最近、ちょっとしたきっかけから、オペラに関するモノスゴイ「真理」を発見した! そして、大興奮してしまった!
風呂に入っていたアルキメデスが比重の原理を発見し、「ユリイカ!」と叫び、真っ裸で外に飛び出す……ほどではなかったが、けっこうそれに近い躁状態に陥った。それほど、凄い発見だったのだ!
その「真理」を発見したのは、ルチアーノ・パヴァロッティのコンサート・ビデオを見ていたときのことである。
パヴァロッティは、毎年いろんなポップス系やロック系の歌手を招き、生まれ故郷のモデナでチャリティ・コンサートを開催している。去年は『タイタニック』のラヴ・テーマを歌ったセリーヌ・ディオンをゲストに招いたらしいが、以前にも、スティング、ブライアン・アダムス、エリック・クラプトン、エルトン・ジョン、ライザ・ミネリ、パコ・デ・ルシア、B.B.キング、マイケル・ボルトン……等々、錚々たるメンバーを招いてコンサートを開いている。
それらのコンサートは、DVDでも発売されており、そのなかから『ホーリー・マザー』というクラプトンの作った歌を、彼のギターに合わせてパヴァロッティが歌っているビデオを見ていたときのことだった。
ちょうどそこへ、高校2年のコギャルの娘が学校から帰ってきて、隣のソファに座り、体を揺らせはじめた。
ルーズ・ソックスをはいた娘は、最近ヘビメタ・ロック・グループのギタリストをBFにしているとかで、エドワード・ヴァンヘーレンや、イングヴェイ・マルムスティーン、布袋寅泰なんかのCDを聴き、クラプトンもお気に入りらしい。
「ウ〜ン。やっぱ、クラプトンのギターはカッコいいねえ……」
娘が、そういったとき、私は、一瞬、ハッと、気づいた!
《そうだ! クラプトンのギター演奏も、バロック・オペラのアリアも、めざすものは同じ! 「カッコよさ」なのだ!》 私は、その「真理」を確認するため、娘に質問した。
「クラプトンのギターの、どこが、そんなにカッコええのんや?」
「だって、カッコいいじゃん」
「だから、何が、カッコいいんだ?」
「何がって、聴けばわかるじゃん。わからないの? オヤジも歳だな」
「いや、おれかて、カッコええとは思う。クラプトンのギター演奏は、一音一音の響きが澄み切っていて、濁らない。そういうところにシビレルのか?」
「まあ、そういうことかな。この♪キュイ〜ン、キュイ〜ンという響きと、♪ティラララ、ティラララ……というテクが最高じゃん」
「その♪ティラララ、ティラララ……の、どこがカッコええのんや?」
「……そんなこと、あたりまえじゃん。胸に響くからいいの。説明できないよ」
「だったら、♪ティラララ、ティラララじゃなくて、♪ティ〜ラ〜、ティ〜ラ〜……じゃダメなのか」
「そんなのダメじゃん。♪ティ〜ラ〜、ティ〜ラ〜と演奏するなら、♪キュイ〜ン、キュイ〜ンとならなきゃ……」
そこで私は膝を叩いた。そうなのだ!♪ティ〜ラ〜、ティ〜ラ〜……はダメで、♪ティラララ、ティラララ……か、♪キュイ〜ン、キュイ〜ンでなければ「カッコよく」ないのだ!
