今はクラシック(古典)と呼ばれている音楽も、かつてはクラシックではなかった。
当然のことだが、バッハもモーツァルトも、ベートーヴェンもブラームスも、ベルリオーズもドビュッシーも、彼らの生きていた時代にはコンテンポラリー・ミュージック(同時代音楽)を創造し、時代の最先端のリズムやサウンドを模索していたのだ。
その作業は、ビートルズが新しいサウンドを求め、ボブ・ディランが新しいメッセージを探り、クラプトンが新しい奏法に挑んだのと、何ら変わることがない。
そして他の同時代の音楽の大半が消え去り忘れ去られてゆくなかで、(おそらく)ビートルズやボブ・ディランやクラプトンの音楽が、五十年後、百年後にも演奏され続け、歌われ続けるように、バッハやモーツァルトやベートーヴェンやブラームスの音楽も、消え去ることも忘れ去られることもなく、時代を超えて演奏され、歌われ、愛され続けているのだ。
この単純な真理をほんの少し意識するだけで、クラシック音楽は、現代人の我々の耳に、まったく新しく響く。
「クラシック」(古典)と称され、演奏され続けている音楽は、時代をはるかに超越する新しさ、鮮烈さ、斬新さに充ち満ちているのだ。「古典音楽(クラシック)」とは、けっして古い音楽でもなければ昔の音楽でもなく、「真に新しい音楽」のことを指すのだ。
漫画やTVドラマの『のだめカンタービレ』で有名になったベートーヴェンの交響曲第7番は「世界で初のディスコ・ミュージック」(ピアニストのグレン・グールドの言葉)といえるほどの躍動するリズムにあふれている。
ドイツ古典音楽の王道を歩んだといわれるブラームスも、ハンガリーのロマ(ジプシー)の音楽に強く惹かれ、激しいリズムとセンチメンタルなメロディを積極的に自作に取り入れた。
そしてもちろん、チャイコフスキーもシベリウスも、ラヴェルもバルトークもガーシュウィンも…。自らの周辺にあった民族音楽や、アフリカのリズムと融合したジャズやブルースも取り入れ、「真の新しさ」を追求した。
その作業は、山下洋輔やセシル・テイラー、ベラ・フレックやボビー・マクファーリン、リチャード・ボナやビクター・ウッテンが行っている作業と変わりないものといえるのだ。
そんな「真の新しさ」に気づかせてくれるのがクラシックの演奏家で、その新しさを味わう場所が、クラシック・コンサートといえる。
たとえばアメリカの名門オーケストラのひとつであるフィラデルフィア管弦楽団は、「フィラデルフィア・サウンド」と呼ばれるいかにも明るい金管楽器の響きが、長年「売り物」だった。どんな古典音楽を演奏してもアメリカ人の指揮者とともに楽しく明るく美しく音楽を響かせるのは、アメリカ人聴衆の趣味に合わせたものともいえた。が、近年は生粋のイタリア人指揮者や音楽学者肌のドイツ人指揮者を迎え、新しい音楽の方向を模索している。
今年の来日でも、クリストフ・エッシェンバッハというドイツ系ポーランド人指揮者とともに来日し、はたしてどんな新しさで驚かせてくれるのか、大いに興味が持たれる。
一方、ドイツの放送交響楽団のなかでも名門といわれるフランクフルト放送交響楽団は、指揮者にネール・ヤルヴィという北欧系エストニア人アメリカ国籍の指揮者とともに来日する。しかもフランス人美人ピアニストとして華麗なベートーヴェンを聴かせるエレーヌ・グリモーが独奏者として参加。そのうえ日本を代表するソプラノ歌手に成長した森麻季が、リヒャルト・シュトラウスの死を意識した大名曲『四つの最後の歌』に挑戦する。
「真に新しい音楽(クラシック)」は時代を超越すると同時に、国境をも軽々と飛び越えるもの。そして、さらに新しい発見をもたらしてくれるのだ。 |