「ナツメロって何のこと?」
とつぜん中学三年の娘にそう訊かれて、唖然とした。
「ナツメロの言葉の意味がわからないの?」
「知らないもん、そんな言葉」 驚いて、高校二年の娘と小学六年の息子にも訊いてみたが、二人とも首を横に振る。ナツメロという言葉までが、ナツメロになってしまったのだ。
「以前『懐かしのメロディ』という、むかし流行した歌ばかりのテレビ番組があって、その題名を短くして、古くて懐かしい歌のことをナツメロと・・・」
そう説明をすると、下の娘が、「だったらウエスト・サイド・ストーリーもナツメロ?」
と、重ねて疑問を口にした。
「ビートルズもナツメロ?」
上の娘が続ける。
「ベートーヴェンもナツメロだ」 いちばん下の息子がいう。
「お父さんの聞いてる音楽は全部ナツメロだ」
「いや、そうじゃない。古い歌を全部ナツメロというのじゃなくて、個人的に懐かしさを感じる歌をナツメロというんだ」
そういうと、三人の子供たちは狐につままれたような顔つきになった。無理もない。まだ十代では、「過去」というものが、はっきりとは存在していないのだ。
自分の体験を振り返ってみても、「過去」というものを意識するようになったのは、30代に入ってからのことに思える。
それ以前は、♪も〜しも〜しベンチでささやくお〜ふたりさん・・・という歌を聴いても、♪お〜い中村くん・・・という歌を聴いても、「古い」とは思っても「懐かしい」とは思わなかった。♪ヘ〜イ、ママ、ママ、ギター・・・という歌を聴いても、♪あの子はルイジアナ・ママ・・・という歌を聴いても、同じだった。振り返るべき「過去の世界」が、まだ存在しなかったのだ。
それが30代に入ったころから変化した。♪あなたが噛んだ小指が痛い・・・とか、♪青い月の光を浴びながら〜・・・などというメロディを耳にすると、なぜか、胸の奥に熱いものを感じるようになった。♪Puff, the magic dragon lived by the sea・・・とか、♪There is a house in NewOrleans・・・というメロディを小耳に挟むと、その歌を口ずさんだころの風景が目蓋の裏に甦るとともに、胸に温もりを感じるようになった。
ノスタルジー・・・というやつである。
即物的に考えるなら、子供にも過去はある。10歳の子供には10年分の過去があり、15歳の子供には15年分の過去があるはずだ。が、子供時代の脳味噌では記憶能力が曖昧なためか、あるいは歳を重ねるにつれて特別なホルモンが脳内に分泌されるためか、大人になると、子供のときには感じなかった「過去」というものが、猛烈な懐かしさとともに、こみあげてくる。
サケが自分の生まれた河へ間違いなく戻ってこれるのは、臭覚や聴覚のなかに「懐かしさ」を感じるからだ、という話を聞いたことがある。ホントかウソかは知らないが、「過去」というものは単なる時間的な古さでなく、ノスタルジー(懐かしさ)という感情を伴って、はじめて「過去」として認識できるもののようである。
では、「ノスタルジーの伴わない過去」とは、いったい何なのか?
それは、いくら時間的に過去に生まれ、時間的に古く存在したものでも、個人にとっては「新しいもの」にほかならず、「未来」というべきものといえるのではないだろうか。
私の子供にとって、ウエスト・サイド・ストーリーやビートルズが新鮮であり、私がバッハやベートーヴェンに常に新しさを感じるように、それらは現在の驚きであり、未来を開いてくれる発見にほかならない。
そもそも歌や音楽に、新しいものと古いものという区別など存在しないのだ。いや、文学、絵画、演劇、哲学、政治、経済・・・等々、あらゆる人間の営みに、絶対的な新旧の区別などない。ノスタルジックな感情が伴うもののみが、「過去」なのだ。
そういえばわたしには、20歳前後のころに『東京ブギウギ』『買い物ブギー』といった笠置シヅ子の歌を聞いて腰を抜かすほど驚いた記憶がある。私の父母の世代にとっては、終戦直後の混乱の時代が強烈なノスタルジーとともに(あるいは、忘れたくても忘れられない過去の記憶とともに)甦るに違いないそれらの音楽も、わたしにとっては、見事なパワーと創意に満ちた迫力満点の歌として耳に響いた。
また、デビュー直後の美空ひばりの歌声がビリー・ホリデイにそっくりなことに仰天したり、若いころの雪村いづみの歌声が、ダイナ・ワシントンに似ていて驚いたこともある。
ビートルズの曲も、子供のころに聴いた『ミート・ザ・ビートルズ』や『ウィズ・ザ・ビートルズ』のアルバムは、改めて聴き直してもロックン・ロールのリズムが新鮮に耳に響く。ところが、高校生以降に聴いた『アビイ・ロード』や『レット・イット・ビー』などを聴き直すと、大学受験に失敗したことや、他の男に走った女の顔が、万国博覧会の太陽の塔とともに思い出されてしまう――。
そう考えると、ノスタルジーなどという感情は、できることなら抱かないほうがいいようにも思える。過去には思い出したくない記憶もある。過去など存在しないほうが、新鮮な未来がいっぱいで、楽しいに違いない。
とはいえ、ノスタルジーに浸るのも、ときには気分のいいもので・・・。いや、歳をとると、欠席し続けていた同窓会にもちょっと出てみようかな、という気分になるもので・・・。しかし、わずらわしいことも多くて・・・。
そんな気分のときに聴くと最高の気分になるのが、『雪村いづみ/スーパージェネレイション』というアルバムである。
『東京ブギウギ』『蘇州夜曲』『バラのルムバ』『銀座カンカン娘』『胸の振り子』『ヘイヘイ・ブギー』『一杯のコーヒーから』『東京の屋根の下』など、戦後最高のポップス作曲家である服部良一の名曲の数々を、雪村いづみが、キャラメル・ママ(細野晴臣、松任谷正隆など)をバックに歌っているこのCDは、「スーパージェネレイション」というタイトルどおり、すばらしく斬新な編曲と、見事に素直な歌声で、「新しさ/古さ」などというつまらない価値基準を軽く超越してくれる。
それでいて、なぜか、はじめて聴く曲にも「ノスタルジー」のようなものを呼び起こす情感がたっぷりとふくまれていて、心の癒される思いがする。
なかでも、このアルバムのために作られた『昔のあなた』という一曲は、絶品中の絶品。
♪思いがけずこんなとこで、二人逢うなんて・・・と、偶然出逢った昔の恋人同士が、しばらくのあいだ、ただ肩を並べて並木道を歩く・・・という歌詞(物語)とともに、美しいノスタルジーの世界に導いてくれる。
思い出したくない過去の存在しない絶対的なノスタルジー。究極の懐かしさの世界――。
このCDを子供に聴かせると、「そうか。これが、ナツメロなんだ」という答えが返ってきた。まあ、間違ってはいないだろう・・・。
音楽には、過去のまだ存在しない子供にも、懐かしく美しい過去というものを意識させる力があるに違いない――。 |