わたしが音楽を好きになったきっかけは、「試聴盤」だった。
いまから40年くらい前、昭和35年前後のことである。当時は、それまでの33回転LP、45回転EP、78回転SP等のレコードを聴くためのモノラル電気蓄音機にかわって、ハイ・ファイ・ステレオ装置が普及しはじめた時期だった。
電器屋をしていたわが家の店先にも、手品師が人間を消すために使うような大きな四角い箱が並ぶようになった。そのとき、付属品として必ず付いてきたのが「試聴盤」だった。それは、わが家に出現した、はじめての西洋音楽だった。
わたしが小学校に入学するころ、わが家には、レコードといえば「試聴盤」しかなかった。しかし、それで十分だった。「試聴盤」にはあらゆる音楽が詰まっていた。
30センチLPの試聴盤に針を落とすと、まず最初に、♪ジャジャジャジャ〜ン・・・と、ベートーヴェンの『運命』の冒頭が鳴り響いた。フリッツ・ライナー指揮シカゴ交響楽団の演奏だった。その音を聴いて、大人たちは誰もが、「ほんまもんのオーケストラの音がしよる」と、口を揃えていったものだった。
いま思えば、当時の京都の下町の商店街に暮らす人々のなかで、「ほんまもんのオーケストラの音」を聴いたことのある人など、おそらく皆無だったにちがいない。が、誰もが、そのステレオの音こそ、「ほんまもんのオーケストラの音」であると信じて疑わなかった。
もちろん、わたしも、そう思った。それほど『運命』の響きは衝撃的だった。なんだかワケがわからないまま、「これは、スゴイ!」と心のなかで唸った。
『運命』のつぎに鳴り響いたのは、三波春夫の『ちゃんちきおけさ』だった。そのあとは、ペレス・プラード楽団の『マンボ・ナンバー・ファイヴ』、マントヴァーニ・オーケストラ(いや、リカルド・サントス管弦楽団だったか)の『六月は一斉に花開く』と続いた。
三波春夫の甲高い声も、ペレス・プラードの「ハアッ!」と気合いの入った掛け声も、マントヴァーニのヴァイオリンの美しい音色も、どれも子供心に鮮烈な印象を刻むものだった。
別の試聴盤には、ストラヴィンスキーの『春の祭典』の一部がはいっていた。エルネスト・アンセルメ指揮スイス・ロマンド管弦楽団の演奏だった。ワーグナーの『ワルキューレの騎行』も、オーケストラだけでなく歌手の歌声つきではいっていた。オーケストラや歌手の名前は忘れたが、指揮はエーリッヒ・ラインスドルフだった。
その試聴盤には、グレン・グレイとカサロマ・オーケストラとかなんとかいうジャズ・バンドによる『イン・ザ・ムード』や『真珠の首飾り』もはいっていた。
また別の試聴盤には、ルービンシュタインのピアノで、ベートーヴェンのピアノ協奏曲『皇帝』の第三楽章の一部や、ドヴォルザークの『新世界交響曲』第四楽章の冒頭もはいっていた。ドリス・デイの『ティーチャーズ・ペット』や『テネシー・ワルツ』、それに、『月がとっても青いから』や『芸者ワルツ』がはいっている試聴盤もあった。
『ウエスト・サイド・ストーリー』の「クァルテット」(トゥナイト)がはいっている試聴盤もあったが、その演奏が、姉の持っていた映画のオリジナル・サウンド・トラックとは少し違っているのに首を傾げたことも憶えている。試聴盤にはいっていたのは、ブロードウェイのスタンダード・キャストによるもので、後になって知ったことだが、バーンスタインの原曲に近いものだったのだ。
わたしは、そんな試聴盤を、それこそレコードの溝が擦り切れるくらい何度も繰り返し聴いた。「売り物のステレオの針が減ってしまうやないか」と、父に叱られても、聴くのをやめなかった。いったい何が魅力だったのか、いま思い返してもよくわからないのだが、テレビを見るよりもステレオで試聴盤を聴くほうに魅力を感じた(ただし、『月光仮面』と『シャボン玉ホリデー』と『ローハイド』と『夢で逢いましょう』とプロ野球中継とプロレス中継だけは、試聴盤と肩を並べる魅力があった)。
音楽との出逢いがそんなふうだったから、いまもジャンルを問わず、どんな音楽にも耳を傾けている。
