黄色い大きな屋根がサーカス・テントのようにも見えるため、かつては「カラヤン・サーカス」とも呼ばれたベルリン・フィルハーモニー。現在は「ヘルベルト・フォン・カラヤン通り」と名付けられた一番地にあるそのホールを本拠地とする「世界最高峰のオーケストラ」ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団。その定期演奏会で佐渡裕さんが指揮をする、というのでベルリンへ飛んだ。
それは多くの日本のメディアにも報じられたとおり、いや、それ以上に、じつに素晴らしい見事なコンサートだった。
5月20〜22日の3日間行われた演奏会のうち、私が聴いたのは真ん中の21日。演奏された楽曲は2曲。1曲目は武満徹作曲『五人の打楽器奏者とオーケストラのための"From
me flows what you call time"(あなたが時と呼ぶものが私から流れ出る)』。1990年にニューヨークのカーネギー・ホール百周年を記念して、小沢征爾指揮ボストン交響楽団の演奏会のために委嘱されて作曲された楽曲で、40分近い大曲だ。
五角形の形状をした客席数2440席のホールを埋めたほぼ満席の観客の大きな拍手に迎えられ、並のドイツ人より大柄な佐渡さんが、燕尾服に身を包んで登場。軽く一礼のあと軽い足取りで指揮台に上がり、オーケストラに向かって指揮棒を持たずに静かに腕を振る。すると、尺八の音色にも聴こえる美しく見事なフルート・ソロが響いた。
そしてホールのあちこちから客席のあいだを歩いて打楽器奏者が登場。赤緑青黄白のそれぞれ原色のカラー・シャツを着た五人の奏者が金属製の小さなシンバルのような打楽器の澄んだ音を響かせながら、指揮者の両脇やオーケストラの奥の位置に着く。そして様々な打楽器の音色がオーケストラの東洋的な響きと相俟って、水墨画のような「音世界」あるいは「音による時間」が流れ出る。
それは竜安寺の石庭の世界か。その石庭の風景が一瞬東北地方沿岸の津波の痕の被災地の光景にも映ったのは、オーケストラが不気味な音色を奏でたからか。またはベルリンフィルを指揮する直前の佐渡さんのコメントが頭に浮かんだからか。
「大震災後、音楽家として何ができるのか悩みました。が、とにかく自分ができる仕事を全力でやり遂げようと……。その結果、被災された皆さんが、少しでも元気になられるような演奏ができればうれしい……」
指揮者の左右に位置して和太鼓や木琴を打ち鳴らしていた二人の打楽器奏者が、ホールの高い天井近くまで伸びた細く長い幔幕のような五色の布を引き絞ると、天井近くにある風鈴のような楽器が優しい音をたてる。音楽とは本質的に、鎮魂であり救済でもある、と思える一瞬……。
始まりもなく、終わりもないような「音楽の時」がベルリンのホールから「流れ出る」。そして大拍手。「ブラヴォー」の声。ドイツの聴衆は耳が肥えている、現代音楽にも理解がある、とは聞いていたが、なるほど……と納得しながら、私は七〜八年ほど前に、佐渡さんと交わした会話を思い出していた。
「玉木さん、武満徹の音楽って聴く?」
「『弦楽のためのレクイエム』と『ノーヴェンバー・ステップ』は嫌いやないですよ。けど、谷川俊太郎の詩に音楽を付けた歌以外は、あんまり積極的に聴きたいとは思わんなぁ」
「やっぱり現代音楽って、取っ付きにくいもんね」
「そう。はっきり言うて難しい」
「うん。僕も最近までそう思てた。けど、このごろ武満さんの音楽がメチャメチャええと思えるようになったんやねん。武満さんの残した楽譜は、どれもほんまに素晴らしいでぇ」
いかにも佐渡さんらしい、あまりにも正直な京都弁の言葉に、私は少々苦笑いもしたが、それ以来私も、武満に限らず「現代音楽」に先入観なく耳を傾けるようになった。そして佐渡さんとベルリン・フィルによって創られた「武満の音による時空間」は、溜息をつきたくなるほどが美しいものだった。
休憩を挟んで二曲目はショスタコーヴィチ『交響曲第五番』。これは佐渡さんが自家薬籠中と言えるほど得意としている楽曲で、これまでに日本のオーケストラとも大名演と言える迫力ある演奏を聴かせていた。が、さすがはベルリン・フィル。天下一品のヴィルトゥオーソ(名人)オーケストラが、その技量を余すところなく発揮した音楽は、まったく新たな豊穣な世界を出現させた。
いや、その名人芸を佐渡さんが引き出したのだ。第一楽章冒頭の低音弦(チェロとコントラバス)と高音弦(ヴァイオリン)の強烈な響きの掛け合いも、冷たいロマンチックな悲しみに満ちたメロディも、激情的に狂おしい熱狂的なサウンドも、さらに第二楽章の木管楽器群の諧謔的な響きも、若き日本人コンサートマスター樫本大進による小洒落たソロも、すべてが見事な迫力に溢れていた。
そんななかでも素晴らしかったのが第三楽章で、これほど小さなピアニッシモの音が豊かに響くヴァイオリン群の音を、私は初めて耳にした。そして、そのトレモロをバックにしたフルート・ソロの美しいこと! 奏者はベルリン・フィルのメンバーでもあり、ソリストとしても有名なフランス系スイス人のエマニュエル・パユ。佐渡さんが司会をする『題名のない音楽会』にも登場したことのあるフルーティストで、武満の音楽でも冒頭のソロでオーケストラ全体を引っ張り、ショスタコーヴィチの「凍てついた哀しい世界」も見事に表現していた。こういう知人の存在は、ベルリン・デビューの佐渡さんにとって、大きな精神的援軍となったに違いない。さらにオーボエやクラリネットのソロも、息を呑むほどの美しさ!
