テレビのワイドショウで、某有名女性の「学歴詐称疑惑」が騒がれている。大学なんぞ半年でやめてしまった小生のような人間にとって、そんなことはどうでもいい。
コロンビア大学がどれほど程度の高い大学なのか知らないが、某有名女性が確かな知識や教養や判断力を持ち合わせているかどうかは、テレビでの発言を聞けばわかる。それ以上に学歴がどうのというのは余計なことである。
東京大学やハーバード大学を卒業した人間にも馬鹿はいる。小学校しか出てなくても、すばらしい人物はいる。それくらいのことは常識だ。なのに、テレビは馬鹿でも有名人にしてしまう。有名人はエライというウソまでまき散らす。だから、すばらしい人物とそうでない人物の見境がつかなくなってしまった。そこで、「学歴」という本来無意味な価値を騒ぐのだろう。
そもそも、コロンビア大学と聞いただけですばらしいと思うことが間違っている。そういう間違いを簡単におかしてしまうテレビというメディアには、ほかにも、学歴詐称や年齢詐称や経歴詐称をしているひとがいるのではないか、というのは邪推のしすぎだろうか?
それはさておき、こんな「学歴」の話を書いたのは、最近「クレオ・レーンが大好き」という人物に出逢ったからである。
「クレオ・レーンほどすばらしい歌手はほかにいない。おれは彼女のことなら何でも知ってる。レコードもすべて持ってる」
その男が鼻をひくひくさせながらそういったので、わたしは、あわてて反論した。
「冗談じゃない! おれも彼女のレコードは全部持ってる。彼女のことなら何でも知ってる」
だったら、あのレコードは持ってるか、このレコードは知ってるか・・・と、40代の中年男2人が、まるで幼稚園のガキがポケモンのギャラドスを持ってるとか、コイキングを知ってるとか自慢し合うように、クレオ・レーンがいかに「我がもの」であるかということを、いいあらそった。
クレオ・レーンとは、男をそんなふうにしてしまう歌手なのである。
つまり、彼女の魅力にとりつかれてた男は、彼女に関する知識をいいあらそいたくなるのである。と書いても、なんのこっちゃ? と思うひともいるだろうから、ここで少々クレオ・レーンについて説明しておこう。
1927年生まれ、(1998年)現在71歳。イギリス生まれで、いまなお現役のジャズ歌手として活躍しているだけでも凄いことだが、彼女は戸川昌子さんにそっくりという迫力あふれる(?)容姿で、音程の確かな驚異的テクニック(その高音の伸ばし方は、一度聞いただけで仰天する)にくわえて、レパートリーの広さでも、肩を並べる歌手がいない。
なにしろ、ミュージカル歌手として『ショウボート』で大成功をおさめたうえ、ほとんどオペラというべきクルト・ヴァイルの難曲ミュージカル『七つの大罪』をうたうかと思うと、ガーシュインのジャズ・オペラ『ポーギーとベス』をレイ・チャールズとの共演で録音。さらにシェーンベルクの現代音楽歌曲集『月に憑かれたピエロ』までうたってしまううえ、シェークスピアのソネットや戯曲の台詞をジャズにした『シェークスピア・ジャズ』というアルバムまで出す。
ジャズ歌手としてビリー・ホリデイをうたえば、メリッサ・マンチェスター、ジョニ・ミッチェルなどのポップスも鮮やかにこなし、最近のコンサートでは『砂山』『椰子の実』『城ヶ島の雨』といった日本の歌曲までレパートリーに入れているという(早く日本の歌をCDに録音してくれないものか)。
話は少々横道にそれるが、それらのクレオ・レーンのアルバムのほとんどが、かつてLPレコードとして出たのに、なぜかCD化されていなかったり、CDになったものでもいまでは廃盤になったりしている。わたしは、いいと思ったCDは、友達に「聴け、聴け」といって押しつけて、すぐに貸してしまうクセがある。貸したものは、ふつう返ってこない(押しつけたのだから仕方ない)。そこで買い直そうとするのだが、廃盤や製造中止という場合が多い。