なんのこっちゃ? と首を傾げる人もいるだろう(音楽のニュアンスは文字にしにくいので、申しわけない)。要するに、音楽は無駄と思える「装飾音」が散りばめられて、はじめて「カッコよくなる」ということをいいたいのである。
たとえば、♪ド・ミ・ソ……と上昇するメロディを耳にすると、人間は、なぜか心が緊張し、明るく昂揚した気分になる。逆に、♪ソ・ミ・ド……と下降する音階を聴くと、心は弛緩し、暗く沈鬱な気分になる。作曲家は、この「音階」と人間の「心」の基本原理を利用して、聴衆の心を揺さぶろうとする。
が、音階は無限ではないから、いつまでも、どこまでも上昇しっぱなし、いつまでも下降しっぱなし、というわけにはいかない。そこで、気分の昂揚するメロディを作るときでも、音階を上昇させるだけでなく、どこかでいったん下降させなければならなくなる。
それには、いろいろなやり方がある。 映画『風とともに去りぬ』のテーマ曲を思い出していただきたい。その曲は、一つ目の音(低いソの音)から二つ目の音(普通のソの音)へ移るときに、一気に音階が1オクターヴ上昇する。そのあと二つの音が下降するのだが、その下降はあくまでも上昇した結果としての「余韻」として響くような配列になっている。
この2小節が一塊となり、あとは似たようなメロディの繰り返しになるのだが、繰り返しの最初の音が、「余韻」の最後の音よりも低い音で再開されても、その音は、続く急上昇(再びオクターヴ)の準備の音として聴こえるように構成されている結果、音階が下降したという印象は生じない。
しかも2度目の繰り返しの「余韻」として下降する二つの音が、1度目の下降する二つの音よりも高い音になっている(下がり切らない)ため、全体の印象として、繰り返しの2小節全体が「上昇」したような印象を聴き手に与える。
そうして、3度目の繰り返しの2小節も、全体的に高い音で……といった具合に続くと、音楽全体の音階が次々と「上昇」し続けているような錯覚に陥り、聴き手の気分が昂揚するのである。
暗い気分になる音楽の場合も同様で、限りある音階の繰り返しに過ぎないメロディが、全体として下降しているような錯覚を与えられるとき、聴き手の心は限りなく沈んでいく。音楽とは、「だまし絵」の天才画家エッシャーが描いた「無限に続く階段」のような世界なのである。
この音階の上昇と下降が、音楽と人間の心理現象との結びつきの基本中の基本というわけだが、それだけでは、おもしろい音楽、すばらしい音楽にならない。そこで、作曲家や演奏家は、音階の上昇や下降の道筋を曲がりくねらせる。
つまり、メロディを華やかにする。色をつける、といってもいい。音の上昇下降に「装飾」が施され、その「色のつけ方」が「カッコいい」かどうかで、音楽や演奏が、評価されるわけである(音階を激しく上下させて歌うソプラノ歌手のことを「コロラチューラ」coloraturaと呼ぶが、それは「色」colorから派生した言葉で、「色づける」という意味である)。
音楽とは、ただそれだけのものなのだ。作曲家も演奏家も、音楽家は誰もが「カッコよさ」を求め、様々な「色づけ」に挑戦しているだけのことなのだ。
パヴァロッティが地中海の空のような澄み切ったテノールの声で、♪アアアア〜と高い音を響かせるのも、エリック・クラプトンが、エレキ・ギターを♪キュイ〜ン、キュイ〜ン、ティラララ、ティラララ……と響かせるのも、どっちも、それが「カッコいい」と思っているからにほかならない。
都はるみが、♪うぁんこおおお〜んつばきいわああん……と「唸る」のも、五木ひろしが、♪よっこっはっまあ〜たっそっがっれえ〜……と喉をひっかからせるのも、森進一が、♪うぉんなのうおうおうおう……たぁめぇいいきいいい……と喉を締めつけるようにして「こぶし」をきかせるのも、すべて、それらの「色づけ(コロラチューラ)」や「装飾」を「カッコいい」と思っているからであり、それを「カッコいい」と思う人が少なくないから、彼らはミュージシャンとして「評価」され、「人気」があるのだ。
