「ねえ。誰かが家の前で音楽してるよ」野溜子(のだめこ)が突然おれの書斎に現れて言った。書斎は裏庭に面しているので前の通りの音はほとんど聞こえない。それでもかすかに地底から地面を揺るがすような低音が響くのを感じたので、おれは野溜子に言った。「この部屋でじっとしていなさい。動くんじゃないよ。あんな音楽、聴くんじゃないよ」
また低劣な路上音楽家たちの自己主張か。今若者の数が減っているというのに真面目に働きもせず勿体ないことだと少し悲しい気分になり、襖を開けて二階の廊下に出ると早くも数多くの八分音符や十六分音符がゴム弾のようにひゅんひゅんと体に降り注いできた。おれは少し威力に欠けるそれらの蝌蚪(おたまじゃくし)や八分休符やフォルテッシモを掌(てのひら)でぱらぱらと叩(はた)き落としながら表通りに面した八畳の洋間のドアの前まで足を運び、ノブに手をかけた。
ドアはどんどんどんと地響きのような音とともに振動し、その隙間からは四分音符が次々と飛び込んでくる。それを追うようにして二本の尾鰭で長く列(つら)なった三十二個もの十六分音符の蝌蚪が、にゆうにゆうにゆうと海蛇のように何本も滑り込んでくる。こなくそ。負けてなるものか。ドアを蹴破り二階の窓から空気銃をぶっ放して奴らの劣悪な音楽を止めてやる。
おれはノブを握りしめたまま一旦ドアから体を離し、あいやと一声叫んで腹筋と太腿と脹脛(ふくらはぎ)に力を込め、肩からドアに体当たりした。うわ。転がり込んだ八畳の洋間は天井と床と四面の壁に囲まれた直方体の空間が、暴れ回る音楽記号で隙間なく埋め尽くされていた。その無数の八分音符や十六分音符は一瞬静止したあと、おれが開けたドアから廊下に向かって一気に勢いよく流れ出した。路上では元気の良い蝌蚪の群れが次々と生み出され舞い上がっているようで、表に面した部屋の窓から新たな奔流となって流れ込んでくる。
「誰だ。窓を開けっ放しにしたのは」
「お父さんが生きていてくれたらねえ」と呟く母親の和服姿が思い出されたが、今はそんな状況ではない。過去を振り返る余裕などない。与えられた原稿の枚数は少ないのだ。
おれは蟻の一穴が大きく広がって決壊寸前となったダムから勢いよく流れ出すような激流に逆らい、押し寄せる音楽記号をぐるぐる回した両腕で右に左に荒木又右衛門の二刀流のように払い落とし薙ぎ倒し蹴散らしながら前へ前へと足を踏み出した。それでも全身に打ち寄せる記号の威力は凄まじく、鼻の穴に入った全音符で息が苦しくなり、口を開くと八分休符が歯にひっかかり舌を使ってもとれなくて困り、四分休符がちくちくと体のあちこちを刺し、フェルマータが剃刀のように皮膚を切り、思わず伏せて匍匐前進しながらやっとの思いで窓まで辿り着いた。
窓枠に手をかけ周囲を見回したが、いつもは鴉を撃つため窓の下に立てかけてあるはずの空気銃が何故か見つからない。ちくしょう。作者が書き忘れたか。今更作者を非難しても仕方ないのでおれは体を引き起こし腕を伸ばして窓の横の吊り戸棚に飾ってある高さ二十六センチの瀬戸物の白い梟の置物を鷲掴み、目の不自由な人滅法窓の外へ投げつけた。
びぎょぎょぎょぎょよん。梟の置物は六弦エレキベースの最低音弦を直撃したらしく、踏み殺された殿様蛙のような断末魔の音を響かせた。音楽が止んだ。これで新たな蝌蚪が生まれることもないだろう。いい気味だ。窓から外を見下ろしたが誰もいない。瀬戸物の白い梟だけがこっちを見上げて黒いアスファルトの上に仰向けに転がっている。ホウと一声啼いたようにも思えた。静かだ。良い静寂だ。そうだ。沈黙と測りあえる音しか音楽とはいえないのだ。それが誰の言葉だったか思い出そうとした瞬間、おれは野溜子のことを思い出し、慌てて踵(きびす)を返して廊下
を走り書斎へ戻った。
ぐわ。おれは絶句した。畳の上に倒れた野溜子が両手で喉を掻きむしり藻掻き苦しんでいる。火男(ひょっとこ)の形状をした可愛い口からは長く列なった十六分音符の端っこの六連符ほどの蝌蚪が海蛇の尻尾のように食(は)み出し跳ね踊っている。悪魔の三十二連符か。「No!だめ。呑むなよ。呑み込むんじゃないぞ。がんばれ。おれが引っこ抜いてやる。こんな音符を呑み込めば、おまえの音楽の才能に傷がつくぞ」
えい。や。ちょば。おれは力を込めて海蛇の尻尾を掴み、野溜子の火男口から三十二連符を引き擦り抜いた。ずべらぼ。げほ。その瞬間、野溜子の体はぺらぺらと薄い何枚かの紙になり、その紙から付点三十二分音符や二付点十六分音符や付点八分休符がぽろぽろと畳の上に零れ落ちた。野溜子は五線紙だったのだ。音符の消え落ちた真っ白い五線紙など、おれには何の役にも立たない。その五線紙を真ん中からびりびりと引き裂いた。
すると裂け目の向こうに別の風景が広がり、そこはタケミツホールだった。これからコンサートが行われる気配で聴衆が次々と席に着き始めている。真ん中あたりの席に梟と並んで座っている野溜子がおれを振り返ってにっこり頬笑んだ。梟も振り向いてホウと啼いた。どうやら開演の合図らしい。おれも黙って席に着いた。ツツイ先生すいませんと心の底で呟きながら。
*参考文献・筒井康隆『ダンシング・ヴァニティ』(新潮社)、武満徹『音、沈黙と測りあえるほどに』(武満徹著作集第一巻・新潮社)
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