そのうえ見事だったのは、この「ラルゴ」(幅広く緩やかに)と指定された楽章が、きわめて東洋的に響いたことだった。それは、けっして私の思い入れではないだろう。
ショスタコーヴィチの『交響曲第五番』は、我が国では『革命』という副題で呼ばれることもあり、一般的に第三楽章はロシアの革命前(あるいは民主化前)の苦難の世界を表すものと考えられている。また、ベートーヴェンの『運命』とも称される『交響曲第五番』にも比肩される「苦悩を抜けて歓喜に至る」西洋クラシック音楽の典型であり、あるいは、その二十世紀における再現とも考えられている。
しかし佐渡裕とベルリン・フィルの演奏は、ロシア人ショスタコーヴィチの音楽がさらに東洋への広がりを濃厚に有し、武満徹の音楽――石庭の世界、東洋の島国の被災地の世界――にもつながることを示していた。
そして第四楽章の壮大な歓喜! もはや東洋とか西洋といった限定された世界を打ち破り、インターナショナルで圧倒的な音量が爆発的にホール全体を包み込んだ!
音楽を言葉で理屈付けるのは、正しい方法ではないだろう。しかしベルリン・フィルという極めてユニークなオーケストラを、佐渡裕という、これまた極めて大きな個性に溢れる指揮者が指揮したのだ。しかも素晴らしい演奏で、武満徹とショスタコーヴィチの世界を響かせた。そうなると、その見事に感動的な演奏に涙し、「ブラヴォー」を叫び大拍手を贈るだけでなく、その出来事の「意義」に、深く思いを巡らせてみたくもなる。
佐渡さんは京都の小学校を卒業するときの文集に『大きくなったらベルリン・フィルの指揮者になる』と書いた。今年の5月13日で50歳になった彼のベルリン・フィル・デビューは、その子供のときの夢が叶った快挙と言える。が、もちろん、それだけではない。
佐渡さんは今年一月、彼が音楽監督を務める吹奏楽団シエナ・ウインド・オーケストラの20周年記念コンサートのゲストに、旧知の淀川工科高校吹奏楽部顧問の丸谷明夫氏を招いた。そして日雇い労務者が屯(たむろ)し、「演歌をヤレよ!」などと声が飛ぶ大阪釜ヶ崎で演奏会を行い、最後はそんな聴衆が涙で拍手を贈る丸谷氏のコンサートの様子を話し、讃えたあと、「こういう活動があることを心に抱いて、ベルリン・フィルの指揮台に立ちたいと思います」と語ったのだった。
ベルリン・フィルという頂点に立つ「夢」を果たす一方で、音楽活動の裾野を忘れない。それが佐渡裕という指揮者なのだ。
かつて作曲家で指揮者の山本直純氏は、3歳年下の小沢征爾氏に向かってこう言った。「自分は音楽の裾野を広げる。お前は世界を目指せ」。そして山本直純氏は愛嬌溢れる髭面でテレビ番組『オーケストラがやってきた』の司会を務め、「大きいことはいいことだ」と歌ってTVCMで人気を博す一方、小沢征爾氏はボストン交響楽団からウィーン国立歌劇場の音楽監督へと羽ばたいたのだった。
こんな「過去の時代」のエピソードがあるためか、我々「古いクラシック・ファン」は、音楽の「裾野を広げる仕事」と「世界を目指す営為」は二律背反、両立は困難……と考えがちだ。じっさいベルリン・フィル・デビューを果たした佐渡さんに向かって、「これからは仕事を選ばないといけませんね」と語った音楽ジャーナリストもいたらしい。が、多分それは過去の考え方なのだ。日本の音楽界が、まだ「世界に追いつこう」という意識で、がんばっていた時代の考え方に違いない。
そもそもベルリン・フィルというオーケストラ自体が、宮廷(王立)歌劇場管弦楽団などとは誕生の経緯自体が異なる大衆的な存在といえる。「フィル(ギリシア語で「愛する」)ハーモニー(英語で「調和」「和音」)」という「音楽を愛する団体」の誕生の経緯は専門誌に譲るが、ニキシュやフルトヴェングラーが主席指揮者を務めていた戦前から、ベルリン・フィルは工場や学校でのコンサート、ドイツ国内やヨーロッパの演奏旅行を繰り返した。そしてカラヤン時代に演奏旅行の範囲をアメリカや日本へ広げたのも、ベルリン・フィルの大衆化路線を推し進め、「世界のオーケストラ」としてクラシック音楽ファンと音楽マーケットの拡大に務めたものといえる。
