「切れば血の出る音楽」というのは、こういう演奏のことをいうのだろう。
1990年6月24日。サントリー・ホールの客席に座ったわたしは、第1楽章冒頭のふたつの和音が、渾身の力を込めて、ジョワン・・・ジョワン・・・と掻き鳴らされた瞬間、思わず拳を握りしめ、座席から身を乗り出した。たったふたつの和音が、これほどまでの“驚き”と“熱”を伴って鳴り響いた例を、わたしは知らない。
そして、これからいったい何が起こるのか・・・と、胸をどきどきさせ、全神経を耳に集中させると、弦楽器群がゆったりしたテンポでうねるようにメインテーマをうたいあげた。微妙に大きく、微妙に小さく、まさに聴く者の魂を心の底から掘り起こすようにしてくり返されたそのメロディが、ついにフォルテッシモで爆発したとき、わたしは、すばらしい“解放感”とともに、ホール全体を揺るがす渦のなかに全身を浸らせたのだった。
しかも、この冒頭1分足らずのあいだに感じた“驚き”と“熱”は、全4楽章を通じて間断することなく、寄せては返す波濤のように、くり返しくり返し聴く者の全身の細胞を揺すぶりつづけ、わたしはすっかりこの演奏の虜になってしまったのである。
これまでに聴いたこともない遅いテンポが、変幻自在に揺れ動く。その中で一瞬、ハッと息をのむような沈黙の間が生じる。さらに第1ヴァイオリンの主題以上に第2ヴァイオリンやヴィオラの音色が前面に押し出されたり、思いもかけない部分でティンパニやホルンが雷鳴や嵐のように響きわたる・・・。
しかし、そのようなきわめて個性的な演奏は、けっして奇をてらったたぐいのものでもなければ、ベートーヴェンの残した記号を分解して再構築するというような実験的な試みでもなかった。
弦が切れるかと思えるほど激しく掻き鳴らされたヴァイオリンが、次の瞬間にはまるで真綿をそっと撫でるような優しさで響く。その傍らで、ヴィオラがふるえるようなおどろおどろしいトレモロを奏でるかと思えば、チェロとコントラバスの深々とした低音が、波打つようにうねる。これ以上は不可能と思えるほど、一音一音に情感をたっぷりとこめて演奏する弦楽器群は、まさに“人肌の響き”ともいうべき生きた音色で、聴く者の全身の皮膚を包み込んだ。
さらに耳を傾ければ、木管群が跳びはねるようにいかにも楽しそうな音色をリズミックに奏で、聴く者の筋肉をほぐす。そこへ、ティンパニが鋭く割って入り、金管群がまるでワーグナーの響きのように堂々たるメロディを吹き鳴らし、聴く者の心臓を鷲掴みにする。
それは、古典的な形式を次々と打ち破り続けたロマン派ベートーヴェンの究極の響きともいうべき、きわめて人間的で感情的なサウンドだったのである。しかもその一方で、最終楽章の最後の和音が鳴り響いたあと、わたしは、この演奏が『英雄』という名の標題音楽に堕していないことに、驚嘆しないわけにはいかなかった。
最近は、シンフォニーといえばマーラーやブルックナーなど、世紀末ロマン派の多様で錯綜した重厚な響きに人気が集中し、ベートーヴェンは古典派原典主義ともいうべき演奏が主流派をなしているようにも思われる。
なるほど、この第3交響曲の第1楽章のテーマが、モーツァルトの初期のオペラ『バスティアンとバスティエンヌ』のメロディと酷似していること(あるいは模したともいわれていること)からもわかるように、そこからバロックの気品を読み取り、味わうことも可能だろう。が、宇野功芳氏と新星日本交響楽団の面々は、そのようなある意味で古色蒼然たるプロセニアムアーチを完膚なきまでにぶちこわし、ベートーヴェンの書き残した記号のベクトルのなかから、はっきりとその矢印の先端の示す方向をつかみ出し・・・すなわち、ベートーヴェンの“現代性”を、見事に引き出し、提示したのである。
もっとも、わたしはこの演奏がライヴ録音としてCDとなって発売されると聞いたとき、少なからぬ危惧を抱いたことも事実である。
あのときの感動は、ライヴならではの時空間が生み出した衝撃であり、はたして手軽にくり返し耳にできる環境のもとで、しかも微に入り細を穿つ現代テクノロジーの録音技術のもとで再生されたならば、また違った印象になることは否めない、と思われたのだ。
しかし、そのような先入観がまったくの杞憂にすぎなかったことは、このCDを手に取られたみなさんがすでにお気づきのことと思う。たしかにライヴで聴いたとき以上にオーケストラの乱れが耳に入ってくるとはいえ、宇野功芳氏と新星日本交響楽団のこの演奏にかける情熱には、それを補って余りあるものがある。そしてこの演奏をくり返し聴けば聴くほど、ベートーヴェンの深みに引きずり込まれ、他のベートーヴェンの諸作品や、他の演奏家の手によるベートーヴェンまで聴き直したくなってくる。
さらに、このCDに価値があるのは、それほどの情熱にあふれた演奏が、いったいどのようにして生み出されたのか、という疑問を解く鍵が付されていることだ。
交響曲第9番のリハーサルの冒頭で、宇野氏は、オーケストラの面々を前にして、次のように語りかけている。「お客さんが、胸がじーんとしたり、わくわくしたり、興奮したり、そういう第9にしたいと思います・・・」
つまり宇野氏は、オーケストラのメンバーとはもちろんのこと、聴衆とも一緒に、音楽を楽しもうとしているのだ。
これは当たり前のことのようでいて、じつは、そうではない。CDを聴いたり、演奏会場に行ったりしたときに、指揮者の“解釈”を押しつけられたり、演奏家の技量を見せびらかせられたりすることの、いかに多いことか・・・。
そんななかで、きわめて個性的な『英雄交響曲』が、まったく自然にわれわれ聴衆の身体をふるわせてくれるのは、そのような鼻の高い音楽家とは対極の立場に立つ宇野氏の、純粋に音楽を楽しもうとする姿勢に裏打ちされているからに違いあるまい。
最後に、こんな素晴らしい演奏を聴かせてくれた宇野氏と新星日本交響楽団のみなさんに、わたしは、この場を借りて心から感謝の意を込めた拍手を贈ると同時に、数多のナチュラルな音楽ファンとともに、次回作に期待したいと思う。
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