫人が最後に自殺する場面でも、『ラ・ボエーム』でミミが最後に亡くなるシーンでも、彼女は、持ち前のダイナミックな歌唱で、聴衆をイタリア・オペラの悲劇の世界に巻き込んだ。
しかし千穂さんの歌声は、ただドラマチックなだけではない。オペラティックに張りあげられた声のなかにも、手弱女ともいうべき優しく繊細な響きが常に込められている。
それをも「技術」というべきか否か、ということは(我々聴衆にとって)まったく重要なことではない。とりわけ、このアルバムに選ばれた「優しい歌」の数々を聴くときは、ただ千穂さんの「歌心」に酔えばいいのだ。
このアルバムで、千穂さんは、スペインを出発してヨーロッパをぐるりとまわり、アメリカ、そしてアイルランドまで、我々を素晴らしい「歌心の旅」へと導いてくれる。
まずは、アルバムのタイトルにもなっている『恋のアランフェス』。スペインの作曲家ロドリーゴ(1901〜1999)のギター協奏曲(アランフェス協奏曲)第2楽章に歌詞がつけられ、ポルトガルのファドの女王といわれたアマリア・ロドリゲスがヒットさせた名曲。また、この美しいメロディは、ジャズ・ピアニストのチック・コリアも『スペイン』というタイトルでジャズの名曲に仕立てあげている。
エンリケ・グラナドス(1867〜1916)もスペインの作曲家で、全12曲からなるピアノ曲『スペイン舞曲集』は彼の代表作のひとつ。その第5番にスペインの詩人ロレンテが歌詞をつけた『アンダルーサ』は、アンダルシア地方の民謡といえるほどに親しまれている。
『我が母の教えたまいし歌』は、チェコの民族音楽に根ざした作曲家アントニン・ドヴォルザーク(1841〜1904)の歌曲。彼の素朴な曲想は多くの日本人にも愛され、『家路』(交響曲第9番「新世界より」第2楽章のメロディに歌詞をつけたもの)は、新世界(アメリカ)から故郷チェコの田舎の風景に思いを馳せるなかで生まれた大名曲といえる。
チェコのお隣、オーストリアのウィーンを歌った『ウィーンわが夢の町』は、ウィーンっ子たちがこよなく愛する歌で、作曲したルフォルフ・シーチンスキーは、ウィンナ・ワルツの原型といえるシュランメル音楽(ロマ=ジプシーの音楽の影響を受けたオーストリアの音楽)を数多く創作した作曲家。
歌の宝庫イタリアへ移って、まずはナポリターナ(ナポリ方言で歌われる民謡)から『君に告げよ』と『光さす窓辺』。ローマ帝国時代から港町として栄えたナポリは、世界中から様々な人々が集まった人種と文化の坩堝。そんなカオスのなかから生まれたナポリターナは、必然的に、世界中の人々の心を打つ音楽となった。
ジュゼッペ・ヴェルディと並ぶイタリア・オペラの大作曲家ジャコモ・プッチーニ(1858〜1924)は、生涯に12の素晴らしいオペラを残したが、『私のいとしいお父様』は、11番目のオペラ『ジャンニ・スキッキ』のなかで歌われるアリア。娘が父親(ジャンニ・スキッキ)に向かって、結婚の許しを得られないならフィレンツェの町を流れるアルノ河に身投げしてしまう、と切々と訴える。
『ある晴れた日に』は長崎を舞台にしたオペラ『蝶々夫人』の有名なアリア。海軍将校ピンカートンの妻となった蝶々さんが、アメリカへ帰った夫が、いつかある晴れた日に帰ってくるはず…と、切ない希望を歌に託す大名曲。
なるほどイタリア・オペラのメロディもも、ナポリ民謡の延長線上にあるものなのだ。
ピエトロ・マスカーニ(1863〜1945)の残した傑作オペラ『カヴァレリア・ルスティカーナ(田舎の武士道)』の間奏曲は、映画『ゴッド・ファーザーpart3』にも用いられ、最近はTVCMなどでもさかんに用いられている音楽。『アヴェ・マリア』は、その美しいメロディに、キリストの母マリアの祈祷文を少し変形させた詩(P・マッツォーニ)がつけられたもの。
千穂さんの「歌心の旅」は、大西洋を渡ってアメリカ大陸へ。
『エストレリータ』(スペイン語で「小さな星」)はメキシコの作曲家マヌエル・ポンセ(1886〜1948)の作曲した『メキシコ歌曲集』のなかの1曲。この素晴らしく美しいメロディは、トリオ・ロス・パンチョスがメキシコ民族音楽のパリアッチ風に歌いあげたり、ベニー・グッドマンがジャズにアレンジしたり、大ヴァイオリニストであるハイフェッツがヴァイオリン独奏曲に編曲するなどして、世界中に大ヒットした。
『慕情』は、香港を舞台にした従軍記者(ウィリアム・ホールデン)と女医(ジェニファー・ジョーンズ)の悲恋を描いたハリウッド映画の主題歌。このメロディが『蝶々夫人』のアリア『ある晴れた日に』にあまりに似ていることが少々問題にもされたが、あまりにも映画にマッチした美しい音楽に仕上がっているところから、アカデミー主題歌音楽賞を受賞した名曲。
ジョージ・ガーシュイン(1898〜1937)は、アメリカのミュージカル作曲家として次々とヒット曲を出し続けたが、そんな彼が『ラプソディ・イン・ブルー』でクラシック音楽とジャズの融合をめざし、続けてオペラと黒人音楽(ブルースやジャズ)を一体化させるべく、渾身の力を込めて作りあげた作品が『ポーぎーとベス』。そのなかで歌われる有名なアリア『サマー・タイム』は、クラシックとジャズの垣根を超越した名曲といえる。
『アメイジング・グレイス』(驚くべき恵み)をポピュラー音楽だと思ってる人もいるかもしれないが、じつはキリスト教の賛美歌(聖歌)。作詞をしたジョン・ニュートンは18世紀の奴隷商人。荒くれ男でもあった彼は、ある航海で大嵐に遭い、必死に神に祈って助かったところから敬虔なクリスチャンになり、この詩――「私のようなならず者でさえ、神は救ってくださる……」を書いたという。
そして最後にアイルランド民謡の『ダニー・ボーイ』。いや、この歌は、もはやアイルランド民謡という以上に、世界中の人々にとっての「心のふるさとの歌」といえるほどの名曲。
こうして千穂さんの歌声とともに、歌の世界をたどって地球を半周してみると、ほんとうに「歌っていいものだな」としかいいようがないほど、安らいだ気持ちになる。そして、いろいろな国の歌のさまざまな個性を味わいながらも、つまるところ歌というものは、どれも同じなんだな、という思いが湧いてくる。
歌とは、やっぱり心なんだな、と。
そんな思いに導いてくれた大岩千穂さんに、心からの拍手を! ブラーヴァ!
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