コラム「音楽編」
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掲載日2009-02-12
この原稿は、昨年(2008年)12月31日東京文化会館で催された『ベートーヴェンは凄い!全交響曲連続演奏会2008』というコンサートのパンフレットに寄稿したものです。歳末正月年越し気分も抜けたようですので(今頃何言うてるねん!・笑)“蔵出し”します。

ベートーヴェンの『天の時、地の利、人の和』

 ある音楽解説書を読んでいると、次のような一文に出くわした。
《声楽付の交響曲はベートーヴェンの第九(1824年)が最初というわけではない。ゲオルク・ヨーゼフ・フォーグラー(1806年)やペーター・ヴィンター(1813年)など、多くの作曲家がいくつもの声楽付交響曲を発表していた》

 フォーグラーもヴィンターも、私のまったく知らない名前だが、少し大きな音楽事典を開けば載っていたから、ベートーヴェンの同時代人としては、けっこう名のある音楽家だったようだ。

 さらにその音楽解説書には、次のような文章も書かれていた。
《シラーの『歓喜の寄す』が発表されて(1785年)ベートーヴェンの第九がつくられるまでの約40年間のあいだに、多くの作曲家がこの詩に音楽を付け、その数は40曲以上にのぼるとの研究報告もある》
 このような文章を読むと、脳の奥のほうに小さな衝撃を感じる。

 なぜ「小さな衝撃」かというと、その「事実」に気づいた直後、それはあまりにも当然のことと思い直すことができるからだ。
 つまり、ベートーヴェンの時代にも、じつに多くの作曲家が存在し、じつに多くの楽曲が作られていた、という事実に「小さな衝撃」を感じるのである。

 その作曲家と楽曲の数とは、いったいどれくらいだったのか? それは、まったく想像もつかない。天文学的数字とまではいかないまでも、一人一人、一曲一曲、数えあげることのできるような数字ではないだろう。

 ちなみに、オペラ評論家の永竹由幸氏の貴重な研究に、シェークスピアの作品を原作とするオペラやミュージカルを調べあげたものがあり、そのなかで『ロミオとジュリエット』は、1776年のゲオルク・ベンダ(という名の作曲家)から1970年のマトゥスチャクまで、33人の作曲家の手によって、33作品もつくられている、という事実がある。

 その33人の作曲家のなかで小生が名前を知っているのは、ベッリーニ、グノー、ザンドナイ、バーンスタインの4人くらいなもので、もちろん、それ以外の名前も知らない作曲家による『ロミオとジュリエット』の音楽など、まったく聴いたこともない。

 オペラ『ハムレット』も23作品あるらしく(小生が名前を知っている作曲家はトマのみ)、ベートーヴェンもピアノ・ソナタにその名を残した『テンペスト』となると、41作品もオペラ化されているそうだが、その作曲家の名前は一人も知らず、その作品が最近舞台にかけられたり、演奏されたということも、寡聞にして聞いたことがない。

 莫大な手間と経費のかかるオペラでも、過去約300年の近代音楽の歴史のなかでは、これほど数多くの作品(シェークスピア原作のオペラだけでも250作品以上)が生み出され、そして、いつの間にか忘れ去られていったわけで、それが交響曲となると、その消えていった数は半端な数ではなくなるだろう。

 なにしろハイドン一人でも101曲、モーツァルトでも41曲ものシンフォニーを書いたのだから、300年間のあいだにいったい何曲の交響曲が生まれ、消えていったのか…。その数万曲、いや、数十万、数百万、(数千万?)の楽曲は、ほとんどすべてが一度はコンサートで演奏(初演)されたに違いない。そして、そのほとんどすべてが、今では演奏されなくなってしまったのだ。

 そんななかで、ベートーヴェンだけは、彼が書き残した9曲すべての交響曲が今も繰り返し演奏されている。さらに彼の生まれ育った時代や土地(ドイツ、オーストリア)からはるかに遠く離れた200年後の極東の島国で、「一夜全曲演奏」などという演奏会まで開催される事実には、改めて驚嘆せざるを得ない。

 それは、とりもなおさずベートーヴェンという作曲家の頭抜けた天才性を示す証拠であり、他の作曲家の作品とは比肩すべくもない彼の作品の完成度の圧倒的な高さを証明するものというほかない。が、いったい何故、ベートーヴェンという人物は、これほど凄い驚異的な作品を、9曲も創造することができたのだろう?

