「jr(ジュニア)バタフライ」というタイトルを聞いた瞬間、「凄い!」と思った。
語彙の少ないどこやらの首相のようで甚だ恐縮だが、それ以外に言葉がなかった。
オペラ・ファンにとって、プッチーニの『マダム・バタフライ(蝶々夫人)』は、じつに「困った大傑作」である。それは、見事に美しい音楽と酷い筋書きが奇蹟的にマッチしたオペラ、という以外にいいようのない作品である。
27歳のジェームス・ジョイスが夫人のノラをこのオペラに誘ったとき、ノラは気分を害したという。そのときのことをジョイスは、次のように手紙に書きのこしている。
『君は僕に冷たかった。僕はこの美しく優しい音楽を、君と一緒にただ聴きたかっただけなのに・・・』
男に弄ばれて自害する女の短い一生・・・などという物語は、たとえどんなに美しく悲劇的な音楽で彩られていても、女性にとって受け入れ難いものであるのは当然だ。
だから男も(あるいは女も)その酷い物語から目をそらし、甘美な音楽だけに耳を傾ける。それがオペラファンの常だった。批評家や後生の作家や作曲家も、甘美なメロディとエキゾチズムのなかで、物語に対する評価は避けつづけた。
が、三枝と島田のコンビは、その物語から目をそらすことなく、そこに「子供」(ジュニア)を発見した。これは、世界中の作家、音楽家、そしてオペラファンの誰もが見逃していた大発見である。岡本太郎が「縄文式土器」(の美しさ)を発見したほどの大発見である。
その発見は、蝶々夫人の末裔たる日本人にしかできないことだろう。が、当然のことながら、単なるオペラ好きや単なる現代音楽の作曲家では不可能なことに違いない。
過去の作品に対する犀利な批評眼を新たな作品に昇華させる想像力と創造力、それにプラスして、ちょっとした遊び心とパロディ精神。それらをすべて兼ね備えた人物にしか不可能な大発見である。それを、三枝と島田のコンビが成し遂げたことに対して、オペラファンとしては快哉を叫ぶほかない。
三枝は、プッチーニに比肩する美しいメロディの創造者であると同時に、シベリウスやモーツァルトの現代版パロディで音楽ファンを唸らせた作曲家である。
そしてオペラに精通した島田は、現代世界の構造分析にかけては最も鋭利な刃をもった作家である。
あとは、この二人が、タッグマッチを組んで大発見した『ジュニアの世界』の幕開けを待つだけである。
はたして、どんな物語、どんな音楽、どんな舞台が展開されるのか・・・。
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それが、どんなものだったかは、ナンヤラカンヤラにおいおい書いていきます。
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