交響曲でもオペラでも、演歌でもロックでも、長唄でもガムランでも、いいと思ったものは何でも聴く。あらゆる音楽の詰まっていた「試聴盤」が、わたしの音楽の先生だったから、ジャンルなどというものは、まったく意識したことがない。
というわけで前置きが少々長くなったが、わたしが涙を流すほど好きなCDやビデオを、これからザザザアアーッと列挙してみたいと思う。「ベスト・テン」などとケチなことはいわない。依頼を受けた原稿枚数が尽きるまで、手当たり次第にならべてみよう。
最近、最もよく聴いているCDは、モーツァルトの『ポント王のミトリダーテ』。クリストフ・リセ指揮のレ・タラン・リリクの演奏。ナタリー・デッセイのコロラトゥーラ(アスパージア)が気持ちいい。このCDは、仕事のBGMに重宝しているといった感じで、演奏をきちんと楽しむなら、アーンノンクール指揮の「激しいバロック」のほうが好きだ。
「バロック」とは「歪な真珠」という意味らしいが、その真意を教えてくれたのは、ナイジェル・ケネディがヴァイオリンを弾きながら指揮したヴィヴァルディの『四季』だった。
その「激しいバロック」(歪な真珠)に負けない音楽が、日本にもある。櫻川唯丸師匠の江州音頭をおさめた『URAMBAN』というアルバムがそれで、♪エンヤコラセエ〜、ドッコイセ〜・・・の掛け声にのって1曲が20分以上も続く江州音頭のなかで、ネーネーズが沖縄方言で『ブンガワンソロ』を歌ったり、『聖者の行進』がはじまったり、『般若心経』が唱えられたり、もう、ハチャメチャのなかで、ワビサビとは対極にある豪快な日本歌謡コテコテ・バロック文化が炸裂する。
日本歌謡といえば、藍川由美さんの『日本の童謡』『日本の歌謡』『古関裕而歌曲集』『中山晋平歌曲集』を落とせない。『ゲゲゲの鬼太郎』をこれほど正確に歌われると、ゾクゾクッと背筋に冷たいものが走る。『南国土佐を後にして』のコブシも見事なら、圧倒的なスローテンポで聴かせる『港が見える丘』や『東京の花売り娘』も素晴らしい。
硝煙の臭いを感じさせない軍歌も見事で、♪おお、プリンス・オブ・ウェールズ・・・という歌詞が、英語のシラブルをきちんと守って作曲されている(歌われている)ことにも感激した。
もっとも、藍川由美さんの正確無比な歌い方は、こちら(聴き手)の体調のいいときは圧倒的な感動を覚えるのだが、疲れていたりするときは、少しばかり「重さ」や「堅さ」を感じることもある。
そういうときは、雪村いづみのアルバム『スーパー・ジェネレーション』がいい。細野晴臣などキャラメル・ママのメンバーをバックに、雪村いづみが服部良一の名曲の数々を熱唱している。『銀座カンカン娘』『東京ブギウギ』『薔薇のルムバ』『胸の振り子』『ヘイヘイ・ブギ』『一杯のコーヒーから』『蘇州夜曲』『東京の空の下』・・・。なかでも、このアルバムだけのために作曲された『昔のあなた』は、歌詞もメロディも大人のムードを存分に漂わせた、なかなかの絶品である。
再び少々「重さ」を感じたくなったらクレオ・レーンの『シェークスピア・ジャズ』がいい。これはシェークスピアの戯曲の台詞やソネットにジャズのメロディをつけたもの。
クレオ・レーンは、シェンベルクの『月に憑かれたピエロ』(CD化されていないのが残念)やガーシュインの『ポーギーとベス』(これもCD化されていないが、レイ・チャールズとの二重唱はあらゆる『ポーギーとベス』のなかで最高の歌唱である)等々、何を歌わせても見事だが、『シェークスピア・ジャズ』は彼女の最高傑作といっていいだろう。
さらに、もう少々「重め」の歌を聴きたいときは、エリザベート・シュワルツコップの歌ったリヒャルト・シュトラウスの『最後の四つの歌』を聴く。グンドラ・ヤノヴィッツの愛情あふれる暖かい歌声も魅力だが、なんといってもシュワルツコップが素晴らしい!彼女のドイツ語の溜息の魅力は、思わず一緒に溜息をついてしまうくらいだ。