 それにはベートーヴェンという一人の人間の「生」を形づくったすべてのファクターが作用しているわけで、もちろんこの場で書き尽くすわけにはいかない(この場でなくても書き尽くせない)だろう。が、ならば、手っ取り早く、「天の時、地の利、人の和」という言葉が思い浮かぶ。

「天の時」――フランス革命とナポレオン戦争により、ヨーロッパは中世貴族社会から近代市民社会へと、有史以来最大ともいえる時代の転換を迎えたときだった。ウィーン市内に入城したナポレオンを見たヘーゲルが、「歴史が馬に乗って行進している」と呟いた時代、その巨大な時代の波に乗って、ドイツでは若きゲーテを中心に「疾風怒濤」と呼ばれる文学(芸術)改革運動も起こった。ベートーヴェンは、そんな時代に生まれ、生きた。

「地の利」――もしもベートーヴェンがイタリアに生まれていたなら、その音楽的才能は伝統的オペラの創作、あるいは改革に費やされるに留まり、ロッシーニ、ドニゼッティ、ベッリーニの存在を消し、ヴェルディを先取りするほどの作品群を生み出したかもしれない。が、国境を越え、民族を超え、人種を超えて、すべての地球人の魂に響き渡るほどの「絶対音楽Absolute Music」を生み出すことができたとは思えない。

 もしもベートーヴェンがフランスに生まれていたなら、革命運動に走ってギロチンの露と消えたか? あるいはナポレオン軍の一兵卒として突撃し、早々と銃弾に倒れていたか? アメリカに生まれても、彼の激しやすい性格ならば、独立戦争の銃をとっていただろう。ロシアに生まれていたならウォッカの臭い漂う酒場のピアノ弾きか? 冗談はさて措き、ベートーヴェンが、ハイドン、モーツァルトが音楽の古典形式を築いたあとのドイツに生まれ、オーストリア(ウィーン)に生きたという偶然の事実に、21世紀に生きるすべての地球人は感謝するべきだろう。

 そして、「人の和」――。ここで、キイボードを打つ指がハタと止まる。
「天の時、地の利、人の和」とは、もともと孟子の言葉で、「天時不如地利。地利不如人和」が原典である。つまり、何か大事を為す場合、「天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず」で、物事を成就するには「人の和」が何よりも大切だと説いている。

 これは、ナポレオン(のような軍略家、政治家)にこそふさわしい言葉であり、ベートーヴェン(のような芸術家)には、あてはまらない言葉かもしれない。
 しかし、ぼさぼさの髪の毛で、ボロボロの服を何日も着替えてないような外見から、ゲーテに「度し難い野人」と呆れられ、演奏会の途中に私語を交わした貴婦人に向かって「豚に聴かせる音楽はない!」と激怒したベートーヴェンも、「人の和」をまったく無視していたわけではあるまい。

 そのことは、彼の音楽に耳を傾ければ理解できる。彼の書き残した楽譜こそが「人の和」を求め、そこから響く音楽こそが「人の和」を形づくることに成功している、といえるのではないだろうか。

 たしかに彼は孤高の作曲家だった。が、聴衆に理解されない音楽、聴衆の胸に響かない音楽は、いくら高尚でも、論理的でも、理知的でも、斬新でも、大衆に受け入れられることはない。大衆に受け入れられない音楽は消えていくのみである。さらに、ある時代にのみ受け入れられて、別の時代になると受け入れらなくなることもある。そんな「時の篩(ふるい)」にかけられて、多くの音楽作品が忘れ去られていった。

 そういえば21世紀の現代にも(あまりにも卑近な例で申し訳ないですが)、若い頃からコンビニでアルバイトしながらロック・バンドの演奏に打ち込み、いつの間にか店長になって結婚もし、子供もできた今になっても、「やがて俺の音楽が受け入れられる時代が来る」などと豪語しながらバンド活動を続けている中年ロッカーもいる。

 しかし、ベートーヴェンは、発表した交響曲の9曲すべてが、その生み出された当時から(わずかな批判はあったが)多くの人々に評価され、受け入れられた。そうして200年間もの長い「時の篩」にかけられてもなお生き残った。いや、それどころか、その評価はさらに高まり、さらに多くの地球上の人々に愛されるようにまでなった。

 それはもはや「奇蹟」というほかない出来事で、ベートーヴェンの9曲の交響曲には、時空を超えて「人の和」を生み出すという「奇蹟」を実現するパワーが秘められているのだ。
 もしも音楽のジャンルに「世界遺産」の認定登録制度が存在するなら、ベートーヴェンの9曲の交響曲がまず真っ先に認定され、登録されるに違いない。

 その9曲が、一つの巨大な作品として一夜で演奏されるとき、そこには、さらに大きな「ベートーヴェンの世界」が現前されるに違いない。そこに現れる「世界」とは……。それは、それを聴いた人たちだけに「見える」世界というほかない。

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