さらにベルリン・フィルにはベルリンという都市の特殊性が加わっていることも忘れてはならない。1963年にフィルハーモニー・ホールが造られたときは、まだ「ベルリンの壁」がすぐ近くに存在し、同じ年にアメリカ大統領J・F・ケネディがベルリンを訪れ、有名な「ベルリン演説」を行った。
「すべての自由な人間は、世界中のどこに住んでいてもベルリン市民である。だから私も自由な人間の一人として、誇りを持って言いたい。イッヒ・ビン・アイン・ベルリナー(私は一人のベルリン市民である)」
当時の西ベルリン市民と西ドイツ国民に大きな感動を与えた名演説の精神は、「壁」のなくなった現在も生きている。ベルリンはドイツの首都という以上に国際都市、世界都市、未来都市として存在している。ブランデンブルク門のすぐ傍にユダヤ人大量虐殺を記憶に残す2711基もの棺桶のような石碑が並び、その近くにはナチスの犠牲になった同性愛者を追悼する碑も立っている。
そして何よりも世界中から音楽の名手が集まり、ユダヤ系ポーランド人(ダニエル・シュタブラーヴァ)やイスラエル人(ガイ・ブラウンシュタイン)や日本人(樫本大進)がコンサートマスターを務め、イギリス人(サイモン・ラトル)が主席指揮者兼芸術監督を務めるベルリン・フィルハーモニカーこそ、「世界都市ベルリン」の文化の象徴と言える。
だから既に、コンセール・ラムルー管弦楽団、パリ管弦楽団、ミラノ・ジュゼッペ・ヴェルディ管弦楽団、スイス・ロマンド管弦楽団、チェコ・フィル、ベルリン・ドイツ交響楽団、バイエルン国立歌劇場管弦楽団……等々、ヨーロッパの様々な一流オーケストラで数々の名演奏を残していた佐渡裕さんをベルリン・フィルが招いたのは当然のこととも言える。
少々乱暴に言えばニューイヤー・コンサートで日本でも有名なウィーン・フィルなら、どんな指揮者が指揮しても国立歌劇場(旧宮廷歌劇場)のオーケストラでもあるウィーン・フィルならではの「音と音楽」を奏でるだろう。が、世界都市ベルリンのフィルハーモニー(音楽を愛する)オーケストラは、指揮者の指揮に極めて敏感に反応するのだ。
佐渡裕さんが指揮したときも、彼の指揮棒に対するベルリン・フィルのあまりに鋭敏な即応に、心の底で「凄い!」と唸らされた部分が何か所もあった。が、それはとりもなおさず、無能な指揮者に対する無反応を意味するもので、佐渡さんのファンでもあり友人である小生としては、少々背筋に冷たいものを感じる一瞬でもあった。
しかし、もちろん佐渡さんは、そんな素晴らしくも怖ろしい世界超一流の「ワールド・オーケストラ」の指揮台に立ち、見事にそのメンバーを牽引してみせた。その素晴らしい演奏についてはドイツの新聞の演奏会評でも絶賛された。
『彼が夢見たオーケストラでのデビュー演奏会は大勝利となった。これは注目に値することだ。なぜならベルリン・フィルは、どのデビュー指揮者に対してもこれほど献身的に演奏するわけではないから……』(『ターゲス・シュピーゲル(日々の鏡)』紙より)
しかし評論家の批評以上に素晴らしかったのは、初日と最終日に拍手が鳴りやまず、オーケストラが退出したあと空になったステージに佐渡さんが呼び出されたことだった。残念ながら私の聴いた2日目だけはそこまで拍手は続かなかったが、心のなかには素晴らしい音楽がいつまでも響き続けた。
そして2日目の演奏会のあとにはフィルハーモニー・ホール近くにあるポツダム広場のドイツ料理店で、3日目(最終日)の演奏会のあとには少し離れた日本料理店で、それぞれ打ちあげのパーティが開かれた。
30人くらいの支援者やファンの参加したどちらのパーティも、いかにも佐渡さんにふさわしい心温まるパーティだったが、とりわけ佐渡夫人もテーブルに着いた前で、日本から来られた佐渡さんの両親が涙を見せられた最終日のパーティでは、思わずもらい泣きしそうにもなった。
