わたしは、まだカルロス・クライバーの生演奏に接したことがない。
何度ダイヤルしてもつながらない電話に苛立つうちに、バイエルン放送管弦楽団を率いて来日したときのベートーヴェンを聞きのがし、ミラノ・スカラ座と来日したときの『オテッロ』も『ラ・ボエーム』も観のがした。ウィーン・フィルと来日するとの報を聞いたときは、女房と二人がかりの電話作戦が功を奏してチケットを手に入れることができ、狂喜乱舞したところが、カルロスが病気で倒れ、指揮者がシノーポリに代わってしまった。
しかしわたしは、自分がまだカルロスの生演奏に接していないという事実が信じられない。
ウインナ・ワルツや『こうもり』の躍動するスタッカートも、『トリスタンとイゾルデ』の官能的な弦の流れも、『オテッロ』の嵐のような激情も、『ラ・ボエーム』のあまりにせつない哀感も、そして、それらの音を見事に引き出す魔法のように美しいタクトの動きも、すべてわたしの身体のなかに、鮮やかな記憶として、豊かな体験として、刻み込まれているように思われてならない。
それは単純にいってしまえば、ビデオ、CD、LD、DVDといったAV機器の発達のおかげであり、ブラウン管やスピーカーといった器械をとおしてもなお鮮烈な印象を与えるカルロスの強烈な個性のため、といえるにちがいない。くわえて、ブエノス・アイレスのテアトロ・コロンを訪れ、広報担当の老婦人から次のような話を聞いた、という個人的な事情にもよる。
「エーリッヒ・クライバーは、この劇場に来てから、自分の息子をいちばん仲のよかったヴァイオリニストの名前で呼ぶようになり、カルロスはこの席にすわって、よくお父さんの練習を見聴きしていたのです」
そこでわたしも、アリーナ最前列のその席にすわり、亡命時代の親子に思いを馳せたりしたものだから、他の音楽家にはない近しさをカルロスに感じるようになったのだった。
ところが、そんな疑似体験を経験し、カルロス・ファンとしては人後に落ちないつもりでいるにもかかわらず、これまた不思議なことというほかないのだが、カルロスの音楽をはじめて聴いたり観たりしたときの記憶が、わたしの身体のなかから消え去っているのだ。
それがレナード・バーンスタインならば、小学生のときに『新世界交響曲』のLPレコードを聴き、高校生のときにNHKでヴェルディの『レクイエム』を指揮する姿を観、大阪万博のときに生演奏を・・・といった具合に、また、フィッシャー・ディースカウならば、中学生のときに『冬の旅』と『さすらう若人の歌』のLPを買い、高校3年のときにベルリン・ドイツ・オペラの来日公演でヴェルディの『ファルスタッフ』の舞台を観・・・といった具合に“初体験”というものは絶対に忘れないはずなのに、カルロスの場合だけは、いつ、何の音楽を、どのLPで聴き、また、どんな映像で観たのか・・・という過去の記憶がまったく消え失せているのである。
しかし、自分の持っているカルロス・クライバーの12組のLP、海賊版をふくむ27組のCD、6組のLD、それに5本の私家版ビデオテープを並べ、やはり最初に聴いたのは『魔弾の射手』だったか・・・、最初に観たのは『カルメン』だったか・・・と頭をひねるうちに、はたと単純な事実に気づいた。
カルロスは、過去の名演を忘れさせるくらい素晴らしい演奏を次々と生みだしたのだ。そのうえ過去の演奏も、何度聴きなおしても、つい最近の演奏と思えるほど新鮮に響くのだ。だからわたしの記憶はぐじゃぐじゃになってしまったにちがいない。カルロス・クライバーの演奏は、時間や時代というものを真に超越しているのだ。それはカルロスが、ボルヘスやマルケスやリョサによって時間を軽々と超越したり遡航したりする見事な名作(小説)が次々と生みだされた南米という風土で育ったということと、あるいは関わりのあることかもしれない。
そんななかでも、わたしにとって、カルロスの指揮した『ばらの騎士』(バイエルン国立歌劇場での公演が収録されたLD)だけは特別な存在で、オーケストラ・ピットに現れたカルロスが、拍手の鳴りやまないうちに振り向きざま指揮棒を振りあげ、あの華麗な前奏曲の豊穣な音楽をひきだす姿は、いつ観ても胸が締め付けられるほど興奮させられる。
来年(1994年)カルロスは、ウィーン国立歌劇場とともに来日し、わたしのいちばん好きなその『ばらの騎士』を演奏するという。そのチケットを手に入れたいだけのために、わたしは、4年間におよぶ来日オペラ公演の会員になり、けっして安くはない会費を払った。そしてわたしは、日一日と近づく“初体験”を前にして、いまのうちからうろたえているのである。ひょっとして、そのときわたしは、もう死んでもいいと思ってしまうのではないだろうか・・・。 |