楽器はからきしできないが、歌をうたうのは好き。堅苦しい音楽会へ行くのは大嫌いだが、寝ころんでディスクを聴くのは大好き。
そんなわたしにとって、器楽音楽は縁の遠い存在でありつづけた。
子供のころは、ピアノなんぞ女のやるもので、男は野球をやるもんだとかたくなに信じていたから、オーケストラがジャジャジャ〜ンと鳴り響くのは「すごいなあ」と思えても、ピアノがポロポロロンと音を奏でるのは、どうもピンとこなかった。
そのうえ、少しばかりピアノを弾けるヤツが「これは、なかなかいい演奏だよ」などというと、「どうせおれには、ショパンの楽譜なんてわからんもんね」おヒガミ根性が頭をもたげ、「気どりやがって」と、いいかえしたくもなった。
というわけで、ジャジャジャ〜ンばかり聴きつづけ、ポロポロロンの美しさになかなか気づかなかった。いや、気づけなかった。
そんなわたしのまえに出現したのが(もちろんレコードを通して出逢ったのだが)、フリードリヒ・グルダとグレン・グールドという少々破天荒なふたりのピアニストだった。
中学生のころ、ジャジャジャ〜ンばかり好きだったわたしは、まず、ふたりのピアニストが演奏するベートーヴェンの『皇帝』と出逢った。そのジャジャジャ〜ンのなかで、グルダの奏でるなんとも粋でお洒落なポロポロロンという音に、わたしの耳は完全に酔いしれてしまった。さらにグールドの、信じられないくらいのろいテンポのなかで奏でられる緊張感に満ちたスリリングな指の動きに、驚き、呆れた。
そうして彼らのおかげで、あっという間にピアノ曲が大好きになり、グルダのベートーヴェンやドビュッシー、グールドのバッハやモーツァルトのディスクを買いあさり、聴きあさるようになり、「いいなあ・・・」と、溜息をつく幸福感に浸れるようになったのだった。
しかし、彼らの演奏には、ワケのわからないことがつきまとった。それは、この国の音楽界では、彼らがもっぱら「異端」とされていることだった。
グルダのディスクには、ショパンの演奏とともに、ジャジーなノリの自作の演奏がカップリングされていたり(『ショパン・アンド・ビヨンド』)、ジャズ・ピアニストであるチック・コリアとデュオの即興に興じたり(『ザ・ミーティング』)、さらにわたしの大好きなLPである(残念ながらCD化されていない)ザルツブルク音楽祭の実況録音(『世界音楽物語』)では、バッハとモーツァルトの演奏のあいだにNCCP(新しい民謡の仲間たち)というグループによるイタリアの古い民謡が挿入されていたり、ジャズ・トランペッターのディジー・ガレスピーが客席から飛び入りで参加したり・・・。
はたまた、『ブルー・ドナウ』というアルバムでは、ドラムとベースをバックに、ウインナ・ワルツをジャズ化して、みずから口ずさむように歌いながらピアノを演奏してみたり・・・と、「蛮族」と称されることもあるピアニストのなかでも、ひと味もふた味もちがう、きわめて特徴的な演奏が多いのだ。
グールドについては、あらためて書くまでもない。唖然とするような速いテンポや、呆然とするほかない遅いテンポにくわえて、彼のデビュー盤であるバッハの『ゴールドベルク変奏曲』は「ジャズ的」と評され、さらに彼が演奏のときに必ず発する唸り声(ハミング癖)を揶揄する声まである。
が、わたしには、彼らの「何」が「異端」なのか、まるで理解できなかった(いまも、理解できない)
みずからのヴァイブレーションのおもむくままに、既成のジャンルを超えたり、ピアノを演奏するときに思わず歌声が口をついて出るのは、きわめて自然な行為といえるのではないか。ジャンルなんぞ、ディスク・ショップがディスクを販売するときの棚の分類方法でしかあるまい。グルダやグールドは、モーツァルトやベートーヴェンの協奏曲で、カデンツァの部分(即興演奏の部分)で自作の即興演奏をおこなっている場合が多いが、それもまたミュージシャンなら当然の行為というべきで、しかめ面してモーツァルトやベートーヴェン(さらにフィッシャーやルービンシュタイン)の残したカデンツァを一音一音まちがわないように弾いているピアニストのほうが、わたしには、よほど不自然で無理があるように思われる。
そんなふうに思ってしまうのは、わたしがまともにピアノに触れたことがいちどもないからかもしれない。が、一所懸命練習すればこんなに上手に指が動いて、うまく、まちがわずに弾けるんですよ、という演奏が、わたしにはどうにも好きになれないのだ。
そこで今宵も、わたしは、酔っぱらいのオッサンがアラヨッと楽しげにピアノと戯れているようなグルダの演奏のビデオ(モーツァルトのピアノ協奏曲を指揮しながら演奏したもの)を見て楽しんだり、UMMMMMMMと唸りながらバッハを弾くグールドのディスクを聴いて、理屈抜きに「いいなあ」と呟いているのである。
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