「ガラス磨き」に没頭したことがある。
べつに、たいしたことではない。大学を中退して仕事もなく、食えなくなったときにビルの窓ガラス拭きのアルバイトをしただけのことだ。が、毎日力をこめてガラスを磨きつづけるうちに、その面白さに取り憑かれた。
ガラスというのは磨けば磨くほど透明度を増す。いちど、ある会社のビルのドアにあった大きな一枚ガラスを徹底的に磨きあげたところが、そそっかしい社員がつぎつぎと顔面をぶつけた。ガラスは磨けば磨くほど美しくなるのではなく、その実態を失ってゆくのである。ところが、朝日や夕日のような強い光が当たると、ガラスはきらきらと輝いてその透明な姿を顕す。あるいは薄暗がりに仄(ほの)かな蝋燭(ろうそく)のような光が当たる場合も、透きとおる鏡としてその存在をあきらかにする。そんなとき、磨き抜いたガラスの澄明な輝きはには息をのむほどの美しさがある。
しかもガラスは、どれほど磨いても透明度に異なる部分が生じる。不均質なうねりがガラスの内部に存在し、それが透過する光の一部を柔らかくねじる。光のねじれは見る角度によって揺らぎ、逆に透明なガラス自体に内在する錯綜したうねりの構造をあきらかにする。その微妙なうねりは、いつまで見ていても飽きないくらいの豊かさを孕(はら)んでいる。ある部分では正確な図象を描き、べつの部分ではある法則に則ったような連続した流れとなり、さらに寸断されたうねりの塊(かたまり)が無原則に点在していたり、不連続なうねりが無限の法則を象(かたど)っているように見えたり・・・・・・。
結晶体では、こうはいかない。
ダイヤモンドは磨けば磨くほど美しさを増す。ガラスのようには透明にならず、ダイヤモンドという実体を強く主張する。結晶体は、カットし、形を整えることによって輝きを千変万化させるが、直線的な光や色の変化には、うねりも、歪みも、存在しない。均質に整然とならんだ原子の存在をあきらかにするだけで、いくら見つづけても、その物質自体の新たな発見は期待できない。たしかに美しさは比類ないものにちがいない。が、結晶体は希少価値という一点において破格の評価を獲得しているだけで、ガラスの織りなす複雑なおもしろさには足下にもおよばない。
しかも、どんな金属よりも硬く傷つかず壊れにくい構造を持つダイヤモンドのような結晶体とは正反対に、ガラスは、硬いのに、脆(もろ)い。みずからの存在を消すほど透明でありながら、あるときは美しく輝く。微妙にうねり、歪(ゆが)み、簡単に溶け、形を変え、光を曲げるだけでなく、すべての光(映像)を反射して映し出すこともある。人間を殺傷するほどの硬さをもつのに、ほんのわずかな力で粉々に砕け散る。そして磨けば磨くほど、その複雑な実体を顕(あらわ)にする・・・・・・。
そんなことを考えながら毎日「ガラス磨き」に没頭していたある日、屋上から吊したゴンドラに乗って一緒に作業をしていたプロ“プロのガラス磨き”の作業員を見て、思わず吹き出しそうになったことがあった。
濡れ雑巾でゴミを落とし、手持ちのワイパーで水を拭(ぬぐ)いとり、洗剤をスプレーして布拭(ぬのぶ)きし、最後の仕上げに鹿の革の端切(はぎ)れでこする。そんな一連の作業を、いつもてきぱきとこなしていた中年の作業員が、どうしても拭き取れない曇りでも発見したのか、同じ場所を何度も鹿革でこすりはじめた。その様子がおかしかった。
目を見開き、透明のガラスに鼻が触れるほど顔を近づけ、右手に持った鹿革を上下左右に動かしている。ただそれだけのことだったが、一心不乱になってガラスの曇りをとろうとしていたためか、見開かれた目は瞬(まばた)きひとつすることなく、口は無意識のうちに半開きになり、首をすくめ、両肩を持ちあげ、鹿革を手にした右手が小刻みにふるえたり大きく揺れたりするたびに、何も持っていない左手と左腕も、それに合わせるかのように宙を舞った。
その姿を見て最初は吹き出しそうになったわたしも、あまりに真剣な“プロ”の行為に見とれ、そのうちハッと胸に軽い衝撃をおぼえた。その様子は、NHKでいちど放送されたときに見たグレン・グールドがピアノを弾くときの姿に、そっくりだったのである。
このときのショックは、単に両者の類似がおもしろいというだけにとどまらず、心のなかで醸成され、わたしにとって、音楽を聴くときの基本的スタンスといえるまでに膨(ふく)らんだ。ガラス磨きのアルバイトは間もなくやめたが、グールドのレコードを何度も聴きかえすうちに、音楽とはガラスのようなものであり、作曲家はいろんな種類のガラスをつくる人物であり、演奏家はガラス磨きの職人のような存在だと思うようになった。