話は少々脱線するが――いや、脱線ではないのかな――最近、1920年代につくられた手回し式の蓄音機を購入し、それで、マリア・カラス、シャリアピン、ジッリ、エリザベート・シューマン、カルーソー、ボリス・クリストフ・・・といった往年の名歌手の名唱を堪能している。
SPは、基本的に空気の振動そのものが蓄積され、再生されているのだから、その音色は限りなくナマに近い。マリア・カラスやシャリアピンが、目の前に出現するのである。
そんななかで、シュワルツコップの歌った『トゥーランドット』のリュウと『ラ・ボエーム』のミミを手に入れた。ミミは、第三幕の「ミミの別れのアリア」を歌っているのだが、シュワルツコップの"addio"という発音が、「ハッディーオ」とかすれる。それを聴くだけで、もう、「ブラヴォー!」である。
この溜息の「カスレ」は、残念ながらCDでは再生不可能。シュワルツコップがゾフィーを歌っている三枚組SPの『ばらの騎士』(第二幕の最初と最後だけ)も愛聴しているのだが、蓄音機でSPの「ナマ演奏」を聴いていると、こんな贅沢をしていてはいけない・・・という気持ちになり、仕事部屋へ戻ってワープロの前に座る。
そんなとき、イッパツ気合いを入れて、さあ、仕事に取り組むぞ・・・というときの音楽は、なんといっても、クナッパーツブッシュの指揮した『バーデン娘』にかぎる。クナが、ウィーン・フィルを指揮して録音した『ワルツ・ポルカ集』の最後に入っているのだが、強烈にクセのある(一拍目の強い)ウインナ・ワルツのリズムにのって、トロンボーンがブワ〜ン、ブワ〜ンと鳴り響くところなんぞ、もう、何度聴いても呵々大笑したくなるくらいサイコーで、なぜか、ヨッシャー、おれもがんばるぞぉ〜、という気持ちになる。
この強烈演奏と肩を並べることができるのは、ムラヴィンスキーの指揮したグリンカの『ルスランとリュドミラ序曲』と、ストコフスキーの指揮したエネスコの『ルーマニア狂詩曲第一番』(とチャイコフスキーの『交響曲第4番』の第4楽章=これはHP掲載にあたって付け加えたものです)くらいなものだろうか。
もちろん、クナッパーツブッシュは、なんといってもワーグナーが最高で、ミュンヘン・フィルを指揮した『リエンツィ序曲』や『トリスタンとイゾルデ』の「前奏曲」と「愛の死」は、いつ聴いても桃源郷へ誘ってくれる。が、どうも最近は、「重い」ものを耳が受け付けなくなって、「軽さ」のなかに「凄い営み」を発見するほうが好きになった。
となると、なんといってもロッシーニである。序曲を聴くなら、トスカニーニ。
トスカニーニという指揮者を、わたしは長いあいだ好きになれず、ベートーヴェンやブラームスの演奏には、いまでもどうしても堅苦しさを感じてしまうのだが、彼のロッシーニは、もうバッチリ。寸分の狂いもないテンポと見事に計算されたクレッシェンドが、聴く者の心を鷲掴みにする。
ベートーヴェンやブラームスなら、少々演奏に乱れや狂いがあっても、気合いイッパツで、聴衆を感動させることができる。悪くいえば、誤魔化すことができる。が、ロッシーニでは、それは不可能。彼の残した名人芸を要求する譜面は、ちょっとでもミスしたり誤魔化したりすると、ロッシーニの面白さが消えてしまう。そこで、トスカニーニのような厳格な指揮者が、演奏者に正確無比のテクニックを要求し、バッチリと音を揃えて演奏させれば、腹の底からケタケタケタ・・・と笑いたくなるようなオモロイ音楽が飛び出すことになる。
おまけに、トスカニーニは、どんなに厳格といってもイタリア人。彼の指揮した『ラ・ボエーム』や『椿姫』のCDを聴くと、歌手より大きな声で歌っている指揮者の声(唸り声?)がはいっている。ブラヴォー! このメロディの歌わせ方は、イタリア人にしかできないものだ。
最近では、パッパーノという指揮者の『ラ・ボエーム』を聴いて、これもまたイタリア系の指揮者にしか不可能なメロディの歌わせ方なのか・・・と思ったが、正直いって、まだよくわからない。第二幕のオーケストラによるパリのクリスマスの雑踏の表現など、素晴らしいとは思うが、全体的な印象が、どうも薄い。なにやら、小手先で誤魔化されたような気もする。
