コラム「音楽編」
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掲載日2006-02-06

前回いちどお休みしましたが、JCBのPR誌『ゴールド』に2年間(1999〜2001年)にわたって連載したコラム『オタマジャクシはバッハの子』からの“蔵出し”第24回目。今回が最終回ということで、マリア・カラスの登場です。

永遠の歌声

 2000年12月31日。大魔王は、空から降りてこなかった。宇宙人の襲来もなかった。いつもの年の瀬と同じように大晦日が過ぎ、いつもの正月と変わらない元旦が訪れた。そして、21世紀の幕が開いた。
 いまから30年前の高校生時代、ツムジ曲がりの日本史教師が口にした言葉を思い出す。
「21世紀になるとき、おめえらは40代の半ばか。そうか。おめえらが中心になって、ドンチャン騒ぎをするんだな。そのころおれは、もうこの世におらんけど、あんまり破目をはずすなよ。それじゃあ、今日の授業は鎌倉時代の末法思想・・・」

 この教師のその後の消息は知らない。生きていたら80歳過ぎ。可能性がないわけではないが、ドンチャン騒ぎはやらなかっただろう。もちろん私も、そんなことはしなかった。
 この教師が、いったい何をいいたくて世紀の変わり目を話題にし、ドンチャン騒ぎを諫めたのか、それは、いまもわからない。が、何やら羨ましげな口調だったように記憶している。

 そうなのだ! 私達は、二つの世紀にまたがる人生を生きているのだ! と、エクスクラメーション・マークまで付けて書いてはみたものの、それが、どれほどのことなのか、まるで理解できない。
 この地球上に生を受けた人間のなかで、二つの世紀にまたがって生きた人間の数は、そうではない人間の数よりも、多いのか? 少ないのか? それすら、わからない。

 人生50年と考えると、世紀をまたぐ人とまたがない人はほぼ同数になるのか? 現在のような長寿になると、世紀をまたぐ人のほうが圧倒的に多くなるのか? それなら、世紀をまたがずに生きた人のほうが少数派で希少価値があるのか? いや、確率と統計の問題については、安易に口にしないほうがいい。

 なにしろ、サッカーの試合の選手と審判合計25人のなかに、同じ誕生日の人のいる確率は、50パーセントをはるかに超す、というのが確率なのである。
 そんな馬鹿な! と誰もが思うだろう(私も思う)。が、サッカーの試合を見ながら何度か賭をすれば、「同じ誕生日の選手がいる」ほうに賭けた人が勝つらしい。これは、365日のなかに25人と考えるから不思議に思うのであって、25人が同じ誕生日になる組み合わせは300通りもあるという。が、理屈がそうでも、納得はできない。

 ま、そんなことはどうでもいい。要は、ミレニアムだの、21世紀だの、世紀が変わっただのといわれても、何のことやらわけがわからん、ということをいたかったのである。
 新世紀だ! といったところで、世の中が一新された気配は、もちろん、ない。
 過去には、《世の中に新しいことなど存在しない》と看破した哲人もいたらしい。《新しいものとは、みんなに忘れ去られただけのものにすぎない》というのである。

 ――ということを、紀元前10世紀のイスラエルの王ソロモンが語った――ということを、16〜17世紀のイギリスの哲学者フランシス・ベーコンが書き残した――ということを、19世紀生まれの20世紀のアルゼンチンの大作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスの本を読んで知った(と、ここで人物が3人登場したが、そのうち世紀をまたがった人物が2人もいる! 閑話休題)。

 「忘れ去られたもの」が「新しいもの」であるなら、誰もが、すべてを忘れればいいのだ。そうすれば、新しい「時代」が始まる。
 ソクラテスもプラトンもアリストテレスも、カントもヘーゲルもサルトルも、新しい世紀に入ると同時にすべて人々の記憶から消え去るというのであれば、新たなソクラテスやサルトルが出現して、21世紀はメッチャおもろい時代になるだろう。日本の政界にも、聖徳太子や織田信長が現れ、世の中が活性化するかもしれない。

