「あなたは、何度、見た?」
そんな文字が新聞紙上に大きく何度も踊ったのは、いまから約40年前、わたしが小学生から中学生になろうかというときのことだった。その宣伝コピーはけっして誇大広告ではなかった。ミュージカル映画史上不朽の名作といわれる『ウエストサイド物語』は、当時青春の真っ只中にいた人々(現在50歳以上の人々)なら、誰もが何度も映画館に足を運び、繰り返し見た。そして、その数を競ったりしたものだった。
そんな人々から少しばかり遅れて青春時代に突入したわたしも、いつもどこかの映画館で再映され、あるいは再々映されていた現代版ロミオとジュリエットを、中学高校時代に合計5回は見たように記憶している。
誰もがそれほど映画館に足を運んだのには、もちろん理由があった。それは『ウエストサイド物語』がミュージカルであり、しかもレナード・バーンスタインの作曲した音楽が、オペラともクラシックともいうべき複雑さと美しさを兼ね備えていたからだった。さらにジェローム・ロビンスの斬新な振り付けに目を奪われたからでもあった。どちらも、何度繰り返し聴き、何度繰り返し見ても、飽きることはなく、より感動が深くなった。
それは、30センチのLPレコード・サントラ盤だけでは満足できない感動だった。(映像のない)レコードを聴けば、なおさら映像に対する欲求が募り、もう一度見たいという気持ちが湧いた。そして誰もが考えた。『ウエストサイド物語』にかぎらず、どんな映画でも、レコードのように自宅で気軽に繰り返し楽しむことができれば、どんなに楽しいことだろう・・・と。
そのころ、自宅で見る映画といえば、現在大臣を務めている女優さんが、「私にも映せます」とニッコリ微笑んでテレビの宣伝に出ていた8ミリ・フィルムくらいしかなかった。名作映画とはほど遠い、見たくもない身辺雑記。隣のおばさんの笑顔や名前も知らない親戚の顔、生まれたばかりの近所の赤ん坊の泣き顔などを、襖や壁に映し出された暗いモノクロ画面で親父に見せられ、ウンザリする程度のものだった。
ビデオテープと称する新発明が出現したというニュースを耳にし、そのうち高校の視聴覚教室に導入されるようになったが、値段も大きさも、四畳半や六畳の畳の部屋が中心の「ウサギ小屋」にはとても収まるものではなかった。
ときおり「映画が趣味」という俳優さんや女優さんがテレビに登場し、自宅で映画を楽しむ様子が披露されたりもした。が、別室に大きな映写機が据え置かれた映写機室と、少ないとはいえ映画館と同じような椅子が数列並んだ部屋は、「家」とか「リビング」というよりも「ミニ映画館」か「試写室」と呼ぶにふさわしく、映画というものはそういう特別な場所で楽しむものであり、気軽に楽しめるものではない、という思いを強くしたものだった。
その後の時代の進歩には、改めて驚くほかない。新婚家庭に鎮座した一台30万円を越えるベータ・マックスで『ウエストサイド物語』を見たときは、感激してテープが擦り切れるほど何度も見たものだった。いちばん上の子供が小学校に通い出す頃にはビデオデッキを10万円台のVHSに買い換え、その他の名作映画も自宅で楽しみはじめた。と思ったら、次はレーザーディスク(LD)が登場。その映像と音の美しさに感激したのも束の間、子供の大学受験のころにはDVDが出現した。
いま、3人の子供たちは、それが当たり前のことだと信じて、自宅で映画を楽しんでいる。さらに、「見逃したから」「繰り返し見たいから」などといっては、気軽にディスクを買ってくる。LDの処分がまだ済まないのに、本棚はDVDであふれ・・・いや、子供のせいにばかりするわけにはいかない。わたし自身も、ディスク・ショップに足を運ぶたびに、「まだ持っていない名画」を買ってしまう。『アラビアのロレンス』と『JFK』と『ニクソン』はきちんと見たが、『風と共に去りぬ』や『クレオパトラ』は名場面をチャプターを飛ばして見ただけ。コッポラ、モンロー、ウッディ・アレン、黒澤、それに、ショーン・コネリーの007といったボックスも、半分は見たが、半分はまだ封も開けていない。
当たり前だ。自宅で見られるとはいっても、イッパシの働き盛りの男が、2時間も3時間もスクリーンの前にゆっくり座る時間的余裕など、そうあるものではない。ましてやスポーツライター・音楽評論家という仕事の性格上、見ておかなければならない映像だけでも山ほどある。それでもディスク・ショップに立ち寄ると、時間のないことなど忘れてDVDのディスクを買ってしまう。
VHSやLDにくらべて小さく、CDと同じ大きさが手頃なのか、廉価版が多く出回ったせいか、あるいは、若い頃に味わった飢餓感がそうさせるのか、はたまた、かつて一家に一組は必ずあった世界文学全集や日本文学全集が映画に取って代わったといえるのか・・・。理由は判然としないが、映画には「見る」だけでなく、「所有する」という欲望を掻き立てる要素もあることだけは確かのようだ。
その証拠に、本棚にずらりと並びはじめたDVDのケースの背表紙を眺めているだけで、思わずニンマリするときがある。ヘップバーンもクーパーも、ジョン・ウエインも三船敏郎も、ジュディ・ガーランドもブルース・ズラザースも、そこにいる。我が家に、彼らが、彼女らが、いるのだ。
もっとも、それが当たり前だと思っている子供たちは、背表紙を眺めてニンマリするわたしを見て、「チョーキモイ」などといって肩をすくめる。まあ、あと10年もしたら、ディカプリオやユアン・マクレガーの詰まったMS(ムーヴィ・スティック)を大事に持っている我が子に向かって、孫たちが「BB(ブロードバンド)で見ることができるのに、まだそんなもの持ってるの?」などというのかもしれない。そうして、「映画の所有」など、まるで意識しない時代が訪れるのかもしれない。いや、それでもやっぱり、孫たちも「映画を持ちたい」と思うのだろうか? |