人類は、アフリカ大陸の大地のうえに誕生した。そして、全地球上へと広がっていったという。そこから誕生した人間の文明は、まず中央アジアのど真ん中の草原地帯で産声をあげた。その文明は、文字を持たず、定住もしなかったため、今日では、どのような文明だったかを知ることはできない。が、そこから文明は四囲に広がり、黄河、インダス、メソポタミア、エジプトという古代の四大文明を生み出したという。
以来、時は流れ、野獣の走りまわっていた大地には道路と鉄道が張り巡らされるようになり、自動車や電車が走るようになった。鳥の飛んでいた大空には、飛行機やロケットが飛ぶようになり、人類は宇宙空間をも手に入れた。そして地球は、電磁波とケーブル線で覆われ、あらゆる人々がネットワークで結ばれるようになった。
そのような時の流れと文明の発展を、一般的には「前進」「進歩」「進化」といった言葉で表している。が、ほんとうに「前へ進んでいる」のかどうか、じつのところは、よくわからない。四次元の宇宙の時空間では、どっちが「前」で、何が「進化」なのか、はっきりと断定できる人など存在しないはずだ。
とりあえず、「前」であると仮に定義している「未来」に向かって、人間は休みなく歩み続けているだけだ。あるいは、歩んでいる方向を「前」と名付けているだけのことだ。「前」と仮定し、あるいは、名付けた、その「未来」への変化を、「前進」とか「進化」と称しているだけのことなのだ。
そんないい加減な「歩み」を続けているためだろうが、時折、誰もが、不確定な未来に不安を感じ、ふと立ち止まりたくなる。さらに、「進化」のスピードばかりが速くなり、騒々しさばかりが増した「現在」に、虚しさと疲労感を感じ、歩みを止めたくなる。そして、「過去」を振り返る。
もっとも、歩みを止めたからといって、充足感を得ることができるわけではなく、振り返ってみた「過去」とて、さほど輝かしいものではない。それでも、「未来」と「現在」に絶望したとき、人々は「過去」を美化して、ノスタルジーに浸る。
その程度の慰めに浸ることしかできない凡人にとって、アーティストの存在は、文字通りの「救いの神」といえる。
詩人、音楽家、画家、彫刻家・・・たちは、わずかな言葉、わずかな響き、わずかな色彩、わずかなオブジェのなかに、別乾坤を築きあげる。その世界こそ、われわれ人間が、真にすすむべき「未来」であり、同時に、真に振り返るべき「過去」といえるだろう。
一噌幸弘の能管の響きに耳を傾けるとき、われわれ聴き手の周囲の空間は、なんとも名状しがたいノスタルジックな空気に包まれる。
それは、断じて、現実に存在した「過去」ではない。すなわち、伝統音楽などではない。ましてや、コンピューターに支配され、人類の火星移住を考えるような「未来」の響きでもない。人間が、真に住まうべき空間、真に呼吸すべき空気、真に浸るべき雰囲気。そんな空間が、一噌幸弘の笛の響きから出現する。
そのため、われわれ聴き手は、名状しがたい「懐かしさ」を感じてしまうのだ。そうなのだ! この音の響く空間こそ、われわれが真に探し求めていたものなのだ・・・と。
話を、音楽の世界だけに限るなら、一噌幸弘の音楽は、古典と現代、あるいは、古典と未来の融合、といえるのかもしれない(なんと陳腐な言葉だろう!)。さらに、中国、西域アジア、メソポタミアやトルコ音楽との交接・・・といえるのかもしれない(だから、どうだというのだ!)。
しかし、一噌幸弘の奏でる響きは、そんな音楽批評の世界にとどまらない。音の世界を突き破り、「絶対的ノスタルジー」ともいうべき空間を創り出す。
かつて、渡辺香津美や山下洋輔らのジャズ・ミュージシャンたちとセッションしたときも、ただ「能管でジャズを奏でる」という方法論的面白さにとどまることなく、一噌幸弘の響きは、見事に素敵な「新たな空間」を生み出していた。
それは、日本人の深い記憶に残る原風景ともいうべき世界、山や川のある盆地、「うさぎ追いし彼の山、小鮒釣りし彼の川」と歌われた光景――が、現代の都市のど真ん中にちらりちらりと出現するような瞬間でもあった。
が、ヴァイオリンとベースのインプロヴィゼーションと見事にマッチしたこのアルバムでは、空間は、さらにはるかに雄大なものとなった。
その音は、西アジア的音階や、奏法上の驚嘆すべき技巧をはるかに超越し、人間の文明の故郷、または、人類の古里へと迫っているようにも聞こえる。
恐るべし、一噌幸弘!
このような音楽家が存在することによって初めて、われわれ日本人の未来は安心できる。いや、一噌幸弘の音楽を聴くことによって、わたしたち人類は、ほっと一息つくことができる、というべきだろう。ああ、この世に生まれてよかった、生きてよかった、と・・・。 |