この「装飾」→「カッコいい」→「評価」→「人気」という関係は、グレゴリオ聖歌から武満徹まで、あらゆる音楽にあてはまる。バリ島のガムラン音楽から、湘南の高校生の名もないヘビメタ・ロック・グープまで、あてはまる。バッハもベートーヴェンも、シェーンベルクもウェーベルンも例外ではない。もちろん、バロックと呼ばれるジャンルの音楽(オペラ)も、例外ではないのだ。
どこか神秘的な響きで、神聖な趣があり、高貴な空気を漂わせている(ように感じられる)バロック音楽も、作曲家や演奏家が「カッコよく」聴かせようと思った(にちがいない)という意味において、エリック・クラプトンのギター演奏や、都はるみ、五木ひろし、森進一の「こぶし」や「唸り」と同類なのである。
冒頭に「真理を発見した!」と書いたのは、ただ、これだけのことなのである。
な〜んだ……と、思わないでほしい。この「真理」を発見して以来、私は、一度や二度聴いただけでは、ただ優雅で退屈なだけのバロック・オペラ(の音楽)や、何度聴いても心にスカッとした味わいを与えてくれない現代オペラ(の音楽)が、おもしろく耳に響き、カッコよく思えるようになったのだから……。
ここで、ちょっと(こういうことは、あまり好きではないのだが)音楽とオペラの歴史に関する解説をしておこう。
音楽というのは、一瞬、一瞬のうちに「消えてゆく芸術」であるだけに、「ミロのヴィーナス」や「モナリザ」が残っているようには残されておらず、他の芸術の歴史に較べて曖昧な部分が多い(だから料理評論家の岸朝子さんは「音楽と料理は同種の文化」という)。
しかも、後の時代に残すための記譜法(楽譜に音楽を書き記す方法)が、現在のグローバル・スタンダードである五線譜に近い形で確立されたのが17世紀以降という、人間の歴史に較べるとごく最近のことなのである。
そのため、ルネサンス音楽の大作曲家といわれるイタリアのパレストリーナ(1525頃〜1594)の残した当時の楽譜を演奏するのも〈一種の翻訳であり、多少の変質を伴う〉(音楽之友社『新訂標準音楽辞典』より)という(だから何百年も続いている「老舗の味」も変質しているに違いない)。
おまけに五線譜という現在のグローバル・スタンダードが、ローマ・カトリック教会の典礼(教皇や神父が行う日常の聖務やミサのこと)の時に歌われる「グレゴリオ聖歌」の記譜法が元になっているため、教会音楽や教会とつながりの強かった宮廷音楽ばかりが多く残され、いわゆる民衆音楽(民謡)は多くのものが忘れ去られた、と考えられる。
話は少々横道にそれるが、ルチアーノ・パヴァロッティがコンサートでよく歌う『ジロメッタ』という歌は、16世紀中頃のルネサンス時代のヴェネツィア地方で流行し、やがてイタリア人の愛唱歌となるほどの人気を得たという。が、作曲者のシベッラという名前の人物については生没年も不詳で、何も資料が残されていない。
この歌は、『オー・ソレ・ミオ』や『帰れ、ソレントへ』といったイタリア民謡(19世紀から20世紀初頭に作曲された歌曲)と同じ時代の歌といわれても納得できるくらいで、まさか400年以上前の歌とは思えない愛らしい歌である(余談だが、パヴァロッティが名古屋ドームでこの歌をうたったとき、おそらく気づいた人は少なかっただろうが、「ジロメッタ」という恋人の名前を、自分の不倫相手の「ニコレッタ」に一度だけ変えて歌った。『ジロメッタ』という歌はそういうシャレが可能なほど現代的な歌なのである)。
『ジロメッタ』は、幸い400年以上のちまで歌い継がれて生き残ったが、ほかにも存在したはずの素晴らしい民衆の歌や流行歌が数多く失われたと思われる(もちろん、それは、イタリアだけの事情ではなく、日本でも、伎楽、猿楽、田楽、出雲の阿国が踊ったときに流れていたはずの音楽などの多くが、失われている)。
そのような曖昧模糊としたカオス(混沌)のような音楽の歴史が、西欧世界で一つのコスモス(宇宙)を築き始めたのが14世紀から16世紀のルネサンスだった。
