最近は見かけなくなったが、以前は(20年くらい前までは)「無人島へ持って行きたい一冊の本」という企画を、雑誌などでよく目にした。マルセル・プルースト『失われた時を求めて』、マルタン・デュ・ガール『チボー家の人々』、トルストイ『戦争と平和』、ロマン・ロラン『ジャン・クリストフ』、中里介山『大菩薩峠』・・・等々、無人島でひとりで暇を潰すには読むのに時間のかかる長編にかぎるというわけか、長い物語を選ぶ人が多かったことを、いまも記憶している。
「ベストワンの本を選ぶ」というのではなく、「無人島へ持って行きたい・・・」というと、なにやら夢があるというか、なぜか胸がわくわくするような心地もして、いまもときどき「どんな本を選ぼうか」と考えてみたりもする。事典マニアの小生にとっては、大百科事典が長持ちしそうで実用的(?)だが、それは反則だろう。
かつては音楽雑誌でも同様の企画を読んだことがあった。「無人島へ持って行きたい一枚のレコード」というわけである。
電源があるのか、プレイヤーがあるのか、という問題は無視して、バッハの『マタイ受難曲』『ロ短調ミサ曲』、モーツァルトの『レクイエム』、ベートーヴェンの『荘厳ミサ曲』『第九交響曲』、フォーレの『レクイエム』等々・・・、この場合はなぜか宗教的な楽曲が数多く選ばれていた。
あるいはベートーヴェンの『後期弦楽四重奏曲』や『後期ピアノ・ソナタ』、それにシューベルトの歌曲集『冬の旅』やマーラー、ブルックナーの交響曲など、精神性の高い音楽、というか、「人生」を深く考えさせられる音楽が並んでいた。それらの楽曲もやはり宗教的といえるだろう。
そのような企画をわたしが初めて読んだのは、20代前後の頃のことで、無人島でひとりになって「人生」を考えていったいどうするのだろう?などと首を傾げたものだった。それよりも、通して聴くのに14時間くらいかかるワーグナーの楽劇『ニーベルングの指環』あたりを持っていけば、飽きもせず、退屈もしないで済むだろうに・・・(「一枚のレコード」というルールに反するかもしれないけど、『マタイ受難曲』も反則ですからね)。
とはいえ、いざ本気で「無人島でひとりで聴く音楽」を選ぶとなると、やはり『スターウォーズ』の冒険活劇と同様の『ニーベルングの指環』などは選ばず。マーラーの『大地の歌』あたりを選び、しんみりとした心境になるのかなあ・・・などと考えながら、ふと気づいたことがあった。
それは、「本を読む」という行為がかなり能動的な行為であるのに対して、「音楽を聴く」ことが比較的受動的な行為といえる、ということである。さらに、「無人島でひとりで本を読む」となると、「生きる」(暇つぶしをする)ことにつながるのに対して、「音楽を聴く」という行為は、なにやら「音楽を聴きながらひとりで死んでゆく」というニュアンスがあるように思えたのだ。
だから宗教的な楽曲が多くなるようにも思えたが、その音楽雑誌の企画を読んだとき、だれが選んでいたのかは忘れたが、リヒャルト・シュトラウスの『四つの最後の歌』を選んでいたひとがいた。わたしは、そのときはじめて、そういう歌曲のあることを知ったのだったが、『四つの最後の・・・』というタイトルが、心に残った。
『最後の・・・』などという言葉がタイトルについている音楽など(おそらく)ほかにあるまい。しかもリヒャルト・シュトラウスが死ぬ間際になって、ほんとうの「最後」につくった作品らしく、聴きもしないまま、なにやらモノスゴイ音楽にちがいない・・・という気がした。
しかし、そのときは、その音楽を聴きたいとはあまり思わなかった。『最後の歌』は「最後」が近づいたときに聴けばいいわけで、ハタチになったばかりでは、まだまだ「最後」など意識するわけもなく、意識のしようもなかった。とはいえ、その音楽が意識のどこかに引っかかったことだけは確かで、それからあとディスク・ショップへ足を運ぶたびに、かならず「歌曲」のコーナーの棚を覗いて、「ああ、あるある・・・」と、30センチLPのジャケットを手にとってみたものだった。
そのレコードを手にとるだけで買わなかったのは、やっぱりまだまだ「最後ではない」と思ったから・・・というのは屁理屈で、20代のわたしにはカネがなかっただけのことである。というわけで、タイトルに惹かれながらも、そのうちに忘れてしまった音楽を、きちんとはじめて聴いたのは、それから10年以上を経たあと、わたしが35歳を過ぎたころのことだった。
きっかけはリヒャルト・シュトラウスのオペラだった。
『サロメ』『エレクトラ』『ばらの騎士』『影のない女』『アラベラ』『インテルメッツォ』『カプリッチョ』・・・等々、リヒャルト・シュトラウスのオペラには、女性の心理を美しいメロディとゴージャスなサウンドで見事に表現した作品が多い。
