世の中には、なぜか、まだまだ「オペラ」というものを毛嫌いしている人が多いようである。ドイツ語やイタリア語でのクラシック音楽による舞台は、私にはわからない・・・。オペラのような高級で難しいものは、私とは関係がない・・・という人がいるかと思えば、頭のテッペンから甲高い声を張りあげ、オーバーに両手を広げて演技する。そんな不自然な芝居のどこが面白いのか・・・という人もいる。ミュージカルや宝塚なら楽しめるけど、オペラはちょっと・・・という人もいる。
が、それは大きな間違いである。オペラとは、そんな難しいものではない。ミュージカルも宝塚歌劇の舞台も、もちろんオペラの一種だし、ミュージカルや宝塚のファンなら、誰もがオペラ・ファンといえるのである。
自分の本の宣伝をするようで恐縮だが、以前『オペラ道場入門』(小学館)という本を出版した。
そのなかで、オペラとは高級なものでも難解なものでもなく、所詮は男と女のホレタハレタのドラマを描いたものであり、「恋する心」さえ持っているオトナなら、誰もが楽しめるものである、ということを書いた。
そして、リヒャルト・シュトラウスが作曲した『ばらの騎士』を、オペラ入門としてイの一番に推薦した。
すると、やっぱり・・・というべきか、予想通り・・・というべきか、この意見に対して、反論するひとが現れた。
「オペラ入門としては、『ばらの騎士』のような難しいオペラよりも、もっと親しみやすい、簡単な作品をとりあげるべきで・・・」
そんな異議を唱えた人は、これまた予想通り、クラシック音楽の評論家や演奏家の方々だった。そのような人達が書いている「オペラ入門書」では、『ばらの騎士』は「上級者向け」あるいは「中級者向け」に分類されていて、けっして「初心者向け」「入門者向け」には入れられてない。
しかし、わたしは、そのような意見こそ、「間違った常識」である、と断言したい。
1864年に生まれ、1949年に85歳で亡くなったリヒャルト・シュトラウスは、モーツァルト、ベートーヴェン、ウェーバー、そしてワーグナーと続いたドイツ・オペラの伝統の総まとめともいうべき作品を数多く発表した。
そのため、シュトラウスの音楽は、規模も壮大ならば複雑さも頂点をきわめ、演奏も最高度の技術が要求される。それは、事実である。しかも、シュトラウスとコンビを組んだ同時代の文豪ホフマンスタールの書いた台本も、登場人物の心の奥底の抉り、複雑な心の襞、心理の綾を浮き彫りにしている。それも、事実である。
しかし、だからといって、リヒャルト・シュトラウスのオペラが「難解」なわけではない。
わたしたちは、演奏家ではない。観客であり聴衆である。演奏がいくら難しくても、聴くのも難しいわけではない。また、台本構成が複雑で、心理描写が細密だからといって、理解しにくいわけでもない。
いや、むしろ、神様が登場して物事を解決したり、無敵の英雄が大活躍するような、時代のかけ離れた19世紀の文豪が残した物語よりも、20世紀の作家が創った作品のほうが、はるかに登場人物の心理が理解しやすい、といえる。
じっさい、オペラをまったく見たことも聴いたこともない人物に『ばらの騎士』(のビデオ)を見ることを薦め、それをきっかけに大のオペラ・ファンになった、という人物が何人もいる。とりわけ、女性は『ばらの騎士』の物語に感動し、オペラのおもしろさにハマッてしまう(わたしの女房も、その一人である)。
※
若くしてオーストリア陸軍元帥の侯爵と結婚し、侯爵夫人となったマリー・テレーズ。しかし、月日の経過とともに侯爵の愛は冷め、夫人は寂しさを紛らわすために若いツバメ(オクタヴィアン伯爵、愛称はカンカン)との情事にふけるようになる。
若いオクタヴィアンは侯爵夫人との「愛」に夢中になる。が、侯爵夫人は、そんな「愛」が長続きしないことを百も承知している。いつの日か若い恋人が現れ、オクタヴィアンは自分から去っていくはず・・・と。
そんなある日、オックス男爵が、結婚相手に結納の印としての「銀のばら」を届けに行ってくれる若者を選んでくれるよう、侯爵夫人に頼みに来る。夫人は、その役目をオクタヴィアンにさせる。が、オクタヴィアンは、「銀のばら」を届けた瞬間、オックス男爵の許嫁であるゾフィーに一目惚れしてしまう。ゾフィーも、野卑な男であるオックス男爵との結婚を嫌い、オクタヴィアンに心を奪われる。
オクタヴィアンは、策略を企て、なんとかオックス男爵からゾフィーを奪おうとする。が、その策略が大失敗に終わりそうになったところへ侯爵夫人が現れ、夫人が、オクタヴィアンとゾフィーの二人を結びつける・・・。
寂しさに打ちひしがれながらも、若い二人の「愛」を助ける侯爵夫人。その健気で、気高く、凛とした姿には、女性はもちろん、男性の観客も(わたしも)涙を誘われる。
19世紀に大発展したオペラは、男性中心の物語が多い。とりわけワーグナーの作品には、純情な乙女の愛によって男性(の社会)が救われる、という男中心のパターンが多い。が、20世紀の大オペラ作曲家であるリヒャルト・シュトラウスは、男性の身勝手に苦しみながらも真に力強い女性、すなわち、男性以上に芯の強い自立して歩む女性の姿を描いた。そして、そのような素晴らしい女性を、きらめくような輝かしい音楽で飾ったのである。
これほど素晴らしいオペラ、素敵なオペラ『ばらの騎士』が、日本では、まだまだ一般的に知られていない。ベートーヴェンの『第九交響曲』(のようにムズカシイ音楽)は知っていても、リヒャルト・シュトラウスの作品は知らない、という人が多い。オペラ・ファンとして、これほど残念なことはない。
何とか一人でも多くの人に、一人でも多くの女性に、『ばらの騎士』の素晴らしさを、リヒャルト・シュトラウスの作品の面白さを知ってほしい・・・と思っていたところが、今度、宝塚の月組が、『愛のソナタ』と題して『ばらの騎士』のエッセンスを取り入れた舞台を上演することになった。これほどうれしいことはない。
わたしは、オペラ・ファンとして、常々、オペラの作品のなかには、宝塚の舞台にこそふさわしい作品がいっぱいある、と思っていた。なかでも『ばらの騎士』のテーマは、宝塚にぴったりである。
おそらく、この宝塚の舞台をご覧になった観客のみなさんも、「女の寂しさ」に打ち克つ侯爵夫人の気丈な心に接して、深く感動されるに違いない。そして、リヒャルト・シュトラウスのオペラの素晴らしさに、気づかれるに違いない。
ほかにも、リヒャルト・シュトラウスの作品では『アラベラ』や『カプリッチョ』、プッチーニの作品ならば『ラ・ボエーム』や『トスカ』や『トゥーランドット』、ヴェルディならば『椿姫』などなど、是非とも、いろんなオペラを宝塚の舞台で、宝塚流に上演してほしいと思う。
オペラとは、けっして高級な芸術ではなく、庶民の娯楽として発展した文化なのだから。 |