美術や彫刻や文芸とは異なり、音楽の世界においては、「ルネサンス」(復興)という名前どおりに回帰すべき古代文化(古代ギリシア文化)は、既に消えてなくなっていた。が、調和を求める精神、合理性を求める精神、その調和と合理性のなかに、神性ではなく人間性を求めるルネサンスの精神は、音楽の世界にも影響を与えた。
グレゴリオ聖歌のような一つの旋律を誰もが歌う音楽(モノフォニー)でなく、複数の旋律(声部)が多層的に重なり合ってハーモニー(「和声」=「調和する響き」)を形成するポリフォニーの音楽が発達したのである(音楽用語の多くがラテン語にもとづくイタリア語であるのに、「モノフォニー」=「一つの声」/「ポリフォニー」=「多くの声」という言葉がギリシア語に由来しているのも、ルネサンス的といえるだろう)。
また、ルネサンスの合理的精神のもとに生まれた科学は、楽譜印刷術の発明という形で、音楽の世界を広げた。
つまり、音楽は、ルネサンスの時代に、「カッコいい」ことを表現する幅を、一気に拡大させたのである。
そして、「ルネサンス」と呼ばれる時代も終わろうとしていた16世紀末(まあ、当時の人々は、そんな時代区分は意識しなかっただろうが)、「オペラ」が誕生するのである。
オペラは、おもしろいことに、他の芸術とは異なり、誕生した時と場所をはっきりと特定することができる。それは1597年、フィレンツェのバルディ伯爵の宮廷サロンでの出来事で、貴族たちが古代ギリシア劇を音楽付きで上演しようと企画し、詩人のリヌッチーニ、作曲家のペーリとカッチーニが協力して、『ダフネ』を上演した。それが、オペラ生誕のときとされている。
現存する最古のオペラの楽譜は、同じメンバーで作られ、1600年に上演された『エウリディーチェ』だが、これもやはりルネサンス精神の発露として、ギリシア古典劇が題材とされている(オルフェオとエウリディーチェの神話)。
ただし、このとき、一つの「誤解」があったという。それは、ギリシア古典劇の「復興」をめざしたルネサンス人(イタリアの貴族や芸術家)たちが、ギリシア古典劇は、独唱者を中心に物語が進められたと思い込んでいたことだ(ほんとうは、「コロス」と呼ばれる合唱隊が物語の進行や登場人物の心理を表現する)。
なんという素晴らしい誤解! この誤解のおかげで、オペラは誕生して間もないうちに、多くの素晴らしいアリア(独唱)を生み、歌手の技巧(歌唱法)を高度に育て、人気歌手(カストラート=少年時代に去勢され、女性的な子供の声を残した歌手)を輩出し、オペラの人気獲得に貢献したのである。
このルネサンス後期の「オペラの誕生」という出来事は、二つの別の側面から見つめ直すことができる。
一つは、言葉というものを発達させた人間(西洋人)が、無意識のうちに「原点」に「回帰」した、という見方である。
人類が言葉を使い始めたとき、それは、おそらく、野獣の唸り声や、鳥の囀りや、あるいは鯨の「歌」のように、音楽的抑揚をを有していたに違いない。そうして、旋律やリズムを伴った音声で、物事の事象や感情を伝達していたに違いない。
その後、言葉を高度に、さらに極度に発達させた人間は、音楽的抑揚を必要とせずにコミュニケーションができるようになった。が、事象を豊かに表現し、真の感情を伝えるには音楽的抑揚を伴ったほうがいい、という回帰意識が無意識のうちに働き、オペラという表現形態を生んだ、と考えられる。
つまり、言葉を音楽にのせるオペラの表現法のほうが、言葉だけの演劇よりも人間にとって「自然」であり、人間復興を(無意識のうちに)めざしたルネサンス人は、「自然」に「自然」の状態へと「回帰」したのである。
もう一つの見方は、ルネサンスの時代の後に訪れる「バロックの時代」を先取りした見方である。
バロックという言葉は「歪んだ真珠」を意味する「バロッコ」というポルトガル語から生じたもので、美術建築史では、ルネサンスの調和を重んじる「古典主義」の次に訪れる雄大荘重な装飾の表現を指す。美術や建築では、そこからさらに幻想的な「マニエリスム」(「気取り」と
