「あらゆる名声とは誤解の総体である」
と、見事に言い切ったのは、名作『マルテの手記』などを残したオーストリアの詩人リルケだった。言い得て妙というほかない。
この言葉に従えば、ベートーヴェンという大作曲家と、彼の作品にまつわる名声も、「誤解の総体」ということになる。
最近、指揮者の金聖響さんと共著で『ベートーヴェンの交響曲』(講談社現代新書)という本を上梓した(おかげさまで重版を重ねていますが、まだお読みでない方は、是非ともご一読下さい)。そのなかで聖響さんは、音楽史上最高の「名声」を獲得していると言えるベートーヴェンの交響曲にまつわる我々の「誤解」(先入観)を、片っ端から否定してくれた。
たとえば……、奇数番号の交響曲は男性的で、偶数番号の交響曲は女性的であること……、第1番と第2番はハイドン、モーツァルトの影響が大きい古典的な作品であること……、第3番『英雄』でベートーヴェン独自の特色が出始めたこと……、第9番がフランス革命とつながりを持つ政治的社会的意味合いがあること……等々。
それらの「誤解」を否定し、ベートーヴェンの交響曲は第1番から十分にベートーヴェン的であること……、とりわけ第2番が「革命的」新しさに満ちていること……、偶数番号の2番も4番も8番も存分に力強さや迫力に満ちていること……、第9番は政治や社会とのつながり以上に、ベートーヴェン自身の個人的宗教心(祈りや解脱への願望)に満ちていること……を、聖響さんは語ってくれた。
もっとも、共著者である彼の意見を否定する気は毛頭ないが、冒頭に紹介したリルケの「箴言(しんげん)」に従うなら、ベートーヴェンの交響曲に対する「名声」の一翼を担う彼の意見も、「誤解」の一部分に過ぎない、ともいえる。
では、何が「正しい」のか? その解答も、指揮者である聖響さんは、はっきりと答えてくれた。
それは、「ベートーヴェンの残した楽譜」だけだと……。
ところが、音楽の楽譜というのは、はっきり言ってなんとも曖昧なもので、フォルテッシモにしろ、ピアニッシモにしろ、どれくらいの音の大きさが「正しい」のか、まったく判然としない。十六分音符の連続にしろ、1個の四分音符や二分音符にしろ、それをどのくらいの速さや長さで演奏すればいいのか、それすらも、明確ではない。そのうえにフェルマータがついていれば、なおさらだ。
おまけにベートーヴェンは相当に悪筆なうえ、自ら「ラプトゥス」(狂気)と自称した精神状態で、次々と頭のなかに浮かんだ楽想を、猛スピードで書きまくったという。羽根ペンにインクをつけて書かれたその自筆の楽譜は読みづらい部分が多く、五線の上に2本の線がほぼ平行に書かれていて、クレッシェンドなのかデクレッシェンドなのか、あるいは何かを消そうとして引いた線なのか、そんなことすら見分けのつかない部分まであるという。
つまり、乱暴に言い切ってしまうなら、ベートーヴェン(の交響曲)は、あらゆる点で大きな名声(すなわち「誤解」)を得ることのできる要素に充ち満ちているのである。
これほどのファクターが重なれば、ゲーテやシェークスピアが逆立ちしてもベートーヴェンの世界的名声には太刀打ちできない。バッハがいかに偉大で、モーツァルトがいかに天才と言われても、また、ビートルズの『サムシング』やジョン・レノンの『イマジン』が地球を覆う電波に乗って流れても、♪ジャジャジャジャ〜ン(ソソソ♭ミ〜)という単純な四つの音の響き以上には知れ渡っていない。
それほどの大きな誤解、いや、大きな名声を獲得している音楽だから、いつか、どこかで、必ず、地球上に暮らす全ての人々の耳に跳び込んでくることになる。映画やテレビ番組のBGMとして、あるいは隣家や近所のオーディオ装置から……。私の場合は、自宅が電器屋だった関係で、店で売っているステレオ装置の販売促進用についていた試聴盤の17センチEPレコードだった。
ニュー・パーカッション・オーケストラ(というワケのわからない楽団)による『ブロード・ウェイの子守歌』やハリー・ベラフォンテの歌う『ママ・ルック・ア・ブーブー』という歌や、アーサー・フィードラー指揮ボストン・ポップスによる『嫉妬』という音楽や、ステレオ効果を味わう汽車の走る音などとともに入っていた♪ジャジャジャジャ〜ンという音を、小学校の低学年のときに初めて聴いた衝撃は、いまも忘れられない。それは、生まれて初めての音のみ(音楽のみ)による衝撃ともいうべき体験だった。
なるほど、これがベートーヴェンの音楽というものか……。と思ったものの、その後も、衝撃は止まずに続いた。
というのは、最初に聴いたフリッツ・ライナー指揮シカゴ交響楽団の♪ジャジャジャジャ〜ン…とはまったく異なる♪ジャジャジャジャ〜ン…を次々と耳にしたからだ。もちろん、その衝撃は、現在も繰り返し続いている。
それもまたベートーヴェン(の交響曲)の「名声」の結果であり、それをすべてリルケの言葉に従って「誤解」と言い切ってしまうのは、さすがに再現音楽家(指揮者)に対して無礼が過ぎるかもしれない。が、ベートーヴェンの音楽に、止むことのない衝撃の連続を豊かに生み出すパワー、すなわち、名声(誤解)を次々と生み出すパワーが存在していることは大いに喜ぶべきだろう。あらゆる衝撃にも、あらゆる名声(誤解)にも、そこには、ベートーヴェンならではというほかない響き、ベートーヴェン以外にはありえない音が存在しているのだから。
こうして考えてみると、音楽家(作曲家)というのは、じつに幸せな存在だと言えるように思える。何しろ、作品に対するあらゆる「誤解」が、その作品の豊かさにつながるのだから。もちろん、そのような「誤解」を生むほどの見事な作品を生み出す労苦は大変なものだろう。が、文字を操る人間が、「あらゆる名声とは誤解の総体である」などと皮肉な箴言をひねくりだして斜に構えなければならないことに較べれば、「誤解」が豊かさに直結するオタマジャクシを並べる作業というのは、羨ましい限りと言うほかない。
そんな思いは、私自身が文字と格闘する毎日を過ごしているからで、並べて例にあげるのも烏滸(おこ)がましいが、トルストイが音楽家の不倫を描いた『クロイツェル・ソナタ』を書いたのも、ロマン・ロランがベートーヴェンをモデルにした音楽家の一生を描いた『ジャン・クリストフ』を書いたのも、その心の裏には、音楽家(作曲家)に対する羨望とコンチクショーという気持ちが存在したからに違いない。
とはいえ、物書きにとって、さらに羨むべき存在は、再現音楽家(指揮者)である。何しろ彼らは、自らの誤解(失礼!)から、作品をさらに豊かにし、偉大なものにし、その名声をさらに広め、聴衆を感動させるという魔法を駆使できる魔術師なのだから。
はてさて、ベートーヴェンの第1番から第9番まで全ての交響曲が連続して演奏されるという今宵、コバケンこと小林研一郎なる魔術師は、いったいどんな魔法を使ってどんな「ベートーヴェン像」を出現させてくれるのだろう? 「全曲奏破」という魔術師にとっては大変な一夜、聴衆の皆さんは、日頃羨ましく思っている魔術師を今宵だけは羨ましく思うこともなく、その激奏のサポーターとして「全曲聴破」の客席に座られるのだろう。
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