ワーグナーやヴェルディのオペラが「男中心」であるのに対して、愛する男に無視される女の寂寥、歳を重ねる女の悲哀、自分の愛情が受け入れられない女の苦悩・・・といったものを、リヒャルト・シュトラウスは鮮やかに描き出している。
その素晴らしさに目覚め、LPレコードや、ちょうどそのころから出現しはじめたCDやLDで楽しむようになったわたしは、なかでも『ばらの騎士』のとりこになり、エリザベート・シュワルツコップが歌い演じる侯爵夫人の切ないまでの美しさに陶酔した。そして20代のころに較べて少しは小遣いも遣えるようになったこともあり、シュワルツコップのCDやLDを片っ端から買いあさるようになり、『最後の・・・』というタイトルの「重み」など忘れて、彼女の歌う『四つの最後の歌』のCDも手に入れたのだった。
そしてプレイヤーにかけた途端、「無人島」の話を思い出した。なるほどこれは「最後」の「最後」に聴くべき音楽である。
といっても、けっして抹香臭いものでなく、宗教臭が漂うものでもない。
ヘッセの三編の詩とアイヒェンドルフの一編の詩にメロディをつけたリヒャルト・シュトラウスの『四つの歌』は、静謐な明るさに輝く音楽である。澄み切った透明な音楽であり、ほんのわずかの濁りすらない。完璧に澄明な美しい音楽である。
それは「天国のような明るさ」といえなくもないのだが、映画音楽の(たとえばヘンリー・フォンダが主演した『黄昏』なんかの)バックにもつかえそうに思えるほどで、美しくはあってもけっこう俗っぽさもふくまれている。が、音楽全体の輝きは、そんな俗界にはなんの未練もない「大人(おとな)の心境」を表現している。
もうすぐ眠りの時間
たったふたりきりの寂しさ
はぐれないようにしよう
広々とした静かな平和
深い夕映えに染まるなかで
旅の疲れが・・・
ひょっとして、これが、
死というものだろうか・・・?
『四つの最後の歌』は、そんな言葉で終わる。
シューベルトの描き出した青春の歌のように、恋に破れてひとりで絶望するのではない。人生の最後に「たったふたりきり」というのが、いい。大人の感覚である。
そんな歌詞が、センチメンタルでもなければ、ノスタルジックでもなく、いっさいの執着心が存在しない、静穏で、静謐で、淡々としたメロディにのって歌われる。
『受難曲』や『鎮魂歌(レクイエム)』のような「悟り」や「解脱」のような大仰さや尊大さもなく、一介の俗人の「死」に際しての落ち着きが表現されている。その澄み切った心境を、シュワルツコップがじつにしみじみと歌っているのだ。
たぶん、この楽曲を20代のときに聴いても、シューベルトやマーラーを聴いたときのような感動は感じられなかったにちがいない。大人にならないとわからない心境、わからない歌というものが存在するのだ。
この音楽を無人島でひとりで聴いたなら、おそらく、近くを船が通ったりしても手を振ることもなく、静かに頬笑んで見送ることができるにちがいない。
いやはや、音楽とはスゴイものである。人間をそれほどまでの穏やかな心境に導いてくれるのだから・・・。
もっとも、そんな心境も『四つの最後の歌』を聴いている20分間だけのことで、聴き終わってすぐに原稿の催促の電話がかかってきたりすると、「わかっとるわい!」と怒鳴り返したりしてしまうのだが・・・。
*****
ここに紹介した『四つの最後の歌』のなかの「最後の歌」(ヨーゼフ・フォン・アイヒェンドルフ「夕映えのなかで」)は、ほんとうに素晴らしい詩と音楽だと思うのですが、CDのライナーノートや解説書に載っている訳詞がどうも不満でした(堅苦しすぎるんですよね)。そこで、5年くらい前に自分で訳詞をつくってみましたので、ここに発表しておきます。
夕映えのなかで
苦しいことやら 楽しいことやら いろんなことが いっぱいあったなあ どんなときでも わしらはいつも 手ぇつないで歩いてきたんや そやけど いまは もう 歩かんでもええ この丘の草のうえに ちょっと腰でもおろそうや 一緒に このきれいな盆地の景色を ながめようや
田舎の景色はきれいやなあ あっちに小高い山があって 谷があって こっちのほうまで小川が流れとるやないか 早いもんやで 今日は もう日が暮れかかってきよった ひばりだけが元気に啼いとるなあ まだ昼間のつもりでおるんかいなあ 二羽で 仲良う 夕闇のなかを のぼっていきよるやないか
おまえも もうちょっと こっちよれ もうじき 眠る時間になるんやで 二人きりになってしもうたなあ さびしいか そうか ほな はなれんようにしょ はぐれんようにしょ
見てみい 夕焼けや 狭い田舎も こうしてみると 広々と見えるもんやないか しずかやなあ 平和なもんやで あたり一面が夕焼けやで だいだい色にに染まってきよった これが夕映えいうやつやで ほんに きれいなもんやないかいな
疲れたか そうか わしも疲れた なんやしらんけど 旅の疲れいうやつかいなあ えらい重とう ずうんと肩に のしかかってきよる これが 死ぬ・・・ということなんかいなあ・・・
|