ムーティ、アッバード、シノポリ、レヴァイン、シャイーなどもそうなのだが、どうも最近の指揮者は小手先ばかりが際立ち、ヴォットーの指揮した『ラ・ボエーム』、サバータの指揮した『トスカ』、ファブリティスの指揮した『チェレネントラ』、セラフィンの指揮した『オテロ』、エレーデの指揮した『トゥーランドット』のように、匂い立つような演奏を聴かせてくれない。
カラス、ゴッビ、デル・モナコ、シミオナート等々、歌手の力量も違うのだろうが、「冷めた指揮者」の「聴かせる演奏」は物足りない。「熱い指揮者」の「酔った演奏」のほうがいい。
野茂英雄やマイケル・ジョーダンが、契約や給料とは無関係なところでスポーツを楽しんでいるのと同様、芸術家もスポーツマンと同じで、超一流のプロなら最高のアマチュア(ディレッタント)になれるはずなのに・・・。
ドイツ音楽でも同じ。クナッパーツブッシュ、フルトヴェングラー、ワルターの演奏がCDで楽しめる時代に、どうしてティーレマン、ブーレーズを聴く必要があるのか、最近わけがわからなくなった。
そういえば、長いあいだCD棚から出していないが、クナッパーツブッシュの指揮したワーグナーの『ワルキューレ』第一幕の冒頭は、どうして、あんなに凄い音がでるのだろう? どうして、あんなに、おどろおどろしい響きがするのだろう? バレンボイムやレヴァインには、どうして、それができないのだろう? 時代のせい・・・なのだろうか?
そういえば、近頃久しぶりにカルロス・クライバーのニューイヤー・コンサートのLDを引っぱり出し、聴いてみて(見てみて)驚いた。その荒っぽい演奏にがっかりしたのだ。
はじめて聴いたときは、あの切れ味のいいリズムに有頂天になって興奮したものなのに、改めて聴き直してみると、何やらザラザラと下品で・・・。父君のエーリッヒ・クライバーやクレメンス・クラウスの指揮したヨハン・シュトラウスの粋な面白さと高貴な香に較べれば、なんとコセコセした・・・。
そんな印象を抱いてしまうのも、わたしが歳をとったせいなのだろうか? それとも、先に書いたように、SP蓄音機などというものに凝り、ベニャミーノ・ジッリの『清きアイーダ』やマリア・カラスの『清教徒』のアリアといった熱唱に涙を流すようになったせいだろうか?
もちろん最近の演奏家にも、涙を流したくなるくらい見事な演奏はある。
レナード・バーンスタインの自作自演ミュージカル『キャンディード』、ティルソン・トーマスの指揮したバーンスタインの『オン・ザ・タウン』(それに、サイモン・ラトルの指揮したバーンスタインの『ワンダフルタウン』=これもHP掲載にあたって付け加えたものです)などは、いつCDを聴いても、いつLDを見ても、心の底から素晴らしいと思える。それに、バーンスタインのマーラーは、やっぱり素晴らしい。
最近わたしは、晩年までも「青春の悩み」を抱き続けて最後に東洋思想に走ったマーラーの「青臭さ」が少々鼻につき、あまり聴く機会はなくなったのだが、それでもたまに、バーンスタインがベルリン・フィルを指揮したマーラーの『交響曲第九番』のCDを棚から引っぱり出して聴いたりすると、こんなスゴイ「阿片」のようなCDを、街のディスク・ショップで発売しても、いいものだろうか・・・などと思ってしまう。
しかし、まあ、それほどスゴイ音楽を聴いても、わたしもふくめて誰も自殺したひとはいないわけで、「この音楽を聞いて自殺する人が出るのではないか」というマーラーの心配は杞憂に終わったわけだが、ならば、カッコをつけてテツガクするような音楽を聴くよりも、舞台のうえで「モルタ!」と叫んで死んでくれるイタリア・オペラを見たり聴いたりして、「ブラヴォー!」と叫ぶ方が「正直」で「健全」なのではないか、というのが、最近のわたしの(もちろん一時的な)「結論」なのである。