か「わざとらしさ」というフランス語)や、「ロココ」(「岩石」という意味のフランス語に由来)と呼ばれるブルボン王朝時代の装飾過多の表現へと進む。
要するに、人間は、科学を水素爆弾の製造や遺伝子の組み替えまで発展させたように、何事においても限度というものを知らず、過剰(な表現)へと突き進むものなのである。そして、マニエリスム、ロココという過剰な装飾が限界に達すると、今度は「装飾」ではなく、人間の心の表現へと方向転換し、「ロマン主義」という名の自由奔放へと走るのである。
音楽の歴史も、基本的には同じ道を歩んだ。バロック音楽というと、どこか神聖で、厳かで、あるいは穏やかなイメージがあるが、それは、後世になって新たに生まれたり、大きく発達した楽器の音の激しさと較べるからそう感じるのであって、素直に耳を傾けると、かなりゴチャゴチャした装飾音が「歪んだ真珠」のように派手派手しく響く(モンテヴェルディ(1567〜1643)のオペラ『オルフェオ』の冒頭など、まるでヘビメタ・サウンドのように響きますよね)。
そのような「過剰」へと進む人間の精神が、言葉(演劇)と音楽を合体させてオペラを生み、さらに、合唱やバレエも加え、舞台装置は豪華になり、衣装は絢爛になり、何もかもをウワバミのように呑みこんで、ロマン派のワーグナーやヴェルディ、リヒャルト・シュトラウスやプッチーニの絢爛豪華なオペラを生み、今日「オペラ」と呼ばれる総合芸術ジャンルを作り出した、と考えられる。
つまり、オペラの誕生は、過剰を求めるバロック精神の萌芽であり、オペラの発展は、過剰へと進むロマン主義の産物ともいえるのだ。
音楽史のうえでは、モンテヴェルディ、パッヘルベル、アルビノーニ、ヴィヴァルディ、テーレマン、そしてバッハ、ヘンデルといった作曲家の活躍したバロック音楽(とフランスのロココ音楽)の時代に続いて、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンなどがソナタ形式や交響曲という形式を確立した「古典主義」と呼ばれる時代がある。
それは、いったん極限に達した「歪んだ真珠」(バロック)の形を整え直し、「過剰」への再出発の準備をした時代といえる。
そしてロマン派の音楽が限界まで過剰に発展した今世紀初頭になって、旋律やハーモニーや、ハ長調・ニ短調といった調性そのものの破壊と崩壊が始まる(現代音楽)なかで、新古典主義や新ウィーン楽派と呼ばれる音楽が生まれたのと同じだ。
音楽には、実に様々な種類がある。
が、最初に記した「真実」のとおり、エリック・クラプトンのギターも、バロック・オペラの音楽も、現代オペラの無調音楽も、どれも「カッコよさの追求」という意味において、異なるものではないのだ。
それは実感するには、オペラ演出界の鬼才ハリー・クプファーが、現代的味付けで演出したバロック・オペラ−−グルックの『オルフェオとエウリディーチェ』や、ヘンデルの『ジュスティーノ』などを見ればいい。そこには、ロック歌手もどきの皮ジャンパーを着たオルフェが、交通事故で地獄に落ちたエウリディーチェに逢いに行く世界が、何の不自然さもなく展開される(この物語は古事記のイザナギ&イザナミの物語とそっくりですね)。
また、奇才ピーター・セラーズが演出したヘンデルの『ジュリアス・シーザー』では、イラクのフセイン大統領もどき人物まで登場し、シーザーの悲劇が展開される。
そのあと、たとえば三枝成彰の「現代日本歌謡曲オペラ」とでも呼ぶべき現代オペラ『忠臣蔵』を見れば(聴けば)、音楽における「カッコよさ」が、洋の東西を問わず、時代を問わず……とまではいえないにしても、かなり同じ要素に根ざしていることがわかり、あらゆるオペラを自然に楽しめるようになるに違いない。
早い話が、素晴らしい作品(人間の表現)に、「古い/新しい」「西洋/東洋」「クラシック/ポップス」というような基準や違いは存在しないのだ。
|