最近では、バーブラ・ストライザンドがクラシックの歌曲ばかりをうたった『クラシカル・バーブラ』、能管(謡曲で使う横笛)で即興のジャズを演奏する一噌幸弘が山下洋輔や渡辺香津美らと共演した『東京ダルマガエル』、江州音頭の鬼才・櫻川唯丸が大熱演した(ネーネーズも共演している)『ウランバン』、バチカンのグレゴリオ聖歌隊と比叡山の僧侶による読経(声明)が共演した『・・・・・・』(すいません。タイトルを忘れてしまいました)といったCDを買い直そうとしたが、どれも廃盤か品切れで手に入らなかった。
CD(音楽)は、ただの消費財ではなく、ひとつの「文化」なのだから、なんとか、いつまでも手にはいるようにしてもらえないものですかねえ・・・。
閑話休題――。
クレオ・レーンのCDも、廃盤や品切れが多い、ということは、それが文化である証拠・・・などというのはコジツケだが、ミュージカルもオペラも、ジャズもポップスも、そして「二付点三十二分音符」などというワケのわからない音符が不協和音のなかにゴチャゴチャと並んでいるシェーンベルクの現代歌曲までも、どんな曲でも見事にうたいこなしてしまうこの歌手は、どれほど高い知性の持ち主なんだろう、と思ってしまうほど、「知的な」雰囲気を漂わせている。
だから、彼女の魅力にとりつかれた中年男は、彼女の理解者であることの証に、彼女に優るとも劣らない「知性」を発揮しようとして、彼女のレパートリーに関する知識をひけらかしたくなるのである(これは、まあ、少々マイナーで知的なものを愛する男には、ありがちなことなんですけどね。といっても、クレオ・レーンは、欧米ではけっしてマイナーではないのだが)。
というわけで、クレオ・レーンに関する「知識争い」を演じた小生ともう一人の中年男の勝負は、じつは小生が負けてしまった。早稲田大学のジャズ研出身のその男は、小生の口にしたクレオ・レーンのアルバムをすべて知っていたどころか、一枚欠かさず持っていたうえ、彼女の伴奏者(アルト・サックス)であり、編曲者であり、夫君でもあり、彼女に多大な影響を与え続けているジョン・ダンクワースのプロデュースの仕方や、1976年に来日したときのコンサートの様子までも、滔々と話し出したのである。
もしも、その場にクレオ・レーンがいたなら、小生よりも彼の「知識」のほうを喜ぶかどうかは知らないが、彼女の来日コンサートを聴いていないわたしは、(まるで最高級のピカチュー・グッズを見せつけられたガキのように)歯ぎしりしながら、彼の話を聞くほかなかった。
が、そのときわたしの頭のなかに、あることが浮かんだ。
レナード・バーンスタインのミュージカル『オン・ザ・タウン』(かつてジーン・ケリーやフランク・シナトラが主演し『踊る大紐育』のタイトルで、映画化されたもの)の新録音(バーンスタイン自身の指揮で録音する予定だったが、彼が死去したため、マイケル・ティルソン・トーマスが指揮するロンドン交響楽団の演奏で、オペラ歌手とミュージカル歌手がごちゃ混ぜになってうたっているライヴ録音)に、クレオ・レーンがゲスト歌手として出演し、バーンスタイン自身の作詞作曲したジャズ・ブルース歌曲というべきすばらしい歌を一曲うたっているのを思い出したのである(このすばらしい録音は、ビデオでも発売されている)。
彼は、そのことを知らなかった! 今度は、彼が歯ぎしりした。そして、二人で笑い合った。たぶん、その場にクレオ・レーンがいたなら、馬鹿な男たちを嗤ったにちがいない。でも、それでいいのだ。ほんとうに知的な女性に笑われるのは仕方ない。
でも、シェークスピアもシェーンベルクもうたいこなす彼女が、どこの大学の出身者であるのかは、彼も、わたしも、いまだに知らない。そんなことは、どうでもいいことなのだ。 |