16世紀の末、フィレンツェに住むバルディという伯爵が、「ギリシア神話を音楽付で楽しみたい」と思い、作家や音楽家に命じてつくらせたところから生まれたオペラは、最初は「ドラマ・イン・ムジカ」(文字通りの「音楽劇」)と称された。が、そのうち「オペラ・イン・ムジカ」と呼ばれるようになり、やがて「オペラ」と略されるようになった。
オペラ(OPERA)とはラテン語の「オプス(OPUS=Op.)」の複数形。「ベートーヴェン作曲交響曲第五番運命Op.67」などと書かれ、日本語では「作品」と訳されている。ラテン語の本義には「仕事・活動」といった意味もあり、英語の「オペレーション(作業・操作・作戦・手術)」につながる。
つまりオペラとは、様々な「作品」の集合体という意味なのだ。
原作(物語)があり、戯曲化(台本化)され、音楽がつけられ、演出、演奏、歌、演技、衣裳、照明、舞台装置、バレエ……それらの「作品」をすべてひっくるめて成り立っているのが「オペラ」といえる。
そのなかで最も重要なのは、やはり原作の物語と音楽。古くはギリシア神話が定番で、妻のエウリディケ(エウリディーチェ)をなくした夫のオルペウス(オルフェオ)が地獄まで迎えに行く物語(古事記の「イザナギ・イザナミ神話」にそっくり!)や、アポロンの愛を拒否して月桂樹に変身するダフネの物語などがオペラ化された。
そして時代が進み、作曲家が素晴らしい題材(物語)を求め続けた結果、ゲーテやシェークスピア、セルバンテスやアレキサンドル・デュマ、ドストエフスキーやトルストイ、トーマス・マンや三島由紀夫……といった、世界文学全集にその名を連ねる大作家の作品がオペラ化されるようになった。
要するに、オペラを楽しむということは、世界文学を楽しむ、ということにもつながるのだ。
オペラ化されるときは、音楽の進行に沿うよう複雑な物語が整理され、省略され、改編され、そのエッセンスが凝縮される。そして物語の本質は音楽によって表現され、複雑難解で長大な物語も、簡単に耳に響き、身体で感じ、頭に入れることができるようになる。
ゲーテの『ファウスト』を読むのは骨が折れるが、ボイート作曲の『メフィストフェレス』の舞台を楽しめば、難なくゲーテの世界に親しめる。メリメのフランス文学を味わうため、カルメンを殺したドン・ホセの牢屋での独白を読むのはシンドイが、ビゼーの作曲した美しい音楽でカルメンとドン・ホセの人生を追うのは楽しい(物語は悲惨だが)。
オペラはムズカシイと思ってる人が多いが、事実はまったく逆で、オペラのほうがヤサシイのだ。
たとえば『オセロ』。シェークスピアの原作では、第1幕でヴェニスの支配者たちの複雑な人間関係が延々と語られる。が、ヴェルディのオペラ『オテッロ』(オセロのイタリア語読み)ではすべてカット。ヴェニスの将軍で黒人のオテッロがイスラム教徒と闘い、嵐のなかを凱旋するシーンから始まる。そして「極悪人」イヤーゴの罠にはまり、白人の妻に対する嫉妬から殺人へと一気に走る。
「極悪人vs善人」という構図は単純すぎると思われるかもしれないが、ヴェルディの素晴らしい音楽が加わると、善人の弱さも悪人の葛藤も見事なまでに浮き彫りになり、戯曲以上のドラマの奥行きが感じられるようになる。
『ウエスト・サイド・ストーリー』が『ロミオとジュリエット』の本質を描いたのと同じ。言葉で表せない人間の心情は音楽で表現されるから、物語はシンプルで十分。
オペラ・ファンにならなきゃ損。オペラが好きになった幸福な人々は、老後の生活にも倦むことなく、音楽を楽しみながら「人生の羅針盤」ともいえる世界文学と親しみ、人生の大海を悠然と渡ることができるのだ。
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