一人の歌手が亡くなった。名前は浅川マキ。彼女のことを話そうとすると、おそらく誰もが「自分史」の一部を語ることになる。
初めて知ったのは1970年頃のテレビ画面。既にカラーだったが、記憶はモノクロ。常に黒いドレスと長い黒髪で「夜が明けたら一番早い汽車に乗るから……」と切なくも芯の強い女の心情を語っていた。
「さよなら お嫁に行っちゃうんだろう 今更気にするのか俺を……」と男の心情も唄い、「僕ぁ幸せだなぁ……」と男が女性的な感情を吐露する時代に、確かな女の存在感を示していた。
72年、無期スト中の大学に入学して上京した私は、間もなく某新聞で記事を書くようになり、黒テントの佐藤信に続いて浅川マキにインタヴューした。彼女は「アングラの女王」などという言葉とは程遠く、唄うという行為を自分の言葉で繊細に分析した。
「美空ひばりは幼い頃からヴァイブレーションの使い分けが天才的だったわね。ビリー・ホリデイも同じ。だけど、色が違う。ピアフは低音で色をつける。ジャンゴのギターは……、ジョン・レノンは……」
そんな言葉に接したのは、彼女の事務所に通い始めてからのことだったかもしれない。別れ際に「バイトしない?」と誘われ、中央線沿線のジャズ・スポットや新宿蠍座や神田共立講堂でのコンサートのとき、行列をつくる客の整理やチケットのモギリを手伝うようになった。
印象深く記憶に残っているのは、ATGの映画上映の他に清水邦夫や唐十郎の芝居を蜷川幸雄などの演出で上演していたアートシアター新宿文化での大晦日徹夜コンサート。400人足らずのキャパに千人近い聴衆を詰め込み、警察から睨まれた。通路も立ち見のスペースも埋まり、ロビーに溢れた大勢の客は車座になって酒を酌み交わし、ドアから漏れ響くジャズともシャンソンともブルースともロックとも演歌とも聴こえる彼女の歌声や、バックを務める超一級のミュージシャンたちの演奏に耳を傾けた。ダフ屋のヤクザも売れ残った切符で車座に加わった。
やがて大学を中退するとき、彼女は駒場寮の一室で開いたコンサートに出向いてくれた。25畳ほどの広さの四人部屋の汚い家具を運び出し、すし詰め状態の百人余りの学生は一升瓶を喇叭飲み。野次と怒号と大合唱のなか、あるいは沈黙が支配して男の啜り泣きが微かに響くなか、彼女はピアノと二本のギターで四時間近く唄い通した。それが私の最後の浅川マキ体験だった。
「もっと紫色の音にしてちょうだい」最近のコンサートで、彼女は音響スタッフにそういったという。彼女は死の直前まで歌をつくり、唄い続けた。その生涯の時々に接した人々の「自分史」を、すべて持ち寄ったとき、初めて浅川マキという歌手の全体像が朧気にでも立ち現れるのかもしれない。歌の力をそこまで示した歌手は、そうはいないだろう。合掌。
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