というわけで、最近のオペラ歌手なら、なんといってもパヴァロッティ。だが、彼には、「これは!」といえる全曲盤がない。ボニングやレヴァインの指揮が凡庸だったり、共演のサザーランドの声が無味乾燥だったり・・・で、パヴァロッティを聴くなら、『パヴァロッティ&フレンズ』のシリーズが最高だ。
ロック歌手のブライアン・アダムスと一緒に『オー・ソレ・ミオ』や『ラヴ・フォーエヴァー』を歌ったアルバムも、エリック・クラプトンと『ホーリー・マザー』、ライザ・ミネリと『ニューヨーク・ニューヨーク』、それにエルトン・ジョンやシェリル・クロウも加わってのアルバムも、さらに、最近オペラのアリア集まで出してオペラづいているマイケル・ボルトンと一緒に『道化師』の『衣装を付けろ』を歌ったアルバムも、どれもこれも楽しいライヴで、心の底から楽しめる。
この原稿の締め切りには間に合わなかったが、今年の『パヴァロッティ&フレンズ』のライヴには、ブルースの王様B・B・キングと共演しているというから、待ち遠しくて仕方ない。90歳を超えた(はずの)B・Bキングは、『ブルース・ブラザース2000』で聴かせてくれたような名演奏を再現してくれているのだろうか?
パヴァロッティ、ドミンゴ、カレーラスが共演した『三大テナー』(もちろん、ローマ・カラカラ浴場での一度目のコンサート)も楽しめる。「三大テナーは芸術じゃない」などと批判する人もいるが、「芸術」じゃなくてもオモロイものはオモロイわけで、オモロかったら、それでいいのである。胸がワクワクするような魅力があれば、それでいいのである。カラカラ浴場でのコンサートには、その魅力がある(それからあとのドジャー・スタジアムやパリでのコンサートはマンネリ以外の何物でもないですけどね)。
――と、思いつくままにつらつら書き殴ってきて、「私の好きな音楽」が自分で再確認できたような気がする。というのは、一言でいうなら、「理屈はいらん」ということだ。
試聴盤のレコードから♪ジャジャジャジャ〜ン・・・という音が流れ出て、何やらわけが分からないまま「スゴイ!」と思ったとき以来、「スゴイ!」と思えるものは「スゴイ!」と思うようになった。それだけのことなのだ。
「大作曲家の畢生の名曲」「大演奏家の最高の演奏」などと言葉でいわれても、そんなことは関係ない。音楽の世界と言葉の世界は別物なのだ。身体で感じるものと頭で理解するものも別物なのだ。もちろん両者に優劣などない。♪ジャジャジャジャ〜ンと響く音に身を浸し、「スゴイ!」と思うことも楽しいことなら、♪ジャジャジャジャ〜ンというメロディとフランス革命の関係について考えたり、あるいは、それがバッハの音楽からのパクリではないかと調べたりするのも、また楽しい作業にちがいない。
が、今回の原稿のテーマは、「私の好きな音楽」なのであって、「私の好きな音楽に関する理屈」ではない。だから、好きな音楽を思いつくまま並べさせていただいた。
おお〜と、モーツァルトの音楽(ノリントンやカザルス指揮の交響曲、グルダのピアノ協奏曲、グールドのピアノ・ソナタ、ピーター・セラーズ演出のオペラ等々)を書き落としていた。いや、美空ひばりが歌った『トスカ』のアリア(歌に生き恋に生き)や、シャープス&フラッツと共演した『ナット・キング・コールを偲んで』と題したジャズ・スタンダードナンバー集も落としてしまった。
都はるみの『京都上賀茂神社大文字送り火ライヴ』の名唱も落とした。それに、ビートルズも、キング・クリムゾンも、延暦寺の僧による読経とバチカンの僧侶たちによるグレゴリオ聖歌の共演したCDも・・・。
いやはや、落としたCDをフォローしはじめたら、きりがない。
漱石の『三四郎』に、次のような文章がある。《熊本より東京は広い。東京より、日本は広い。(略)日本より、頭の中の方が広いでせう》
しかし、ひょっとして、「頭の中」よりも、「身体で感じる世界」のほうが、もっと「広い」のでは・・・? |