 が、そうはいかない。考えてみれば、「過去」とは、まったく、重く、鬱陶しいものである。
 そんな重く鬱陶しい「過去」のために、音楽の世界で最も苦しんでいるのは、おそらくオペラ界のソプラノ歌手だろう。
 20世紀に、マリア・カラスというソプラノ歌手が出現した。カラスの前にカラスなく、カラスの後にカラスなし――といわれたほどの大歌手である。

 おまけにこの大歌手は、20世紀のハイテク技術を駆使して、1949年から1965年の17年間のうちに大量の録音を残した。ヴェルディもプッチーニも、ドニゼッティもベッリーニもロッシーニも、イタリア・オペラの主要作品はすべて、といっていいほど全曲録音を残した。ほかにもフランス・オペラやドイツ・オペラのアリアも残した。
 しかも、そのすべてが、最高の歌唱、絶品の出来映えなのだ。

 「私は、楽譜に書かれた音符の一音たりともないがしろにしたことはない」
 カラス自身が残したその言葉どおり、彼女のうたうどんな歌を聴いても、背筋にゾクゾクッと冷たいものが走る。それくらい、歌の世界に引き込まれる。
 コロコロと転がるような高い声から、魔女の呪いのような低い声まで・・・、純情可憐なヴィオレッタから愛のために死ぬイゾルデまで・・・、カラスは、「女」という存在のすべてをうたいきった。

 おまけに彼女は、映像まで残した。
 オペラの舞台はプッチーニの『トスカ』の第2幕しか残されていない(1958年のパリ・オペラ座と、1964年のロンドン・コヴェントガーデン歌劇場)。が、その粗悪なモノクロ映像を見るだけでも、カラスのオペラ歌手としての歌唱と演技が、他のどんな歌手も足元にも及ばないほど見事なものだったことが、はっきり理解できる。

 最近DVDで再発売されたハンブルクでの1959年と1962年のコンサートをおさめた映像も、筆舌に尽くしがたいもので、アリアの前奏が流れるときに目を少し横に動かしたり、身体をちょっと傾けたりするだけで、カラスは、情熱のカルメンにもなり、純情小粋なロジーナ(『セビリヤの理髪師』の主人公)にもなるのである。
 その凄さは・・・いや、もう、なんと書けばいいのかわからない。これほど偉大な「過去」が残されてしまっては、もはやソプラノ歌手は、何もできない(じっさいミラノ・スカラ座では、カラスの『椿姫』のあと、それ以上の上演は不可能との判断から30年近くものあいだ『椿姫』は上演されなかった)。

 テノール歌手のマリオ・デル・モナコが、どれほどスゴイといっても、得意とするレパートリーには限りがあった。エンリコ・カルーソーは、録音が粗悪すぎた。だから、パヴァロッティも、ドミンゴも、カレーラスも、存分に活躍できた。
 エディット・ピアフやビリイ・ホリデイや美空ひばりも偉大だが、シャンソンやジャズや歌謡曲は、時代とともに新しい時代に即した歌が出現し、新しい歌手は、彼女たちの歌わなかった新しい歌で勝負することができる。

 が、オペラ歌手は、そうはいかない。
 オペラ自体が過去の偉大な芸術だから、新曲など出現しない。
 すなわちオペラ(イタリア・オペラのソプラノの部分)は、カラスとともに死んだのだ。いや、進化を止めたのだ。時間を停止させてしまったのだ。
 「時間が停止した」ということは、「永遠に生き続ける」ということである。
 カラスの歌声を聴いていると、永遠を感じる。

 21世紀だと? なんとチッポケな言葉か! 新世紀だと? 馬鹿馬鹿しい!
 歌のなかには、「永遠の生命」が存在するというのに!

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