それはさておき報道によれば、これまでベルリン・フィルを指揮した日本人は戦前の近衛秀麿氏以来14人。そのなかで特別演奏会や臨時の代役ではなく、定期演奏会に正式に招かれた指揮者は、小沢征爾氏、小泉和裕氏以来、佐渡さんで三人目。佐渡さんも、予定されていた指揮者が病気などの理由でキャンセルとなり、臨時の代役としてオファーを受けたことは過去に三度あったという。が、どれもスケジュールの調整がつかないまま見送り、悔しく残念に思いながらも、どうせ指揮台に立つのなら正式に定期演奏会の指揮者として招かれて……と思っていたところでの「夢の実現」だった。
「子供のときにベルリン・フィルの指揮者に……と書いたのは、別にベルリン・フィルそのものを指していたわけでなく、世界で超一流のオーケストラをという意味だったんですけど、それから40年たった今も、ベルリン・フィルがそのトップの座を維持し続けているというのは、考えてみれば凄いことだと思いますね」
と、佐渡さんは言う。
たしかに競争も激しく、政治や経済の影響もモロに受け、栄枯盛衰から逃れられない世界のクラシック音楽界のなかで、少年の「夢」が形を変えずに残っていたほうが、むしろ奇蹟と言えるかもしれない。その「夢」のまま存在し続けたベルリン・フィルの指揮台に立った気分は?
「練習のときから、ああこれが昔からレコードで聴き慣れた響きや……という感じで、本番の1日目は無我夢中のまま終わりました。2日目は確かな手応えというか、自分の棒で演奏ができたと思います。そして3日目の最終日は、何かが舞い降りてきたというか……別の世界に入るというか……。ベルリン・フィルと一つになって、音楽の世界に没入しました。もう最高の気分でした」
最高の気分はベルリン・フィルのメンバーも同じだったようで、彼らの多くは演奏会が終わると三日間ともビールに手を伸ばし、呆れるほどジョッキを呷(あお)り始めた。なるほど『デビュー指揮者に対して』『これほど献身的』な演奏をすると同時に、彼らがこれほど十分な「満足感」や「充実感」を得ることも珍しいことだったに違いない。
その佐渡さんのデビュー初日に、かつてバーンスタインの個人秘書を務め、今もニューヨークのバーンスタイン事務所で広報部長を務めているクレイグ・アークハート氏が訪れ、こう語った。
「レニー(バーンスタイン)はベルリン・フィルを一度しか指揮できなかったけど、きみ(佐渡)は三度は呼ばれるだろう」
その話を佐渡さん自身がパーティの席で披露し、それを聞いた誰もが喜んで拍手し、納得していると、佐渡さんが「寂しいなあ。あとたった三回だけかいな」と言って笑わせた。だから私が、「いや、十回くらいは呼ばれるでぇ」と京都弁で言うと、「それでもたった十回で終わりかいな」と京都弁で返され、日本から来ていたTVディレクターやカメラマン、靴職人さんや神戸のバーのマスター、それに佐渡さんがパリでお世話になった方々……等々、佐渡さんの「仲間」と呼ぶべき人々が全員、声をあげて大笑いしたのだった。
そんななかで、佐渡さんが小さな声で呟いた言葉を私は聞き逃さなかった。
「いつか、ヴァルトビューネで指揮したいなあ……」
それは毎年六月下旬、前年秋から続いた音楽シーズンの最後に催され、ベルリン市郊外のヴァルトビューネ(森の舞台)の広大な芝生席に一万人以上の家族連れやカップルが集まり、ビニールシーツを広げ、ワインを飲んだりサンドイッチをつまみながら音楽を楽しむベルリン・フィルの野外ピクニック・コンサート。1993年には小沢征爾氏が指揮台に立ち、最近はNHKも毎年放送しているので御存知の方も多いと思うが、いかにも佐渡さんにお似合いの「大音楽会」である。
高い「頂点」を極めると、じつはそこには広い「裾野」ともいうべき高原が広がっていた――というトポロジー的展開が可能なのは、世界都市ベルリンのフィルハーモニー・オーケストラと、佐渡裕というきわめてナチュラルな庶民的な指揮者の合体によって初めて可能な出来事と言うべきだろう。
まるで「出世双六」の成功譚のように語られることも少なくない佐渡裕のベルリン・フィル「頂点」デビューだったが、じつはそこには日本の音楽活動の「裾野」を再認識させられるような世界も広がっているのだ。そのことに気付かせてくれた佐渡さんとベルリン・フィルに感謝! 次はヴァルトビューネで! |