なかには音楽をダイヤモンドの結晶のようなものと考え、研磨し、カットし、われわれ聴衆の前に差し出す演奏家もいる。それどころか、結晶を指環や王冠に飾りつけ、小さな玉座に載せて差し出す演奏家までいる。が、そんな演奏を聴いても(少なくともわたしには)まるでおもしろくない。あまりに強い輝きに眩(まぶ)しさを感じるだけだ。それどころか、結晶を差し出す演奏家の得意顔が見えて、うんざりさせられることが多い。
ガラスには、鉄よりも硬い強化ガラスや、鉄の溶ける温度でも溶けない耐熱ガラスなど、じつにさまざまな種類があり、結晶ガラスのなかにはダイヤモンドに比肩(ひけん)するほど均質な構造をもつものまである。さらに窓用の板ガラスからボヘミアンやバカラまで、江戸切り子からビー玉まで、正倉院におさめられているメソポタミアの古代ガラスから原子力発電所から出た放射性廃棄物を固めた危険きわまりないガラスまで・・・・・・。力をこめて磨けば、そこにどんな世界が出現するのか、それがどんな透明度を示すのか、どんな輝きを放つのか、どんなうねりを見せるのか、どんな分子構造を顕わにするのか、“ガラス磨きのプロフェッショナル”以外には、想像することなど不可能だ。
グレン・グールドというピアニストは、まさにガラス磨きの天才というほかない。
きわめて犀利(さいり)な頭脳によって、あらゆる種類のガラスの構造や特性を頭に入れ、驚くべきテクニックによってそれを磨きあげ、その複雑きわまりない原子の配列を明示して見せる。と同時に、豊かな感性によって磨きあげられたガラスは、無限の透明な世界のなかでそれ自体を美しく輝かせ、柔らかくねじれた光や、鋭く折れた光を、踊るように次つぎと放射する。おまけに、無邪気な遊び心からわざとガラスの一部に曇りがのこされ、これによってガラスの存在感が浮き立つことまである。そんなプロフェッショナルの行為に、われわれ聴衆は、ただ耳を澄まして聞き惚(ほ)れ、感嘆し、驚嘆し、陶酔するほかない。
ピアノも弾けなければ楽譜も読めず、まっとうな音楽教育を受けたことのないわたしは、<音楽=ガラス≠結晶><グールド=ガラス磨きの天才>と考えることによって、グレン・グールドという天才ピアニストがいちだんと好きになり、彼の奇矯(ききょう)とされていた行動も簡単に理解できるようになった。
重要なのは「ガラスを磨くこと」しかないのだ。だから、コンサートなど必要ない(グールドは1964年以来1982年に死去するまでのあいだ、コンサート活動から完全に身を引き、録音活動しかしなかった)。
聴き手には、磨きあげたガラスを見せればいいだけのことなのだ。磨かれたガラスはその構造や特性をおのずから顕す。その限りない美しさと面白さに気づけば、それ以外のことなど、どうでもいい。演奏中の服装も、うなり声も、身体の奇妙な動きも、さらに不可解な日常生活も、すべてどうだっていい(グールドは、ピアノを弾きながらさかんに身体を揺すり、腕を振りまわし、うなり声をあげる性癖をもつ。また、真夏でもマフラーとオーバーコートと手袋を身につけていた)。
椅子も、自分の気に入ったもの、ガラス磨きに適したものであれば、それでいい(グールドは、いつもボロボロの古ぼけた折りたたみ椅子を愛用していた)。それに、純粋なガラス(バッハやモーツァルトやベートーヴェン)に、すでにあらゆる種類のガラスの構造と特性がすべて備わっていることに気づけば、なにも、色ガラスやクリスタル・ガラス(ショパンやシューマンといったロマン派の音楽)まで磨こうとする必要はない。とはいえ、放射性廃棄物を固めたガラス(シェーンベルクやウェーベルンなど、新ウィーン楽派以降の現代音楽)には挑戦する価値と意味が存在するだろう(グールドの主なレパートリーは、そのようなものだった)。
今回発売された映像では、グールドが、そんな<ガラス>の構造と特性を見事に提示してくれていることにくわえて、彼独自の<磨き方>を解説している部分もあり、あらためてガラス(音楽)の面白さと、ガラス磨き(演奏家)としてのグールドの天才ぶりに驚嘆させられた。そして、脆いがゆえに美しく、透明であるがゆえに無限の存在であるガラス――すなわち<音楽>の素晴らしさを教えられた。 |