「コンテッサ(伯爵夫人よ)、ペルドーノ、ペルドーノ、ペルドーノ(赦しておくれ)」
さんざん浮気を繰り返した好色漢の伯爵が、妻の伯爵夫人の前に跪(ひざまず)き、何度も謝罪の言葉を繰り返し、深々と頭を下げる。すると伯爵夫人は、こう答える。
「ピウ・ドチーレ・イオ・ソーノ(私は、素直で、お人好し)。エ・ディーコ・ディ・シ(だから、ハイと言いますわ)」
『フィガロの結婚』最終幕。最後の大団円となる合唱直前の対話の場面。モーツァルトのあらゆるオペラのなかで、最も美しいメロディが流れる名場面である。ミロス・フォアマン監督の映画『アマデウス』でも、舞台を見ていたサリエーリが、まるで天から降り注いできたかと思えるような美しい旋律を耳にして、猛烈に嫉妬する。
それほどの音楽の流れる場面だけに、(少々ツムジマガリの)わたしは、この伯爵の謝罪も、夫人の赦しも、どうも眉唾物だと思えてならない。いや、謝罪を口にしたときは、あるいは「本気」だったかもしれないが、伯爵の浮気癖が簡単に治るはずもなく、聡明な伯爵夫人がそれを見抜かないわけもない。そして、そのくらいの大人の心の機微に、モーツァルトが気付かないはずもない……。
だからアマデウスは、ドーショーもない人間のチョイトばかり美しい一瞬を讃えて、天上の音楽を贈ったに違いない。あまりにも出来過ぎた、美しい「嘘」の証拠として……。
じっさいボーマルシェの原作では、『セビリャの理髪師』『フィガロの結婚』に続く三部作の最後『罪ある母』で、20年後の伯爵夫人がケルビーノとの間に産まれた男の子レオンを、伯爵の子と偽って育てているのである(そのときケルビーノは、既に戦争に赴き、戦死している)。
そしてレオンは、フロレスチーヌと恋仲になる。フロレスチーヌは、伯爵が愛人との間につくった娘で、孤児と偽り伯爵家の養子として育てている娘である。
伯爵と夫人の間に産まれた長男は遊び人で、賭博のトラブルから死亡。そこで遺産相続の問題が持ちあがる。
伯爵は、夫人の不倫を怪しみ、レオンの父親がケルビーノではないかと訝(いぶか)り、レオンを軍隊に入れて排除したうえ、フロレスチーヌをアイルランド人の男と結婚させて遺産を相続させようと考える。
が、フィガロとスザンナの機転で、遺産の横取りを企んだアイルランド人の陰謀が暴かれ、レオンとフロレスチーヌはめでたく結ばれ、そして伯爵と夫人は互いの「傷」を認め合い、仲直りして、メデタシメデタシ……。
この貴族を馬鹿にした面白い筋書のドタバタ・スラップスティック・コメディが、モーツァルトの(あるいはロッシーニの)手によってオペラ化されなかったのは、ただただ残念というほかない。が、『フィガロの結婚』での不倫騒動が、『罪ある母』ではさらにヴォルテージをあげ、不倫貴族一家のハチャメチャ遺産相続劇となり、挙げ句の果てのハッピーエンド(?)の末に、伯爵は次のような台詞を口にする。
「互いの過ちを、昔の過失を許し合う時が来たのだ! 互いを遠く引き離していた激情に替わって、静かな愛情の訪れる時が! ロジーナ! 改めて夫の私から、お前のこの名前を呼ばせておくれ……」
ロジーナとは、もちろん『セビリャの理髪師』に登場する結婚前の伯爵夫人の名前である。そのキュートな若い女性に惚れ込んだ若き伯爵は、フィガロの知恵を借りて結婚することに成功するのだが、最後の最後で年老いた伯爵は、心からロジーナを愛していた若い時代に戻るのだ。いや、それは、老いさらばえた肉体で、ただ過ぎ去りし若い時代を回顧するだけのことかも知れない。
ボーマルシェの『罪ある母』は、モーツァルトの死の翌年(一七九三年)に完成したため、モーツァルトはその全容を知らなかった。とはいえ、人間の「真の結末」の有り様が「見えている」であろうアマデウス(神に愛でられし者)は、伯爵の謝罪と夫人の赦しに、あの「美しすぎるメロディ」を付けたに違いない(と、私は確信している)。
それは、アマデウス(神に愛でられし者)が、人間という生き物の存在のすべてを肯定していたから、と言えるのではないだろうか。人間の理想像や、あるべき姿だけでなく、その「すべて」を認めるというのは、圧倒的にラジカル(過激にして根源的)な行為であり、だからこそモーツァルトの音楽には、あらゆる人々が、いつの時代でも、魅せられ続けるのだろう。
(註・『フィガロの結婚』と『罪ある女』の台詞は『新潮オペラCDブック8モーツァルト・フィガロの結婚』(新潮社)に掲載されている永竹由幸氏と鈴木康司氏の訳を参考にさせていただきました)
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